シノン
「シノンに殺して欲しい」
11歳の夏。学校帰り、将来の夢について話をしていた時だったと思う。彼女は一点の曇りも無い眼差しで、じっと僕を見つめながら言った。
「何で僕が君を殺さないといけないの」
「あなたが好きだから」
僕は彼女の人形の様に整った顔を、じっと見つめ返す。夏の鋭い日差しが、僕の浅黒い肌をじりじりと焦がしていた。
「君を殺したら、僕は捕まっちゃうじゃない」
「うん、捕まるね」
「好きな人が捕まって良いわけ」
「だから私を殺した後、あなたも死んで」
彼女は僕にだけは、自分本意な女の子だった。普段は、自分の意思が無いような、マネキンが言語能力のみを与えられたかのような女の子なのに、僕にだけはいつもこうやって、無理難題を押し付けてくる。
「僕は知らないよ。真っ当に生きたいもんね」
「シノンは私のこと、好きじゃないの」
「好きじゃない」
僕がそう言うと、彼女はちょっと驚いたような顔をした。これだけ表情が変化したのは、これが初めてだったかもしれない。
「好きじゃないのに、なんで私と喋ってたの」
「君が喋ってくるからじゃない」
「無視すれば良いのに」
「無視する理由も無いからね」
「私みたいな可哀想な子、一緒にいるだけで不幸になるのに」
「そうかもしれないね」
「シノン、いじめられてるでしょ。私と喋ってるせいで」
「さぁ。何のことだろう」
「何でそんなに優しいの」
「優しくないよ」
「優しいもん。シノンが優しいせいで、私は死のうと思ってたのに、死ねないんだもん」
彼女はいつの間にか、泣き始めてしまった。どうやら冷静さを欠いてしまっているらしい。まるで僕が泣かせたみたいになってて、ちょっと嫌だった。
「そんなこと言われてもなぁ」
「最近シノンと喋ってることがお父さんにバレて、またあれがひどくなったの。喋るのやめろって言われて、叩かれて」
「あら、それは大変だ」
「シノンと喋っちゃダメなのに、でもシノンと喋らないと、死にたくなっちゃうし、でもまたシノンと喋ったことがバレたら、お父さんに怒られちゃうし、だから私、どうしたら良いのか分からなくて、死のうって思ってもシノンの顔を思い出すと死ねなくて、だからシノンに殺して欲しいって…」
「うん分かった、じゃあ殺す」
僕はそう言って、ランドセルからカッターナイフを取り出した。最近買ったばかりの、新品の大きなカッターナイフだった。
「へ…」
彼女は涙でびしょ濡れになった瞳を、真ん丸にしながら僕を見ていた。
「殺せば良いんだね。それがイブにとっての、幸せなんだね」
僕は彼女ーーイブの頭を抑え、その細く白い首元にカッターナイフを近づける。してジジジ、と音を立て、鋭利な銀色の刃を剥く。
「あ…え…」
イブは何か声を漏らしていたが、言葉では無かった。
「じゃあいくよ。準備は良いね」
そう言いながら、イブの首元に、本格的に視線を移す。そして少しカッターナイフを持つ腕を引き、本格的に切りつける体勢に入った。
「や…あ…」
「さよなら、イブ。またどこかで会おうね」
僕は最後にそれだけイブに伝えて、カッターナイフをゆっくりと、真一文字にイブの首元へ切りつけたーー
「あ…あ…!!」
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
その後しばし、沈黙の時間が流れる。
鮮血は、飛び散っていなかった。
カッターナイフの刃がイブの首元に当たる直前ーー僕は物凄い力で、後ろに突き飛ばされていた。
目の前にはイブの姿があった。
顔を両手で覆いながら座り込み、咽び泣いている、イブの姿が。
「うっ、うぅっ…」
僕を突き飛ばしたのは紛れもなく、イブだった。
イブは泣きながらも、口を開いた。
やっぱりまだ、死にたくない。
本当はもっと生きて楽しいことしたいし、もっと笑いたいし、もっともっと…
「シノンと、喋りたいぃ…」
イブはこれまで、感情を失っていた。実の母親を早くに亡くし、その後の義理の父親からの度重なる虐待行為によって生きる価値を見出せなくなり、全てが灰色に見えていた。
だがシノンの存在によってイブは今、死を怖れーー奥底に閉まっていた感情が、決壊したダムのように溢れかえってしまっているのだった。
そんなイブが、僕は途方もなくーー
「イブ」
僕はカッターナイフを捨ててイブに歩み寄り、優しく抱きしめる。そして、イブの耳元で優しく言った。
「本当は僕も好きだよ。イブのこと」
イブはその瞬間、空気を大きく吸い込み、そして大きな瞳を感極まったように歪ませた。
「シノン………!!」
シノン。シノン。シノン。シノン。シノン。
僕の胸に顔を埋め、僕の名前を連呼する声が、夕焼けの空に響く。
僕はその声を、ずっと聴いていたいと思った。