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「消えない過去」

はじめまして、この物語を読んでいただきありがとうございます。

「オレンジティーの涙」、第1章をお届けします。


主人公・一ノ瀬優斗が過去と向き合うためにタイムリープする物語です。

優斗が抱える後悔、そして家族や友人たちとのつながりが物語の中でどう形になっていくのか。

彼がどんな決断をし、どう変わっていくのか、少しでも気になる方はぜひ読み進めていただけたら嬉しいです。


私も優斗のように何度も迷ったり、後悔したりすることがあります。

でも、そうした悩みや痛みも、大事な経験だと思っています。

優斗の成長とともに、少しでも前向きになれるような気持ちをお届けできたらなと思っています。


ぜひ感想やコメントをいただけると、励みになります!

よろしくお願いします。

 朝焼けが、まだ眠りきらない街の輪郭を、ぼんやりと浮かび上がらせていた。


 優斗は、目覚ましのアラームよりも早く目を覚ました。

 暗い天井を見つめたまま、しばらく動けずにいた。夢の断片が、まだ鮮明に瞼の裏に残っている。


毎朝セットしているスマホのアラームが鳴る前に、目が覚めていた。


 手探りで枕元のスマホをつかみ、画面を確認する。

 表示された日付が、瞼の裏にじんと焼きつく。


 2032年3月14日(火) 午前4時52分。


 いつもの朝。何も変わらない朝…


 寒い…

 毛布を引き寄せたが、温もりはすぐに逃げていく。


 「……はぁ」


 吐息が、空気の冷たさを証明していた。


 狭いワンルームの部屋。カーテンの隙間から覗く朝日が、微かに床を照らしていた。

 ベッドの脇には、読みかけのままの文庫本、埃を被った大学時代のノート。

 時計の針が、カチリと小さく音を立てた。


 憂鬱な気持ちを拭いきれないまま、重い腰を引きずり起き上がる。

部屋を出てキッチンを通り過ぎ洗面所へと向かう。台所の蛇口から、ぽたりと水滴が落ちる音が耳に刺さった。

 誰もいないはずの部屋に、その音だけがやけに大きく響く。


洗面所で顔を洗っても、まだ目の奥に眠気が残っていた。

重くのしかかる気だるさは、冷たい水でも洗い流せない。

鏡に映った自分の顔には、深い隈と乾いた目元。

生気を失ったようなその表情に、思わず視線を逸らした。


 これが俺、一ノ瀬優斗。三十二歳。夢も希望も情熱も、どこかに置き忘れたまま、警備員として日々を消費している。

洗面台を後にし、足取り重くキッチンへ向かう。

 いつもの流れでポットに水を入れ、スイッチを押す。低い音とともに湯が沸き始める気配がした。

 棚の奥からインスタントコーヒーの瓶を取り出し、コップにスプーン一杯を入れる。手慣れた動作だが、どこか機械的だった。


 ふと目に入ったのは、棚の横に置かれた食パン。パッケージの端を見れば、賞味期限は三日前に切れていた。

 もとより食欲はないが、何か胃に入れておいたほうがいいだろうと、冷蔵庫を開ける。

 その中身はあまりに殺風景で、並んでいるのは調味料、エナジードリンク、そしてヨーグルトが一つ。


 ヨーグルトを手に取り、無言で机に置いた。

 それから、何を見るでもなくぼんやりと宙を見つめ、意識が遠のくような感覚に身を任せる。


 フツフツとお湯の沸き立つ音が現実へと引き戻す。

 立ち上がり、コップにお湯を注ぐ。淡い湯気が立ち上るその姿を見つめながら、机に運んだ。

憂鬱さは、相変わらず胸の奥にこびりついたままだ。

優斗は椅子に腰を下ろし、深く息を吐くと、無言のままヨーグルトの蓋を剥がす。

スプーンを口に運んでも、味は感じなかった。

何を食べているのかさえ曖昧で、ただ機械的に、口へと運び続けるだけだった。

  食べ終えると、再びコーヒーの湯気をぼんやりと眺めた。

 静まり返った部屋の中、時計の音がやたらと鮮明に聞こえた。

何もない静けさの中、過去の自分がふいに顔を出す。

 大学生活も終盤に差しかかっていた頃。

美咲とは、付き合って一年が経とうとしていた。

彼女は、いつも人前では穏やかに微笑んでいて、誰からも好かれる存在だった。

けれど本当は、少し傷つきやすくて、感情の揺れが表情に出やすい、繊細な人でもあった。

紫陽花のように、見るたびに違う色を見せてくれるような感情の豊かさを持ち合わせていて、

黒髪が、その静かな強さをいっそう引き立てていた。

彼女と過ごす時間は穏やかで、どこか“未来”を感じさせてくれるものだった。

けれどその一方で、胸の奥にはいつも焦りがあった。

周囲が就職先を次々と決めていく中、自分だけが取り残されているような感覚。

思えば、あの頃の俺は見栄や焦燥に支配されていたのかもしれない。

——そんな時だった。

“ある男”が、まるで俺の心の隙間を見透かしたように近づいてきた。

「短期間で確実にリターンがある」

「上手くいけば、美咲との将来も安泰だよな?」

そんな言葉に、俺はあっさり飛びついた。

……今思えば、信じられないほど稚拙だった。

美咲は止めてくれていたのに。

「優斗くん、何かおかしいよ。そんなにうまい話、あるわけない」

でも俺は、自分の考えがすべて正しいと信じて疑わなかった。

人の忠告に耳を貸すこともしなかった。

彼女に対しても、自分の意見を押しつけてばかりだった。

 ──気に入らないことがあれば、勝手に怒って。

 ──意見が合わなければ、すぐに不機嫌になった。

 彼女の優しさに甘えて、当たり前のように彼女を傷つけた。自分の傲慢さが招いた結果だ。

それが、すべての始まりだった


現実は、あっけなかった。


 投資話は真っ赤な詐欺で、残ったのは多額の借金と、どうしようもない自己嫌悪だった。


 すべてが壊れたのは、そのすぐあとだった。


 彼女と付き合って一年が経とうとしていた。

 春になれば就職して、一緒に新生活を始めようって話していた。

 なのに、俺は自分の手でその未来を台無しにしてしまった。


 ──ごめん。

 その言葉を言えたのは、ずっとあとになってからだった。


詐欺に遭った直後の記憶は、今でも断片的にしか思い出せない。


 大学も、やめた。単位もほとんど残っていなかったけど、卒業する意味が見えなくなった。

 教授に呼び出されても、友達に連絡されても、全部無視した。部屋のカーテンを閉め切って、携帯の電源も落として、ひたすら布団にもぐっていた。


 朝になっても、起きる理由がない。

 誰とも会いたくなかったし、声を聞かれるのも怖かった。


 家族には、何も言えなかった。

 借金を抱え、夢も将来も全部なくした情けない自分を、どう説明すればいいのか分からなかった。


 ただ、時計の針の音と、冷蔵庫のモーター音だけが、暗い部屋の中で響いていた。

 世界が止まったような、けれど無慈悲に時間だけは流れていく、そんな毎日を送り一年が通り過ぎていた。


 一日中、カーテンは閉じっぱなしで、テレビの音も、スマホの通知音も鳴らない。

外の世界と繋がっている実感なんて、ほとんどなかった。

 そんな中で、唯一、定期的に鳴るインターホンの音だけが、俺がまだ社会と繋がっている証のように思えた。

その日もまた、無機質な電子音が部屋に響いた。

「……優斗、いるんだろ。鍵、開けるぞ」

聞き慣れた、けれど少しだけ久しぶりに感じる声。

兄の直樹だった。

 俺が知らないうちに、どうやら合鍵を作っていたらしい。

実家で暮らしていたはずの兄が、何の前触れもなくドアを開けて入ってきたとき、俺は声も出せずに固まった。


 「お前さ……いつまで逃げてるつもりだよ」

 俺がこの部屋にこもって何をしているのか、きっと全部お見通しなんだろう。

そう思うと、途端に胸の奥がズキリと痛んだ。

けれど、不思議なことに、兄のその声には、冷たさがなかった。

ただ、心配しているだけの、真っ直ぐな声だった。

「……なんだよ、急に……」

口の中で小さく呟いたあと、俺は立ち上がった。

足は重かったけれど、それでも少しだけ、部屋の空気が変わった気がした。


 しばらくして、兄が言った。

 「うちの会社、警備員の人手が足りてない。お前、やってみるか?」

 最初は、断った。そんな資格もないし、人と関わるのも怖かった。


 「今のお前には、“外”が必要なんだよ」

その言葉が、まっすぐ胸に刺さった。

無理に励ますでもなく、責めるでもない、ただ淡々とした声。

だからこそ、余計に響いたのかもしれない。

気づけば、どこかで納得してしまっている自分がいた。

「くよくよしてても、仕方ないだろ」

そんな兄の表情が目に浮かび、思わず視線を落とす。

「……分かったよ」

絞り出すようにそう言った声は、自分でも驚くほど小さかった。


 こうして俺は、警備員として働き始めた。

 特別な才能があるわけじゃない。ただ、真面目に出勤して、事故を起こさず無事に一日を終える。

 それだけの毎日が、少しずつ自分を取り戻すきっかけになっていった。


 ──でも、過去はそう簡単に消えてくれない。


 仕事の帰り道、ふと目に入った春の花に、彼女の笑顔が重なったり。

 カフェの窓際に座るカップルを見て、昔の二人を思い出したり。


 もう戻らないとわかっていても、心のどこかに、あの頃の自分を許せずにいる。


 あの時、彼女の言葉に耳を傾けていれば。

 あの時、もっと素直でいられたなら──


 そんな「もしも」を、何度も、何度も思い描いては、現実に引き戻される。


 気がつけば湯気が立っていたコーヒーもすっかり冷めてしまっている。

冷たく苦味が強くなったコーヒーを啜る。

ふと時計を見ると家を出るまであと五分程しかなかった。

 部屋に干してある生乾きの制服に裾を通して急いで準備をする。

いつも出勤をする時は近くに住んでいる兄が迎えにきてくれる。


 外から車のクラクションが、一度だけ短く鳴った。

兄が到着した合図だ。

冷えた空気の中を重い足取りで玄関へと向かう。

 ドアを開けると、外の風が頬を刺すように吹きつけた。ポケットに手を突っ込みながら、小さく背を丸める。


 マンションの前には、見慣れたグレーの軽ワゴン車。助手席の窓が下り、運転席から兄の直樹が顔を出す。


「おはよう、ほら、早く乗れ。遅れるぞ」


 そう言って、直樹は軽く笑った。


 助手席に滑り込むと、エンジンの熱でほんのりと温められた空気が、体を包み込む。

 後部座席には、弟の希空がイヤホンを耳に突っ込んだままスマホをいじっていた。

挨拶もそこそこに、チラとこちらを見て軽く頷く。


「今日は日曜だから現場も多い。渋滞に巻き込まれないといいけどな」


 直樹がそう呟きながらハンドルを握る。

車が静かに走り出す。


 車内では、ラジオから流れる朝のニュースと、タイヤがアスファルトを擦る音だけが鳴っていた。


 優斗はぼんやりと前を見つめたまま、ぼそりと口を開いた。


「……ありがとう、今日も迎えに来てくれて」


 直樹は前を向いたまま、「気にすんな」と短く返した。


 そんな些細な会話すら、どこか暖かく感じた。

 けれど心の奥には、今日という一日がまた、何も変わらずに過ぎていくのだという予感が、重たく沈んでいた。


車は、朝の通勤ラッシュを避けるように裏道を抜けていく。

 窓の外には、まだ眠たげな街が流れていた。高層ビルの隙間から、ゆっくりと陽が昇っていくのが見える。


 「今日、午後の現場どこだって?」


 希空が不意にイヤホンを外し、眠たそうな声で言った。


 「たぶん、池袋の再開発現場。人数少ないから応援頼まれるかもな」


 直樹がそう返すと、希空は小さく舌打ちした。


 「マジかよ……あそこ風強いし、だるいんだよな」


 「バイトの分際で文句言うな」


 優斗が軽く笑いながら突っ込むと、希空は「はいはい」と投げやりに笑って、またイヤホンを耳に戻した。

 こういう、どうでもいい会話が続く朝が、なんだかんだで嫌いじゃない。

 でも、それはきっと“何かに満たされてる”からじゃない。ただ、空っぽに慣れてしまっただけだ。

車が職場の事務所に滑り込むと、早朝の薄明かりの中に建設現場の資材置き場やヘルメット姿の人影がぼんやりと浮かび上がった。

 まだ完全に目覚めきっていない街の音に混じって、トラックのエンジン音が低く唸る。工事現場特有の、鉄の匂いと埃っぽい空気が鼻をついた。


 直樹は慣れた手つきで車を停めると、後ろを振り返り、助手席と後部座席に声をかける。


「今日の持ち場は川口の開発現場。優斗は北門、希空は西側の誘導頼む。俺は南口まわる」


「了解……」と、優斗は短く答えてヘルメットを手に取り、車を降りた。


 現場はすでに動き出しており、黄色の安全ベストを着た作業員たちが、それぞれの持ち場へと急いでいた。

 優斗もその一人として、ゆっくりと歩きながら北門へ向かう。

 持ち場に着くと、工事用車両の出入りを誘導する立ち位置へと立ち、手元の赤い誘導棒を確認する。


 業務は単調だ。

 出入りするトラックに対して「止まってください」と腕を上げる。通行人が来れば軽く会釈し、安全な道へと導く。

 そしてまた、数分間、誰も来ない時間が流れる。まるで、世界から切り離されたような静寂。


 冷たい風が制服の隙間を抜けていく。指先がかじかむ。耳にイヤホンも入れず、ただ時間の経過をじっと耐えるだけの数時間。

 時折無線で兄の声が入る。

 それに短く応答する以外、誰とも言葉を交わさない。


 昼食は、事務所に戻ってコンビニ弁当をレンジで温めたものを三人で並んで食べた。

 会話は必要最低限。弁当の蓋を開ける音と、箸が容器に当たるカチャカチャという音だけが、静かな空間に響いていた。


 日が傾きかける頃、ようやく業務が終了する。

 現場のゲートを閉じ、装備をまとめて車に乗り込む頃には、夕焼けが街を赤く染めていた。


「お疲れ。今日は寄り道せずに家戻るからな」と、直樹。


 その言葉に、優斗も希空も無言で頷いた。


 兄の家は会社のすぐ近くにある小さな一軒家で、かつて家族で暮らしていた実家を直樹が引き継いで住んでいる。

 希空は高校卒業後すぐに就職し、今は直樹と同居している。

 一方で優斗だけは一人暮らしを選んでいた。理由は明確に言葉にしたことはないが、自分の情けなさを、身内に見せ続けるのが耐えられなかったのだろう。


 家に着くと、直樹が台所に立ち、手際よく夕食の準備を始める。

 焼き魚、味噌汁、冷奴。手慣れた家庭料理に、希空が冷蔵庫からビールを取り出して並べる。


「ビールいるか?」と希空に聞かれたが、優斗は首を横に振るだけだった。


 食卓を囲む三人。

 昔はもっとにぎやかだった気がするが、今ではそれぞれが黙々と箸を進める。


 それでも、温かいご飯と、家族の気配は、心の隅にほんの少しの安らぎをくれる。

 美咲との別れ以降、自分の居場所が曖昧になっていた優斗にとって、こうした時間は、まだぎこちないながらも確かな繋がりだった。


 夕食が終わると、少しだけテレビを眺めた後、優斗は「そろそろ帰るわ」と立ち上がった。


 直樹が、「夜道気をつけろよ」とだけ言い、希空はソファに寝転んだまま手を挙げた。


 家を出た瞬間、夜風が容赦なく肌を刺した。

ジャケット越しにも、寒さがじわりと身体の奥に染みてくる。

 街はすっかり眠りにつき、街灯の下を歩く自分の影だけが、長く伸びてついてきた。


 部屋に戻ると、朝と変わらない静けさが迎えた。

 制服を脱ぎ、シャワーを浴びる。


 風呂からあがり、ぬるくなった部屋に戻る。髪を拭きながら、ソファに身を沈める。

 変わり映えのしない、いつもの日常。

 そんな日常が続くと周りへの関心も興味も湧かなくなっていく。


 今日も、特別なことは何も起きない

それが現実。


 だが、胸の奥には、もう一つの世界が眠っている。

 あの日、あの時、選ばなかった未来。

 取り戻せるものなら――優斗はふと、そう考えていた。

 風呂上がりの湯気がまだ身体にまとわりついていた。

 バスタオルで頭を拭きながら、優斗は一息ついてリビングの椅子に腰を下ろす。

 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ごくりと喉を潤すと、ふとスマホの通知音が鳴った。


 画面には一件のメッセージが届いていた。

 差出人は、大学時代からの親友・和樹だった。


 お互いにゲーム好きという共通点で意気投合し、卒業後も連絡を取り続けている数少ない友人。今でもたまに、仕事終わりにボイスチャットを繋ぎながらオンラインゲームをする仲だ。


 メッセージの内容を見て、なんとなく笑みがこぼれる。きっと今日もゲームの誘いだろう。

 優斗は簡単に返信を打ち、自室のパソコンの電源を入れた。


 ゲームを起動すると、すでに和樹のキャラクターが待機していた。

 ボイスチャットを繋ぎ、優斗は覇気のない声で「お疲れ」と呟く。


 「お疲れ様! 新しいモードが追加されたからお前と一緒にやりたくなっちゃってさ!」


 どこにそんな体力があるのかと呆れるほど、和樹の声はいつも通り元気だった。


 「結衣も一緒にやりたいって言うんだけどいいよな?」


 返事をする間もなく、もう一人のキャラクターがグループに入ってきた。

 和樹の嫁・結衣もまた、大学時代からの友人のひとりだ。


 当時は何かと衝突していた二人だったが、卒業後に付き合い始め、いまでは夫婦となった。

 優斗にとって、彼らだけが唯一、昔と変わらぬまま続いている大切な関係だった。


 「よっ、ゆーちゃん元気〜?」

 「なんか久々よね〜」


 明るい声で話しかける結衣に、優斗が返事をしようとした瞬間、和樹が間に割って入る。


 「いいから早く始めようぜっ」


 その言葉と同時に、ゲームのスタートボタンが押される。


 たわいもない夫婦の掛け合いを聞きながら、ゲームをしていると、あっという間に二時間が経っていた。

 何気ない時間だったが、優斗にとってはかけがえのないひとときだった。


 二人のやりとりを聞いているだけで、自分も少しだけ元気になれる気がした――

今の優斗にとっては大切な癒しの時間でもあった。

 時計を見ると、すでに日付は変わっていた。午前零時を過ぎている。


 「……今日は、寝れるかな」


 つぶやいた声が静まり返った虚空に溶けていく。

 カーテンの隙間から覗く街の明かりが、ぼんやりと天井を照らしていた。目を閉じると、いつもより早く、夢の世界へと引き込まれていった。


 ――それは、優しい夢だった。


 晴れ渡る空の下、どこか懐かしい喧騒が耳に届く。

 遊園地のアナウンス、遠くで響くジェットコースターの悲鳴。隣では、美咲が子どものようにはしゃいでいた。


 「ねぇ、早く行こ!次は観覧車!」


 そう言って優斗の手を引く。小さな手なのに、強くて温かい。

 振り返る彼女の笑顔が、太陽に照らされてきらきらと輝いていた。

 その瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。愛おしさに、心が満たされていく。


 ――でも、次の瞬間、風景は音もなく崩れ落ちた。


 気がつくと、優斗は静まり返った夜道に立っていた。

 店の灯りはまばらで、足元に落ちた街灯の影がやけに長い。


 「今日は、ありがとう。楽しかったよ」


 彼女はそう言って、帰ろうとする。

 なぜだか、優斗はもう会えない気がした。胸がざわついて、気づけば彼女を強く抱きしめていた。


 「……美咲」


 名前を呼ぶ声は震えていた。彼女も何かを感じ取ったのか、ほんの少し黙って、それから静かに笑った。


 「……またね」


 

彼女の声が遠ざかると同時に、優斗はゆっくりと目を覚ました。

 天井を見つめる。重たい身体をようやく起こすと、部屋の静けさがいつも以上に胸に刺さるようだった。

いつものように現実が押し寄せる。

何も変わらない、色のない日常。

それでも、あの夢だけは、胸に何かを残していった気がした。

オレンジティーの香り。

 彼女が笑って手を引いた温もり。

そして別れ際の、忘れられない「またね」の声。

ただの夢だと、自分に言い聞かせる。

けれど、それでも̶̶

 もしかしたら、ほんの少しだけ。

何かが、変わり始めているのかもしれない。

 その感覚は、まるで冬の夜の風の中に灯る、小さな焚き火のようだった。

すぐに消えてしまいそうで、それでも、確かにそこに在った。

 優斗は目を閉じ、深く息を吐いた。

何も変わらない朝がまた来る。

だけど今夜だけは、その予感を信じてみたかった。背中と、滲んでいく街の灯り。


 毛布の中で丸まったまま、しばらく動けずにいた。夢の中の光、彼女の笑顔、手のぬくもり……すべてが、まるで遠い昔の記憶のように思えた。


 「……また、か」


 寝返りを打つと、背中にシーツの冷たさが触れる。

 あの夢を見た日は、決まって目覚めがつらい。楽しかった記憶ほど、今の自分と乖離していることに気づかされるから。


 スマホを手に取り、時間を確認する。

 五時四十三分。アラームは鳴っていないが、もう二度と眠れそうにない。


 重たい体を起こし、カーテンを少しだけ開ける。窓の外には、どんよりとした灰色の空が広がっている。

すでに街は動き始めているようだ。

 人の気配はまだまばらで、どこか一人だけ取り残されたような空気が漂う。

 窓ガラス越しに見えたその虚ろな目を見つめ先程の夢の続きを思い出そうとするが、すでに彼女の声は霞みかけていた。

 覚えていたいのに、どんどん輪郭が曖昧になる。

 それが何よりも、怖かった。


今日の夢は、いつもより鮮明に感じた。

 まるで、本当にあの頃の空気を吸っていたような、生々しい感覚が、胸の奥に残っている。


「……正夢、だったらいいのに」

モノクロな現実を否定するように自分の世界にふける。そんな事は起きないと分かっていても考えられずにはいられなかった。

 やがて昨日セットしたアラームが騒がしく鳴り始める。

 ゆっくりとまた現実の流れに身を任せるように、身支度を始めた。

 それがどんなに味気なく、心を削るものであっても。

 それでも日常は続いていくのだ――美咲のいない、取り戻せない今日がまた、始まる。




ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!

第1章はいかがでしたか?


優斗の心情や過去を少しずつ掘り下げていきましたが、彼の心の中で何か変化が起きる瞬間を感じてもらえたら嬉しいです。

最初はうまくいかないことが多くても、少しずつ前進していく彼の姿を見守っていただけたらと思っています。


この物語、まだまだ続きます。これからも優斗の成長や彼の周りの人たちとの関わりがどうなっていくのか、楽しみにしていただけると嬉しいです。

感想やアドバイス、コメントをぜひお寄せください!

皆さんの意見が次の章を書く力になります。


また次回の更新でお会いできることを楽しみにしています。どうぞよろしくお願いします!


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