こうして、髪をつかむくせ
さすがにこの子をおいてに逃げちゃうのはかわいそうだよな。
少女の後ろ頭を眺めながらヤンはそんなことを考えていた。
逃げ出してしまったらその後この子は村で何と言われるだろうか。それに村から離れたこの森の中に少女を一人置き去りにするのも考え物だ。
少女に先導されるがままについて行く道は、道ではない。
比喩表現などではなく獣道ですらない。
鬱蒼とした森に鳥の声やかましく、蔦の垂れ下がるなかを鉈を振り回しながら少女は道を切り開いていく。
たくましく前を進む少女とあたりの景色を眺め、いや、そもそもうまく逃げることができるだろうかと鼻で笑う。
まあいいや、悪神なんてどうせいないだろうから、その祠とやらを掃除でもして帰ればいいかとヤンは考えた。
「君は…、クエッタ。よくこんなお使いを頼まれたものだな。森の案内、まして悪神の祠へだなんて。普通は大人の男のすることだ」
肩をすくめ、飄々とした口調で語りかける。
クエッタは振り返り、横目でヤンを見上げた。
見上げた。とはいってもきちんと見えているのだろうか。ぼさぼさの髪で目が隠れている。
「わたしは、この村の雑用を担っているものです、たぶん、わたしに行かせるのがいいと、考えられたのしょう」
遠慮がちな話し方だった。
「失礼、奴隷か」
ヤンは神妙な声で尋ねる。
「いえ、違います。奴隷はおりません。トイレ掃除とか、村の雑用とか、そんなことをして暮らしております」
トイレ掃除とはつまり汲み取りのことだ。嫌がられる仕事だし、重労働だ。
クエッタは小さな女の子、十代前半に見えるが、しっかりした体つきをしているのはそのためだろう。
着ている服は丈夫そうではあったが、飾り気なく、薄汚れている。
「お仕事をすればお金や食べ物をもらえますし、家も、畑もあります。ただ、少し。みなしごですし、こんな見た目ですし、少し他の子と違う役回りなんです」
クエッタはとぎれとぎれにそう語った。
奴隷ではないとは言うものの、おそらく地位の低い扱いを受けているのだろう。家や畑を持っているとは言うが、それはきっと粗末なものだろう。
とはいえ、クエッタの話し方は、それは相手の表情をうかがいながら言葉を選ぶ、弱々しく、遠慮がちなものではあったが、そこに村への恨みや過度の服従、奴隷特有の諦めや卑屈さは感じられない。
奴隷や、厳格なカーストは珍しくなく、ヤンもこれまで多くのそういったものに触れてきた。
あの村でのクエッタの生活はよいものではないことが想像できたが、それでも本人はさほど不満に思ってないことがヤンにはわかった。
ヤンはクエッタの髪に触れた。
クエッタは「ヒッ」と声を上げる。
「村に帰ったら髪を切ってあげるよ。見た目が変われば少し生活も変わるかもしれない」
少女の健気な姿に、ヤンは慈しみのこもった声で語りかけた。
「そんな、お客様にそんなこと。わたしは、その、すごいもじゃもじゃで、ハサミもダメになってしまうから、その、いつも自分で、ナイフで、不細工だし」
クエッタはとぎれとぎれに上ずった声を上げながら、その頭の横のもじゃもじゃの髪を両手でギュッとつかんだ。
「俺だってもじゃもじゃだろ。これも自分でやってるんだ。まあ旅先の収入源だよ。旦那さんににらまれながら奥さんの髪を切ったりね。見た目ってのは印象だ。人がどう見るか、自分をどう思うか」
クエッタは振り返り、ヤンの姿を見る。
目を隠していた髪が分かれ、左目が覗く。
ヤンの姿をじっと見る。
確かに癖の強い髪質のようだが、きちん整えられ、自分とは別世界の人のように思えた。
加えてその高い背丈とすらりと伸びた手足。
農業を主体とする村で働き育ったクエッタからすれば、いわゆる良い男の定型から外れる姿であった。
しかしそれは垢抜けた、思わず触れたくなるような美しさに思えた。
「ヤン様は髪を切るのがお仕事なんですか」
「ヤン様…」
クエッタは歩くスピードを落とし、ヤンのすぐそばを歩く。ヤンを横目で見上げる。
「得意なだけだよ。他に昨日みたいに芸を見せて稼いだり。今日みたいに頼まれごとをしたり。いろいろやってるんだ」
祠を見に行くことで宿代がタダになったが、追加で何かもらえないだろうか。ヤンは優しくクエッタを見つめながらそんなことを考えていた。
「昨日の芸ですね!見ました!ジンジちゃんは可愛かったし、ヤン様のあの…、前に進んでいるようで後ろに進むやつ!とてもすごかったです!」
おとなしく喋っていた少女が急に早口に大声を上げた。
ヤンはクエッタの言葉に一瞬目を丸くするも、平静を装ってわざとらしく大人ぶった口調で
「ああ、川底歩きね。あの良さがわかるかい」
と返した。口角の上がり方が変だ。
「川底歩きって言うんですか!すごい!」
手をたたき興奮するクエッタの姿にヤンは頭を掻く。
ヤンが手をクエッタのほうへ伸ばすと、それまで肩の上に丸くなっていたジンジはその手を伝いクエッタに飛び乗った。
わっと驚くクエッタの頭や肩の上をうろうろした後、ジンジは彼女の首に襟巻のようにまきついて落ち着いた。
わぁ、と声を上げなら、クエッタはジンジを撫でる。
その様子を見ることなく、ヤンは得意げに顔を上げ、偉そうに天を指さした。
「川を渡るとき川上を向くとさ、流れの強さと足元の苔で後ろに下がることがあるでしょ。あれに似てるからそう名付けたんだ」
「すごい!すごいセンス!」
ヤン渾身の芸。これまでいろんなところで披露してきたものの、反応はいま一つ。どころか「なんだそりゃ」「気味が悪い」「もっとサルを見せろ」などと罵倒されることも多かった。
クエッタのリアクションはヤンが待ち望んでいたもので、正直気持ちいい。
「あの良さがわかる君のセンスが素晴らしい」「村に戻ったら君だけに教えてあげよう」「実は横に歩くやり方もあるんだ」
饒舌になりながらヤンはクエッタを見た。
もじゃもじゃの髪から覗くまん丸の目は細められ、クエッタはにっこりと微笑んでいる。
細めた目はきらきら輝いて自分を見つめている。
すこし、しまったと思う。
つまりヤンはこういう目をこれまで何度も見てきているし、こういう目をさせるような行動をとったり、その結果トラブルになったこともある。
先ほどの髪を切った奥さんの話にも実は続きがある。言わないけど。
ヤンは目をそらし、話をそらす。
「祠はまだかな。随分歩くけど」
「あ、あ、すみません。もうすぐです、あれです」
クエッタは頬を赤らめながら指した。
そこにはヤンの背丈ほどの石柱が、その先にある小さな洞窟に入れぬよう十数本並べられていた。