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「記憶のゆりかご」

こんにちは。

『オレンジティーの涙』をご覧いただきありがとうございます。


第2章「記憶のゆりかご」では、優斗が兄弟とともに祖父の一周忌で田舎を訪れ、懐かしい記憶や静かな時間の流れと向き合います。


変わらない風景、祖父の部屋に残された空気、そして夢の中でのやさしい再会──

止まっていた何かが、ほんのわずかに動き出すような、そんな感情の揺らぎを感じていただけたら嬉しいです。


どうぞ、最後までゆっくりとお楽しみください。

 ――ジリリリリ。


 けたたましいアラーム音が鳴っていた。

 しかし、優斗の意識はそれをノイズのように受け流し、重たいまぶたを持ち上げることすらしなかった。

 目覚ましはベッドの脇で鳴り続け、数分後には静かに止まった。

 そして静寂が戻る。……が、それも束の間だった。


 着信音が枕元のスマホから鳴り響く。

 画面には、兄・直樹の名前。


 「……う、あ……はい、もしもし……」


 寝起きの声にしては酷すぎるほど掠れた声を出すと、スマホの向こうから、遠慮のない声が飛び込んできた。


 『おい、優斗。準備できてるか? もう少しで出発するぞ。遅れんなよ』


 「あ……ああ……分かった……」


 ようやく現実に引き戻された。休日の朝。

 今日は祖父の一周忌で、実家のある田舎へ墓参りに向かう予定だった。

 ここ最近では珍しく、仕事以外の予定がある日だ。だからこそ、どこか気が緩んでいたのかもしれない。


 顔を洗い、寝癖を押さえつけるように髪を整える。

 外はよく晴れていて、窓越しに春先の光がちらついていた。

 夢は見なかった。あるいは覚えていないだけかもしれない。

 けれど今朝の優斗の心は、不思議と穏やかだった。


 着替えを済ませ、集合場所へと向かう。

 兄・直樹の車が道の端に停まっていて、助手席には希空がスマホをいじりながら座っていた。


 「寝坊か。らしくていいけどな」


 直樹が鼻で笑うようにして言う。


 「……たまにはいいだろ」


 ぼそりと返しながら、優斗は後部座席に滑り込んだ。


 高速道路に乗り、車は南へと向かって走っていく。

 都心の喧騒から遠ざかるほどに風景はやわらかくなり、車窓の外に広がる世界はゆっくりとした色に変わっていった。

 車は山を越え、谷を抜け、懐かしい町へと入っていく。


 道幅はだんだんと狭くなり、アスファルトはひび割れ、所々に砂利が露出している。

 タイヤが砂利を踏みしめるたび、ゴリゴリと心地よくない音が車体に伝わってくる。


 「……あぁ、もうすぐだな」


 直樹が窓を開けると、風が一気に車内に吹き込んだ。

 森の湿った空気と、草木の香りが混じったような匂いが鼻をかすめる。

 都会では味わえない、懐かしくて野生的な香りだった。


 車はやがて、小さな橋の前で止まった。

 苔の生えたコンクリートの欄干。向こうには、田舎の家々がぽつぽつと並ぶ小さな集落がある。


 エンジンを切ると、耳に飛び込んできたのは、静かな水音。

 橋の下には小川が流れており、透明な水が石の間をぬるりと滑りながら、時折ぽちゃんと跳ねていた。


 「懐かしいな、この感じ……」


 希空がぽつりと呟く。

 それを聞いた優斗も、自然と目を細めた。

 川のせせらぎは、まるで記憶の底から優しく何かを呼び戻してくるようだった。


 耳を澄ますと、遠くの田んぼからカエルの鳴き声がちらほらと響いてくる。

 昼下がりの太陽が、広がる水田にキラキラと反射し、まるで時間が止まってしまったかのように、世界がゆっくりと動いている。


 「ほら、もう母さん来てるぞ」


 直樹が指さした先には、小道の先で手を振る母・美代子の姿があった。

 麦わら帽子をかぶり、日傘を片手に持っている。変わらない笑顔。変わらない姿。


 「よく来たね、あんたたち」


 いつもの調子で、母が近づいてくる。

 その声を聞いた瞬間、優斗の中に残っていた都会のざわめきが、すうっと静かにほどけていくのを感じた。


 都会の喧騒は、遠く遠くにあった。

 ここには、ただ風があり、水の音があり、土の匂いがある。

 それだけで、充分だった。

 母と合流し、挨拶もそこそこに、一同は祖父の墓がある小さな寺へと向かった。

 舗装されていない細い道を歩くたび、足元で小石が転がり、靴の裏が土埃を舞い上げる。

 陽がやや傾き始めた午後の空には、薄く雲が広がり、木々の隙間から差し込む光が、まだら模様を足元に描いていた。


 寺の境内に足を踏み入れると、ひんやりとした空気に包まれる。

 苔むした石畳、古びた本堂の軒先から吊るされた風鈴が、風に揺れて小さく鳴っていた。

 周囲を囲む杉の木は高くそびえ、その隙間から鳥のさえずりが落ちてくる。

 ここだけ時間が止まっているようで、息を潜めるように優斗は歩を進めた。


 墓前には、すでに線香の煙がほのかに漂っていた。

 母が手早く墓石を清め、小さな花を供える。直樹と亮が手を合わせる間、優斗は少し離れた場所で静かに佇んでいた。


 祖父の墓石を見つめながら、優斗はふと、祖父と過ごした子供の頃の夏を思い出していた。

 朝早く起こされてラジオ体操に連れて行かれたこと。

 畑で採れたばかりのトマトをかじりながら、涼しい縁側で将棋を指したこと。

 そして、最後に交わした会話。


 ──「時間はな、巻き戻せねぇけど、気持ちは立ち戻れることがある。忘れるなよ」


 あのときは、何を言っているのか分からなかった。

 けれど今なら、ほんの少しだけ、その言葉の意味がわかる気がした。


 「……じいちゃん、元気にしてますか」


 そう呟いて、手を合わせる。

 煙が風に乗ってゆらりと揺れ、空へと昇っていく。

 その行方を見送るように、優斗はしばらく目を閉じた。


 


 帰り道、母がぽつりとつぶやいた。


 「おじいちゃんの部屋、まだ片付けられなくてね。あのままなのよ」

「もし良かったら少し整理してくれると助かるわ。」


 「ああ……あとで少し寄ってみるよ」


 自然とそう答えていた。

 墓参りで胸の奥に火が灯ったわけじゃない。ただ、今なら少しだけ、あの部屋に足を踏み入れてもいい気がした。


 優斗の足取りは、行きよりもわずかに軽くなっていた。


 


 ……空が、夕暮れに染まり始めていた。

 田舎の空は広く、どこまでも見渡せる。

 雲が朱に染まり、影が長く伸びてゆく。


 その空の下で、優斗の背中は、少しだけしゃんとしていた

仏壇に線香を供えた後、優斗はふと、足が自然と祖父の部屋へと向いていた。


 襖を開けると、そこには変わらない静けさがあった。

 日の傾きが障子越しに差し込み、古びた畳と、木製の机、整理整頓された書棚を柔らかく照らしている。


 祖父──一ノ瀬慎一しんいちは、無口で頑固な人だった。

 けれど、優斗にとってはどこまでも温かく、優しい人だった。

 厳しくも思いやりがあり、背中で語るタイプの、昔ながらの男だった。


 小さい頃、両親が共働きだったため、優斗はよく祖父の家に預けられていた。

 祖父が庭で草をむしっていれば隣で真似をし、畑を耕していれば、小さなスコップを持ってついていった。

 物を作るのが好きな祖父が、木を削って作ってくれた手彫りのこまや、折り紙のカブト──

 今でも、祖父の手のぬくもりを思い出せるほど、優斗にとってその時間はかけがえのない宝物だった。


 まわりから「じいちゃん子だなあ」と笑われるほど、優斗は祖父に懐いていた。


 時が流れ、大学生になる頃にはあまり会う機会も減っていたけれど、それでも心のどこかでは、ずっと“自分の原点”のように思っていた。

 祖父がいたから、優斗は「家族」という言葉を信じてこれた。

 祖父のように、寡黙で真っ直ぐな人間に、いつかなりたいと、子どもの頃には本気で思っていた。


 そんな祖父が亡くなって、もう一年。

 祖父のいないこの部屋に、今こうして立っているという事実が、どうにも現実味を帯びてこない。


 「……じいちゃん」


 ぽつりと呟いて、机の上にあった懐中時計にふと目が留まった。

 掌に取ると、ひんやりとした金属の感触と、どこかしらぬくもりの残る重みが伝わってくる。


 カチン。


 蓋を開くと、止まったままの針が静かにそこにあった。

 時間の中に取り残されたようなその姿に、優斗は不思議と目が離せなかった。


 「……壊れてるのか?」


 手の中で、懐中時計を包み込む。

 それは祖父の時間に触れているような、不思議な感覚だった。


 机の引き出しを開けると、一冊の日記帳が出てきた。

 優斗はそっとページをめくる。


 ──「未来は、思うよりも遠くにある。そして、思うよりも近くにもある。」


 その言葉に、優斗は目を留めた。

 よくわからない。けれど、じいちゃんらしい、どこか含みのある言葉だった。


 彼は立ち上がり、祖父の部屋の全体を見渡す。

 色あせた畳、木の机、使い込まれた湯呑。

 小さな世界に、祖父の生きた時間が静かに息づいていた。


 


 ふと、空気が変わった気がした。


 音でも匂いでもない、肌にじんわりと伝わる、何か。

 “何かが動いた”──そんな直感が胸をかすめる。


 「優斗ー、飯できたぞー!」


 直樹の声が玄関の方から響く。

 その呼びかけに、優斗はハッと我に返る。


 手の中の懐中時計は、ただ静かに沈黙していたが──

 誰にも気づかれぬまま、秒針が「カチン」と小さく一つ、音を立てて動いた。


 優斗はそれに気づかないまま、

 部屋の明かりをぱちんと消して、懐かしい空気に別れを告げるように襖を閉めた。


台所と居間に顔を出すも誰もいない。

外から声がしたのでサンダルを履いて玄関の扉を開ける。

すっかり夜の帳は落ちているようで、夜風が心地よく、空にはうっすらと星が瞬いていた。


 庭では、七輪に火を起こし、バーベキューの準備が整えられていた。

 肉の焼ける音、醤油の焦げる香ばしい匂い、子どもたちのはしゃぐ声。

 お隣の家族も招かれており、庭はさながら小さな宴会のような賑わいを見せていた。


 母は慣れた手つきで野菜を焼き、兄の直樹は缶ビール片手にご近所のおじさんたちと談笑している。

 弟の希空は子どもたちに囲まれながら、焼きおにぎりを手際よくひっくり返していた。


 優斗は、そんな輪の中に自然と入っていけなかった。

 誰かに避けられているわけでもない。ただ、自分だけが、どこか違う時間を生きているような気がして──輪の外に立つことを選んだ。


 庭の隅に置かれた椅子に座り、ビールを片手に無言で空を見上げる。

 星は、思ったよりも近くて、だけど手の届かないもののように遠かった。

 田舎の夜空は、都会とは違って、星がいくつも瞬いていた。

 まるで、暗闇に浮かぶ宝石のように、静かに、そして確かに輝いていた。


 そっと裏庭へと足を運ぶ。

 家の裏手は、表の賑わいが嘘のように静まり返っていた。

 遠くからは春の虫達のの鳴き声が、草むらの方からうるさい程響いてくる。

 風に揺れる葉音すら聞こえそうな静寂が、夜の空気を一層深く感じさせた。


 ポケットからタバコを取り出し、一本咥えて火をつける。

 小さな炎が瞬き、煙がゆるやかに宙へ溶けていった。


 「……はぁ」


 煙と一緒に、小さくため息を吐く。

 ふと、心の中に浮かんできたのは、あの柔らかな声だった。


 


 ──「私はタバコ吸ってる人、嫌いだから。もし優斗くんが吸ったら、きらいになるんだからね」


 


 くす、と自然と笑みがこぼれた。


 大学三年のある日。授業帰りに、美咲とよく通っていたバーガー屋で、二人並んで座っていた。

 窓の外では、サラリーマン風の中年男性がタバコをふかしながら、ぼんやりと夜空を見上げていた。


 「俺も……タバコ吸ってみようかな」

 そう口にして、優斗はふざけたように言った。

 「なんかさ、大人っぽく見えるし。かっこよくない?」


 「え?」と目を丸くした美咲は、少しだけ眉をひそめて、

 「私はタバコ吸ってる人、嫌いだから」と拗ねたように言った。


 「もし優斗くんが吸ったら、きらいになるんだからね」


 あのときの真剣な目と、照れくさそうな笑みが脳裏に蘇る。


 今の俺を見たら──きっと、真っ先に嫌うだろうな。


 それでも。

 それでも、彼女のことを思い出すだけで、胸があたたかくなる。


 「……ほんと、馬鹿だな俺」


 呟いて、少しだけ目を細めた。

 頬がゆるみ、煙草を咥えたまま、小さく笑った。


 切なさと愛しさが同居する、静かな夜。

 裏庭の草むらでは、まだ虫の音が絶え間なく響いていた。


裏庭から戻ってきた優斗は、玄関の引き戸をそっと開けた。

 リビングからはまだ宴の余韻が続いているようで、笑い声とグラスのぶつかる音が微かに聞こえていた。


「もう寝るね」と、誰にともなく告げたその時だった。


「おい、待てって。たまには飲めよ」

 リビングから声が飛んできた。直樹だ。

 振り返ると、ちゃぶ台のまわりに直樹と希空、それにお隣の夫婦である中嶋さん夫妻の姿があった。皆ほろ酔い加減で、すっかり和んだ様子だった。


「珍しく家族揃ってるんだ。ちょっとだけでもいいだろ?」

 直樹の笑顔に押され、優斗はしぶしぶテーブルの端に腰を下ろした。


 台所では母・美代子が洗い物をしながら、ちらちらとこちらの様子を伺っている。

 ときおり話に口を挟んでは、「あんたたち、飲みすぎないでよ」と笑いながら言った。


 グラスに注がれたビールをひと口だけ口にした優斗は、なんとなくテーブルの会話を聞きながら、おじいちゃんのことを思い出していた。

 あの懐かしい笑顔、古びた帽子、そしていつも手入れしていた小さな庭。


 ふと口を開いた。


「じいちゃんってさ、後悔してたこと……あったのかな」


 言葉に皆が少しだけ静かになった。

 直樹が優しく笑って、ビールを口に含みながら言った。


「優斗はじいちゃんっ子だったもんなぁ。よく庭にくっついて歩いてたよな。小さい頃なんか、じいちゃんの草刈りにも毎回付き合って、虫に刺されて泣いてさ」

 そう言って懐かしむように目を細めた。


 すると、隣の中嶋さんがグラスを置き、ぽつりと話し始めた。

「後悔とまでは言わんけどな……お前たちが大人になって、めっきり顔を見せに来なくなったって、じいちゃん、寂しがってたぞ」


 その言葉に、優斗の胸がすこしだけチクリと痛んだ。

 確かに、大学に入ってからはずっと忙しくて、わざわざ実家に戻ることも少なくなっていた。


「そうだったんだ……」


 思わずつぶやいたその声に、台所で洗い物をしていた母が、ふっと手を止めて言った。


「でもね、あの人はあんたたちの話をする時、本当に嬉しそうな顔してたよ。『元気にやってるみたいだな』って。

 “励んでるなら、それでいい”って言ってね。機嫌がいい日はねぇ、お酒の量もいつもよりちょっと多かったのよ」

 そう言って、美代子は照れくさそうに笑った。


 グラスの中の泡が、静かに弾けては消える。

 それぞれの胸の中に、懐かしい祖父の姿が浮かんでいた。


 そんな温かな時間も、やがてゆっくりと終わりの気配を帯びはじめる。

 「そろそろ帰るわね」

 中嶋さん夫妻が立ち上がり、軽く挨拶をして帰っていく。


 「じゃあ、俺も風呂入って寝るわ」

 直樹が伸びをしながら部屋を出て行き、希空もその後に続く。

 母も台所の明かりを落とし、「おやすみ」と声をかけた。


 ひとり残されたリビング。

 テーブルの上には、半分飲みかけのグラスと、微かに漂う晩酌の匂いだけが残っていた。


布団に横になった優斗は、ポケットから懐中時計を取り出すと、天井へ向けてそっと持ち上げた。


 ぼんやりとした灯りに照らされるその古びた銀の時計は、静かに針を止めたまま、ただそこにあった。


 「……じいちゃん、俺……もっと何か、できたんじゃないかな」


 天井を見つめたまま、ぽつりと漏れる独り言。


 あの穏やかな背中に、もっと声をかけていれば。

 あの笑顔を、もっと見ておけばよかった。


 後悔は、いつも手遅れになってからやってくる。

 夜の虫たちが、草むらの奥でキリキリと鳴いている。遠くで風が枝を揺らす音が、かすかに耳を撫でた。


 時計を胸の上に戻し、目を閉じる。

 意識はやがて、静かな深みに沈んでいった。


 ──夢の中だった。


 立ち枯れた田畑の向こうに、懐かしい庭があった。

 祖父がいた。麦わら帽子をかぶり、あの頃と変わらない姿で、縁側に腰を下ろしていた。


 「じいちゃん……」


 その声に気づいたのか、祖父がゆっくりと顔を上げ、優しく微笑んだ。


 「落ち込んだっていい。立ち止まったっていいんだよ、優斗」


 その声は、あたたかく、どこまでも優しかった。

 「お前の根っこにあるもんはな、じいちゃん、ちゃんと分かってる。だからさ、自分のこと……大事にしろ」


 優斗は、言葉が詰まりそうになりながら、それでもどうしても言いたくて、唇をかすかに震わせた。


 「じいちゃん……何もできなくて、ごめんな」


 祖父は、にっこりと目を細めて、首を横に振る。


 「心配するな。……優斗。またな」


 そう言い残して、祖父はゆっくりと立ち上がり、霧の中へと歩いていった。

 その背中は、どこまでも大きく、そして静かだった。

 じいちゃんとの再会の時間は、指の隙間から零れ落ちるように過ぎていった。

長かったのか短かったのか、それすら曖昧なまま…

 それらが胸の奥に、ゆるやかな波のように残っていた。


 ──ふと、目が覚めた。


 天井が、まだ薄暗く霞んでいる。

 遠くで鳥が鳴いていた。


 夢とは思えないほど鮮やかで、目覚めてもなお胸が締めつけられるようだった。

 けれどその痛みの向こう側に、どこか懐かしく、あたたかな光が静かに灯っていた。


 夢の余韻に身を包まれたまま、優斗は静かに上体を起こす。

 窓の外では、山の端から差し始めた朝の光が、少しずつ部屋の中へと染み込んでくるようだった。


 襖を開けると、温かな匂いがふわりと鼻先をくすぐった。

 台所では母が鍋をかき混ぜている。湯気の向こうで、鼻歌が小さく響いていた。


 居間では、直樹と希空がすでに朝食を囲んでいた。

 玄関の傍らには、それぞれの荷物がきちんと並べられている。


「お、やっと起きたか」

 直樹が湯呑みを片手に、目を細めた。


「早くしないと、先に帰るからな」

 希空が冗談交じりに言いながら、おかわりの茶碗を手にしている。


 優斗は小さく頷くと、自分の荷物をまとめて廊下に置き、ちゃぶ台の前に座った。

 母がよそってくれた味噌汁の香りが、静かに心をほどいていく。

 ひとくちすすると、出汁のやさしい味が舌に広がり、胸の奥までじんわりと温まるようだった。


 変わらない、けれど確かに大切な朝。

 その静かな時間を三人で分かち合い、「ごちそうさまでした」と声を揃える。


「じゃあ、俺たち、もう帰るな」

 直樹が立ち上がりながら言った。


 台所から顔を出した母は、手を拭きながら微笑む。


「気をつけるんだよ。……ちゃんとごはん食べてるか見張っててね、直樹」


「はいはい、了解です」

 直樹が笑いながら答えた。


「いや、それ俺の役目じゃない? 二人ともズボラすぎるんだから」

 希空の一言に、優斗は苦笑し、母はくすくすと楽しそうに笑った。


 玄関先には、朝の光がまっすぐに差し込んでいる。

 そのやわらかな輝きに背を押されるように、優斗は靴を履きながら空を見上げた。

 高く澄んだ空には、どこまでも続いていく道があるように思えた。


「じゃ、行ってくるね」


「うん、気をつけてね。……たまには電話もしてきなさいよ」


 母の声が、やさしく背中を包んでくるようだった。


 三人は門を出て並んで歩き出す。

 空気はまだ少し冷たく、それでもどこか心地よかった。


「じいちゃん、ほんとに夢に出てきたの?」


 希空がふいに尋ねた。


「……うん。出てきた気がする」


「ずるいな。俺も会いたかった」


「……また、会えるよ。きっと」


 その言葉に、希空はうなずき、歩を進めた。


 優斗はポケットの中に手を入れ、懐中時計をそっと握りしめた。

 金属の冷たさが、なぜかぬくもりのように感じられた。


 その瞬間――


 懐中時計の中で、止まっていたはずの秒針が、誰にも気づかれぬまま、「カチッ」と小さく音を立てて動いた。


 優斗はそれに気づかぬまま、直樹と希空のあとを歩き、朝の光の中へと溶けていった。


 何も変わらないようでいて、確かに――静かに、なにかが動き出していた。





ここまでお読みくださり、ありがとうございました。


第2章では、祖父との思い出や、日常のなかに潜む静かなあたたかさを丁寧に描いてみました。

時間とは何か、記憶とはどこへ向かうのか──

そんな問いに、優斗自身がほんの少しだけ耳を澄ませるような、やさしい時間になっていれば嬉しく思います。


祖父の声、懐中時計、田舎の朝の匂い。

読んでくださった皆さまの心にも、なにか一つでも残るものがあれば幸いです。

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