088.身分
「聖女殿、また明日こちらに」
「はい、宰相様」
魂が抜けそうなイワライとお辞儀をして宰相室を出ると、扉を閉めた瞬間にイワライの腰が砕けた。
あ、初めてコヴァック公爵とロウエル公爵に会った時の自分と一緒だ。
「君、ホントにすごいね」
イワライは土下座に近い姿で何度もありがとうとヒナにお礼を言った。
ここは宰相室の扉の前。
たぶんイケオジ3人には聞こえているだろう。
「君を利用しようとしたのにどうして?」
結局、この国の王太子と結婚も、他国の王子と結婚も条件になかった。
チェロヴェに慰謝料請求と、イワライの父を差し出すように求めるという話で落ち着いてしまった。
慰謝料は聖女のためだが、イワライの父は何のメリットもないのに。
「アレクサンドロ王太子殿下とユリウス様が、あなたは良い人だって」
聖女とユリウスの妹は別人。
アレクとお兄様とは呼べない。
もちろん宰相も父ではなく宰相様だ。
「……それだけ?」
「それだけ」
泣きながらフハッと吹き出すイワライ。
「ホントに敵わないね」
聖女ってすごいなぁと、立ち上がった。
タオルで涙を拭き、はぁっと息を吐く。
「家庭教師をしていて良かった」
心の底からの呟きに今度はヒナが笑った。
イワライと豪華な赤絨毯を歩き、大きな扉を出ると目の前には心配そうな顔のランディ。
「迎えに来てくれたの?」
「……そうだよ」
一人で行ってしまったからねとランディは困った顔をする。
「用事は終わったかい? 夕食を食べて帰ろう」
準備していないだろう? と言うランディにヒナは頷いた。
「今日は本当にありがとう」
イワライはヒナとランディにお辞儀をし、中庭の辺りで別れる。
これでイワライはアレクサンドロとユリウスを裏切らずにすむ。
ヒナはホッと一息ついた。
ランディとカフェテリアの個室で食事をし、アレクサンドロの部屋に戻る。
「ありがと、ランディ」
聞きたいことはあるはずなのに何も聞かずに送ってくれたランディにヒナはお礼を言った。
「ただいま、アレク」
「……遅かったな」
時計は夜8時。
ユリウスはもう帰ってしまった。
こんな時間までランディと一緒だったのか。
やっぱりヒナはランディが好きなのだろうか。
アレクサンドロは目を伏せた。
「おやすみランディ」
「おやすみ。アレク、ヒナ」
手を振って去っていくランディ
アレクサンドロは溜息をついた。
ヒナがシャワーを浴びて部屋に戻ると、狼のアレクサンドロがベッドを占領している。
ヒナは笑いながらブラッシングセットを手に取った。
アレクサンドロの背中を大きめの櫛で梳くと綺麗な毛並みが行儀良く並ぶ。
ふさふさ尻尾が左右に揺れる姿が可愛い。
イワライの件は一区切りついた。
慕っている先生がアレクサンドロを裏切らずにすんで本当によかった。
でも宰相室に入ってすぐ土下座は驚いた。
コヴァック公爵は普通の反応だと言っていたけれど。
「……身分って怖いね……」
つい口から出てしまった言葉にアレクサンドロの三角耳がピクッと動く。
もし森でアレクサンドロと会わなければ、飢え死にしていたかもしれない。
運よくヴォルク国にたどり着いたとして、身分もない、証明するものもない、素性がわからない汚い姿だった自分を助けてくれた人はおそらくいなかっただろう。
不審者扱いか、また追い出されたか。
もっと軽い感じで、街で働けると思っていた。
アルバイト感覚で。
平民は公爵には逆らえないなんて、会うだけで土下座しないといけないなんて想像もしていなかった。
聞かれた事には必ず答えなくていはいけない。
黙秘権はなく、言いたくない事も言わなくてはならない。
貴族の公爵や男爵などは教わったが、平民と貴族の大きな壁も全く理解していなかった。
アレクサンドロが私の身分証を作ってくれたのはすごい事だったのだとようやくわかった。
平民が公爵の養女なんてあり得ない。
住むところも、働くところも。
全部アレクサンドロのおかげなのに、ちゃんと理解していなかった。
ヒナは狼のアレクサンドロの首に抱きついた。
「グアウ?」
どうした? と言ってくれているのだろうか。
ヒナは狼のアレクサンドロの擦り寄った。
「ありがと。アレク」
何の事だかさっぱりわからない狼のアレクサンドロは首を傾げる。
「森でアレクに会えてよかった」
狼のアレクサンドロは泣きそうな顔で微笑むヒナの頬をペロリと舐めた。
どうした?
今日ランディと何かあったのか?
帰りが遅かったが、困り事か?
また俺に言えない作戦か?
困ったアレクサンドロはグゥと喉を鳴らす。
「……夜会でチェロヴェに慰謝料請求するから手伝ってね」
「グァウ?」
何がどうなってそういう話に!
アレクサンドロが聞き返す前に、もうヒナは眠っていた。
ブラッシングの櫛を握ったまま、狼のアレクサンドロにしがみついたまま、眼鏡もはめたままだ。
動きたくても動けない狼のアレクサンドロは溜息をついた。
よくわからないけれど、会えてよかったと言ってくれたならまぁいいか。
アレクサンドロはヒナの唇をペロリと舐めると、顔を寄せたまま眠りについた。




