クレアとドレービー
クレアには出会った時から両目がなかった。数年前に、自ら抉り出したのだという。ドレービーはそれを聞いた時、人間とはなんと恐ろしいことをするのだろう、と慄いてしまった。
だが、同胞に聞いたところによると、どうやら人間が恐ろしいのではなく、クレアが恐ろしい女性であるだけのようだった。
クレア・フロックハートは、ある侯爵家の長女だった。フロックハート家には娘が三人と息子が二人いるが、クレアは五人兄弟の二番目だ。上には兄が一人。すぐ下に弟が一人、あとは妹達。
家族は皆クレアと違って美しい見目をしているのだそうだ。ドレービーはそれを聞いた時、へえ、と半分聞き流した。ドレービーには人間の美醜など分からない。魔人の成り損ないであるドレービーに分かるのは、その者がどれ程に美しい魔力を持っているか。ただそれだけである。それ以外のことにはとんと興味も、理解もない。
クレアは基本的にはあらゆることを諦めて受け入れてしまっている様子だが、己がどんな仕打ちを受けたのかだけは、時折笑いながら説明してくれる。
たとえば、生まれてから七年も経つ頃にはクレアの家庭内での立ち位置は決められていて、いつも床下で丸まって過ごしていたのだとか、
たとえば、クレアは衣類を汚すだけで気絶するまで殴られるので、兄弟姉妹に媚を売っていらなくなった布地を貰っていたのだとか、
たとえば、クレアの食事はその日の家族が残したものを適当に皿に乗せたものだったのだとか、
たとえば、兄妹の暇つぶしに付き合わされたせいでクレアの両手には無数に針と火傷の痕が残っているのだとか、
たとえば、碧眼の女を甚振るのが趣味の変態公爵に売られそうになったから、仕方なく自分で目を抉り出したのだとか、
それらの『たとえば』は無数に出てきた。
生まれてから十八年。虐げられるようになってからは十一年経つのだから、尽きないのは当たり前だ。人間の嗜虐性というのは際限がなく、すぐに歯止めが効かなくなるものだと、同胞が言っていた。
ドレービーは人間というものをあまりきちんと見てこなかったのでよく分からなかったが、少なくともそれらが特に理由もなく、醜悪な欲望から成された行為だということだけは感じ取れた。
クレアの語る事情から考えるに、彼女にそれ程までに虐げられる理由などない。要らない、と言ってもいい。
「要するにね、父は私を不義の子だと思っていたし、母は私が父の美貌を受け継がなかったから目障りで仕方がなかったのよ」
思い出を語る中で、クレアは自身が虐待の対象に選ばれたことをそう分析した。実際、切っ掛けとしては正しいのだろう。彼らは家族内の異分子を疎ましく思い、出来る限り自分達との価値を離そうとした。あれは自分達と等価値の人間ではない、という烙印を押したのだ。
「でもね、本当は誰でもよかったんだと思うわ。だって、家の中にストレス発散が出来る相手がいると、とても過ごしやすいのよ。ああいう人たちにとってはね」
クレアは何処か呆れたように、そして諦めたように笑って、小さく溜息を吐いた。それでも口元には笑みが浮かんでいる。
『お前の辛気臭い顔を見ていると反吐が出る』と殴られるのでいつも笑うようにしていたら、もうどうやって他の表情を作れば良いのか分からなくなってしまったのだという。
だから、クレアはいつも楽しそうにしている。何があっても。
魔人の成り損ないであるドレービーが、この世で最も美しい魔力を求めてこの街にやってきた時も、真夜中に得体の知れない化け物──ドレービーは結局ろくに人型を取れなかった──に攫われたというのに、クレアは笑っていた。
両目を潰しても膨大な魔力で周囲を感知できているクレアは、自身を攫ったドレービーの造形を正しく読み取り、そこにいるのが巨大な芋虫に八本脚がついた化け物だと知っても、ただ優しく微笑んでいた。
『あなたが私を殺してくれるの? 悪魔さん』
柔らかい声だった。少しも震えてはいなかった。己の生が此処で終われることを、心の底から喜んでいる声だった。
ドレービーはそれはそれは驚いて、慌てて、彼女を住処である屋敷の一室に下ろし、錆び付いた声でゆっくりと囁いた。
『ちがうよ、お嬢さん。ぼくはね、君の魔力が一等美しいから、近くで見たくて連れてきたんだ』
『魔力? 魔力ってなあに?』
『魔法を使う為の力だよ』
『……魔法って?』
ドレービーは説明に困った。魔法のない世界に来るのは初めてだったから、その概念を説明するための言葉を上手いこと持ち合わせていなかったのである。
此方の世界では、御伽噺としてすら存在しないというのだから、ドレービーは説明に随分と時間を要した。元々、口下手なのもあったが。
『……そう、そんなものがあるの。いいわね、羨ましいわ。……本当に、羨ましいわ』
魔法というのは、火や水を操り生活を豊かにし、炎や氷を用いて容易く人を傷つけることができる特別な力である────という説明を辿々しい言葉でようやく紡ぎ終えたドレービーに、クレアは薄く微笑みながらも、確かに憎悪を感じさせる声で呟いた。
その時のクレアが何を思っていたのか、当時のドレービーにはさっぱり分からなかったのだが、今ならば分かる。クレアは家族を殺したくて殺したくて堪らなかったのだ。
クレアの魔力は膨大で、尚且つ限りなく美しいが、残念なことにこの世界には『魔法』がない。正確に言うのなら、人類が行使できる技術として『魔法』が成り立っていなかった。そもそも生態が魔法を使うのに適した進化をしていない。
魔法機構の備わっていない人類に、魔法を扱うことはできない。仮にクレアがそれを開発しようとしたとして、何代も血を繋ぎ体の特性が変わるまで待たなければならないのだから、少なくとも彼女にとっては何の意味もない道だった。
『それで、私は何をすればいいの? 此処でまた、今までと同じように過ごせばいいのかしら』
今度は明確に敵意のある声だった。と、ドレービーは記憶している。人間というのはころころと感情が変わるんだなあ、と思った記憶もある。
今までと同じように、というのが分からなかったので詳細を尋ねたドレービーに、クレアは彼女の生活を丁寧に説明した。まるで映像として保存されているかのように、詳細で鮮明な説明だった。一時も忘れるつもりはない、という意思が伝わってくるかのようだった。
ドレービーはその全てを聞いて、人間って怖いし気持ち悪いなあ、と思ってから、そっとクレアを眺めた。やはり何処までも美しかった。ずっと手元に置いておきたかったので、ドレービーは殊更にゆっくり、人の身にも聞き取れるように語りかけた。
『ぼくはクレアが過ごしやすいようにするつもりだよ。クレアはどうしたい?』
『…………なら、普通の生活がしたいわ』
『普通って?』
『ちゃんとご飯が出てきて、体を清潔に出来て、誰にも地べたに這いつくばってお願いをしなくてよくて、生きていることに許しを乞わなくて済むこと』
『なあんだ、そんなことか。ご飯は何がいい? 人間って一日何回食べるの? お風呂は沸かしてあるよ、ぼくとは別に用意したから、安心してね。
あと、ぼくのことは何にも気にしないで良いよ、魔王も魔神も邪神も使い魔も奴隷もやってきたから、立場とかどうでも良いんだ。なんなら、好きに命令していいよ』
それは純粋な事実だった。ドレービーはあらゆる世界であらゆる立場になってきたが、そのどれもが実際は大差がなかった。ただ与えられる役割をこなし、消費されるだけされて、あとは全てが息絶えるまで待つ。その繰り返しだ。
ドレービーはもうすっかり飽きてしまったので、何かになるのはやめにして、ただ好きなことをしに世界を跨いで遊ぶことにしたのだ。だから、最も綺麗な魔力を持つ存在を求めてこの世界に来た。
クレアの魔力は美しい。煌めく星空のようであり、全てを受け入れる澄んだ海のようであり、郷愁を思わせる夕陽のようであり、暖かく、優しく、触れているだけで愛おしさが溢れてしまうような、永遠に触れていたい最上の魔力だった。
きっとあまりにも素敵だから、こんな世界に隠されてしまったんだろう、とドレービーは出会った時から確信していた。
これを独り占めできるのならどんな望みでも叶えてやりたい。だからクレアの望みを聞いたのだけれど、あまりにも簡単なことを言われたので、ドレービーは拍子抜けしてしまった。同時に、ものすごく安心もした。ドレービーは世界を軽く三回程度は滅ぼせるけれど、何かを作るのは限りなく苦手だ。生命が作れず、治癒も出来ず、死んだものを甦らせることもできない。いや、最後のは、アンデッドでも構わないのなら出来るけれども。
『じゃあ、クレア。今日のご飯は何がいい?』
材料は近くの森や湖に山程ある。同胞に頼めば、きっと上手いこと人間の好みのものを持ってきてくれるだろう。
ドレービーは魔王も魔神も邪神も使い魔も奴隷もやってきたが、美しい魔力を持つ者以外にとんと興味がなかったので、長命の割に人間というものへの理解が少しも進んでいなかった。未だに、何を食べるのかすら分かっていない。
『なんでもいいわ。新鮮で、安心して食べられるものなら、なんでも』
『……そう?』
なんでも、って難しいな。ドレービーはそう思ったけれど、クレアの手が微かに震えていたので、何を言うでもなく素直に森に入って、同胞に尋ねて、いくつかの果物を取ってきた。
人型の同胞は、『多分、その人間は胃が縮んでいるだろうから、迂闊に変なもの食べさせると吐くよ』と優しく教えてくれた。どうやら、そういうものらしい。
ドレービーは言われた通りに果物をいくつか潰して、ジュースにしてからクレアに振る舞った。クレアは渡されたグラスをしばらく警戒を込めて見下ろしていたけれど、やがて静かに口をつけ、そっと嚥下した。
こくり、こくり、と少しずつジュースが減っていく。随分と痩せた指先でグラスを握り締めたクレアは、ドレービーのいる方向を正しく見上げると、今度は本当に微笑んでみせた。
『ありがとう、悪魔さん。とっても美味しいわ』
ああ、なんて美しいんだろう。ドレービーは彼女の魂の奥から溢れでる煌めきを見て、愛おしさから思わず暴れ出しそうになってしまった。恐らく家屋が容易く壊れるので、ぐっと我慢したが。
『できる限り美味しいものを用意するから、欲しいものがあったら言ってね。あと、ぼくは悪魔じゃなくて、ドレービーって言うんだ』
『そう、ドレービーね。私はクレアよ、これから、どうぞよろしくね』
差し出された手に、ドレービーはちょっと迷ってから八本脚のうちの一つを伸ばした。人型を取ろうとした結果、ドレービーの腕は人の腕に妙に似通っている。掌は三本指で、関節がやけに多いが、ドレービーにとってはこれが精一杯だった。
痩せ細った指が、ドレービーの手と軽く握手を交わす。クレアの微笑みは、既に先ほどまでの心からのものではなくなってしまっていた。あれをもっと見たい。美しいものを求めるドレービーの心がそう囁くので、彼はその日からずっと、クレアを心から喜ばせる方法について考えるようになった。
そうして、一年が経つ頃には、クレアは大分ドレービーに慣れた様子だった。
ドレービーもまた、クレアが側にいることに慣れつつあった。彼は基本的にあらゆる他種族と触れ合うことに嫌悪感を抱きがちだが、クレアだけは別だった。なんたって、彼女は美しいのだ。
「ドレービー、今日はアップルパイを焼いてみたの。貴方もどうかしら」
「アップルパイ? やった、ぼく、クレアのアップルパイ大好きだよ」
食事の用意はクレアがするようになっていた。最初はクレアの好みのものを用意できるようにドレービーが頑張るつもりだったのだが、残念ながら彼には人間の食事を選ぶセンスが壊滅的に欠けていた。
クレアはある日、『これからは私がご飯の用意をするわね』と言い、キッチンに立つようになった。ドレービーの役目は、料理中のクレアをそっと後ろから見守ることである。時折、味見として側に呼ばれたら近寄る。
食事を用意するようになってから、クレアはドレービーに遠慮がなくなった。嫌なことは嫌といい、嬉しいことがあれば最上の感謝をくれる。ドレービーは言葉にされなければ人間のことなど何も分からないので、クレアが当初より素直になってくれたのは非常に有り難かった。
ドレービーには一切の食事が必要ないが、味覚はある。美味しいものを食べれば美味しいと思うし、クレアは『美味しい』と伝えると本当に嬉しそうに魔力を煌めかせるので、ドレービーにとっては食事を共にすることには喜びしかなかった。
焼き立てのアップルパイを切り分け、すっきりとした紅茶と一緒に食べる。ドレービーの口は大きいので、いつも一口で食べてしまう。口いっぱいに頬張ったそれを咀嚼する間、ドレービーはゆっくりとクレアを観賞する。
出会った頃は落ち窪んでいた両眼には、今は黒く輝く瞳が嵌っている。
半年が経つ頃、森にいる同胞がクレアのために義眼を作ってくれたのだ。彼女が碧眼を厭うので、義眼は美しい黒曜石のような色合いをしている。
クレアは義眼を貰った時、それはそれは喜んだ。半年をかけて健康的な身体を取り戻しつつあった彼女だが、目だけはどうにもならなかった。ドレービーに治癒の力はない。クレアは自分の判断を後悔していないようだったけれど、それでも年頃の女性としては姿見に映る自身の姿は気にかかるようだった。
そんな悩みに応えたのが、森の同胞である。ドレービーの持ちかけた相談に軽く応えた同胞は、ドレービーを挟んでいくつかクレアと相談してから、数日後にはこの美しい義眼を用意した。
それを渡された時のクレアと言ったら。ドレービーが何を捧げてもこうは喜ばないだろう、というほどに喜んだのだ。きらきらと、美しい光が弾ける。普段ならば恍惚と見つめてしまうだろうそれを何処か楽しめなかったのは、偏にドレービーが森の同胞に嫉妬したからである。
ドレービーはまさしく、燃えるように嫉妬した。実際、森を少し焦がした。飛び出てきた同胞は慌てた様子で、『いいから、帰って何で喜んでるのか聞いてきなよ』とドレービーを説得した。
どうしてそんなに嬉しいの?と尋ねたドレービーにクレアが『私からはドレービーがこの色に見えるの』と答えていなければ、多分そのまま森を燃やし尽くしていただろう。
ドレービーは急いで森の同胞に会いに行き、魔人の最上級の謝罪の礼を取って謝った。ごめんね、と呟いたドレービーに、同胞は『次に殺意を向けたら、俺は境界を跨いでても貴方から逃げるよ』と返した。態度こそいつも通りだったけれど、心底怖がっている様子だったので、ドレービーは本当に、申し訳ないことをしたなあ、と思った。
ドレービーは大半の魔人には避けられている。出自があまりにも違うし、そもそも成り損ないと付き合うような奇特な魔人は、森の同胞くらいしか居ないのだ。彼に避けられたら、ドレービーには友達が一人もいなくなってしまう。
本当にごめんね、と再度繰り返したドレービーに、森の同胞は少し呆れたように言った。
『災禍の王があんな人間ひとりに夢中になるとはね。最天璽界が聞いたらきっと驚くよ』
懐かしい名称だった。懐かしすぎて何処のことか思い出すのに時間がかかったが、別に思い出さなくても問題はない場所だったので、ドレービーは早々に意識の隅に追いやった。
どうやら森の同胞は、ただの魔人ではないらしい。そうでなければドレービーと関わろうなどとは思わないだろうから、当然といえば当然の話だった。
『クレアはとても美しい魔力をしているんだ。それに、一緒にいるととても楽しいし、笑ってくれると嬉しい。あとは料理が上手で、とっても可愛いんだよ』
『ふうん、なるほどね。王サマでも恋とかするんだね』
『恋?』
『あれ、知らない? それとも自覚がない?』
同胞は少しおかしそうに笑った。
彼女が俺に取られると思って焦ったんだろう? それでも理由を聞いたらあっさり機嫌を直して、こうして俺と気軽にお喋りしている。俺がいるとクレアをもっと喜ばせる方法があるって分かっているからだよ。
王サマは今、彼女を喜ばせることだけが目的なんだ。魔力を見ていたいだけならそうはならない。だって、美しい魔力を引き出して留める方法なんて幾らでもあるからね。
全く、おふたりさんとも可愛くて堪らないよ。おままごとみたいな恋愛してさ。まあ、見てる分には楽しいからいいけど。
茶化したように終わらせた同胞は、『言っておくけど、俺はその気になったら本当に境界を越えるよ』と再度念押ししてから、森の奥へと去っていった。
残されたドレービーはしばらく入り口で立ち尽くしたあと、ぽつりと呟いた。
『そっか、これが恋なんだ』
口に出すと、形のなかった感情が途端に意味を持ち始めた。クレアが愛しい。もっと笑ってほしいし、もっと幸せになってほしいと思う。他の誰でもない、ドレービーの手で。
そんなことを思いながら、ドレービーはそっと己の手を見下ろした。八本もある、三本指の人の出来損ないのような腕。
人間には程遠かった。ドレービーは人間に詳しくはないが、それでも人は人と交わり、関係を築くものだとは知っている。
クレアはドレービーと過ごすことを喜んでくれているけれど、それは彼女がドレービーに救われたからだろう。恩義以外の感情は何一つないに違いない。だって、ドレービーの見目はあまりに人からかけ離れている。
人間の見目を手に入れなければ、と思った。そうでなければ、そもそもクレアに意識してもらうことすら出来ないに違いない。
ドレービーはそれから半年をかけて、こっそりと人型を取る練習をし始めた。初めに固めてしまった形を変えるのは至難の業だ。この世界でのドレービーは、こういう形で既に固定されている。
試しに足をいくつか引き千切って本数を減らしてみたが、残念なことにすぐに生えてきた。そのくせ千切った足は残ってしまったので、見つけたクレアに至極心配をかけてしまった。
『大丈夫? どうしたの? 怪我をしたの?』と泣きそうな顔で駆け寄ってきたクレアに必死で言い訳をして、『定期的に足が生え変わるんだ』などと嘘をついたせいで、ドレービーはたまに自分の脚を引き千切って生やす羽目になった。
千切った脚は、クレアと一緒に庭で燃やすことになった。毎度どす黒い煙が高く上がっていくので、ドレービーは『いつ最天璽界に怒られるのかな』と少しだけ心配している。
天界の門が煤けて使い物にならなくなってしまったらどうしようか。多分、最上天使が群れで怒りに来るんだろうな、と思うと、ドレービーはほんの少し憂鬱になる。が、クレアと過ごす日々が楽しいので、そんな心配はすぐに思考の片隅に追いやられてしまうのが常だった。
ちなみに、人型になる練習は遅々として進んでいない。一年が経った今も、ドレービーは芋虫の身体に人間の足を生やすことに成功しただけで成果と呼べるものは何一つなく、何より凄まじく気持ち悪かったので、すぐに千切って燃やした。
何も上手くいかない。世界を滅ぼすのも、人間を沢山殺すのも、神を殺すのも上手い自信があるが、その他のことは一切が下手なのがドレービーだった。
「ドレービー? 最近浮かない顔をしていることが多いけれど、何か心配事?」
「う、ううん。何もないよ」
「そう。それならいいのだけど……」
クレアは心からドレービーを心配している様子だった。クレアは何処か恐ろしい面もあるけれど、基本的には優しい女性だ。料理もすぐに覚える器用さがあるし、彼女がよく卑下する見目だって、別段過度に醜いわけではない。
きっと、此処を去っても幾らでも上手くやれるだろう。ドレービーの胸の内にある不安は、最近は常にそのことばかりが原因で生まれていた。
クレアには他に居場所がある。ドレービーにはクレアしかいないけれど、クレアは別にドレービーがいなくてもいいのだ。
出て行こうと思えば出て行けてしまう。此処に閉じ込めてしまいたいと思うけれど、ドレービーはクレアが本当に望めば、嫌だとしても出ていくことを許してしまうだろう。
無理に引き留めてクレアに嫌われてしまったら、と思うと、ドレービーは本当に、想像だけでも指先一つも動かせなくなってしまうのだ。
「明日はドレービーの好きなものを作りましょうね」
「ぼくはクレアが作るものならなんだって好きだよ、とっても美味しいし」
それにクレアが好きだから。そんな言葉が無意識に出かけて、ドレービーは慌てて口を噤んだ。大きく裂けた黒い口が、ぎゅむ、と妙に軋んだ音を立てて閉じられる。
クレアはそんなドレービーを不思議そうに見上げてから、愛おしげに目を細めて微笑んだ。
「ありがとう、ドレービー」
壁が一部欠損したので、ドレービーとクレアはその日の午後を屋敷の修繕に充てた。本当に体調は大丈夫なの?と尋ねてくるクレアに、ドレービーは出来る限り小さくなりながら(実際、彼の体積は微塵も縮むことはなかった)、大丈夫だよ、と力無く答えた。
◇ ◆ ◇
クレアには最近、悩みがある。共に暮らしている素敵な同居人についての悩みだ。
ドレービーと名乗ったその悪魔は、クレアを地獄のような生活から救い出してくれた恩人である。その恩人が、最近何処か上の空なのだ。
足の生え変わりがあった頃からだろうか。初めは体調不良だと思っていたのだが、どうやらそうではなさそうだった。
クレアには悪魔の生態などよく分からない。それでも、ドレービーが本調子でないことだけは、一年の付き合いでも薄らと感じ取っていた。
たとえば、最初の頃は常にクレアを見つめていた三つの瞳が、最近では二つ逸されている。加えて、クレアが見つめ返すと慌てて離れていってしまう。
嫌われるようなことはした覚えがないけれど、何かクレアの知らない悪魔の礼節に触れてしまったのかもしれない。心配になって尋ねるも、そうではない、ときっぱり返されるので、考えれば考えるほど原因が分からなくなってしまった。
クレアの不安は二つある。
ひとつはドレービーが彼にもどうにも出来ない病気を患っているのではないか、ということ。
もうひとつは、ドレービーがクレアに飽きてしまったのではないか、ということだ。
クレアの心中で大きな割合を占めているのは、後者の悩みの方だった。ドレービーがクレアを気に入ったのは、彼女の『魔力』とやらが大層美しいからである。ドレービーにとってクレアの価値などそれ以外に無い。
クレアには魔力のことはよくわからない。どうすれば美しくなるのかも、どうすれば維持できるのかも、どうしたら無くなってしまうのかも。
クレアが知っているのは、殴られずに済む方法と、他人を満足させる媚の売り方と、暴力をできる限り早く終わらせる方法だけだ。我ながら碌でもない人生だと思う。だが、そうでなければクレアはそもそも生き延びることすらできなかった。生き延びて、ドレービーに救ってもらうことすら出来なかったのだ。
自分の思い通りに出来ない部分を理由に施しを受けるのは、正直に言えばひどく恐ろしいことだった。ある日突然差し伸べられた手は、いつか突然離されてしまうかもしれない。
そのことに怯えながら過ごさなければならないのは辛いことだった。だから、クレアはドレービーが何を好きで、何を嫌いか、どんな性格をしているのか、そう言ったことを知るために努力した。
ドレービーは甘いものが好きだ。焼きたての、温かい菓子だと尚更良い。部屋は少し薄暗いくらいがよく落ち着いていて、夕暮れになるといつもじっと空を見上げている。綺麗なものが好きなのだという。
それから、ドレービーはものを教えるのが割と上手だ。クレアはドレービーから計算と文字の読み書きを習った。いろんな世界のいろんな言葉が混ざるので時折困ったこともあるけれど、この世界でも使える計算式だよ、と言って教えてもらった計算は隣街に買い物に行く時にとても役に立っている。
そう。クレアにはこの屋敷以外の自由も許されているのだ。ドレービーは、クレアを閉じ込めるようなことはしなかった。出たい時に出ていいよ、ぼくは人間をびっくりさせるから、お留守番してるね、と優しく送り出してくれる。
だから、ドレービーは、クレアのことをそこまで強く欲している訳ではないのかもしれない。ただ綺麗なものがそばにいると嬉しいから、一緒に暮らしているだけで、本当はクレアがどこに行ってしまってもいいと思っているのかもしれない。
クレアは自由に買い物をさせてもらえる度に、いつかドレービーが『もう帰ってこなくてもいいからね』と言い出さないかと怯えている。クレアの帰る家はもうここにしかないのに。
そして、それらの不安を感じる度に、夜中にこっそりと寝ているクレアを見に来るドレービーの気配を感じて安心するのだ。ドレービーは眠るクレアをただじっと見守って、綺麗だなあ、と呟いて去っていく。その柔らかい呟きを聞くたびに、クレアはまだ自分には価値があるのだ、と安心する。
これが恩義を感じた敬愛だけではないことには、かなり早い段階で気づいていた。塵を片づけにいった倉庫の隅でドレービーの足を見つけた時、クレアは血の気の引いた顔でドレービーを探し回った。ドレービーはかなり強い悪魔なのだという。そんな彼が足を切り落とされるほどの負傷をするだなんて、いったい何があったのかと、もしや、命に関わる大怪我なのではないかと、クレアは心の底から心配で堪らなくなったのだ。
それは確かに、自分を助けてくれた恩人や庇護を失うかもしれない恐怖ではなかった。ただ日々を共に暮らしてくれる大事な人が傷つき、命を落とすかもしれないことへの恐怖だ。
当のドレービーは困ったように『たまに足が生え変わるんだ』なんて言っていて、クレアは心底安堵すると同時に、みっともなく取り乱してしまったことへの羞恥がじわじわと込み上げてきた。そして同時に気付いたのだ。自分はドレービーのためになら、泣くことができるのだと。固く張り付いた歪な笑顔も、彼を思う気持ちの前では容易く崩れるのだと。
ドレービーを好きになることに躊躇いはなかったし、好きになったことに後悔もなかった。
だって、この世界でクレアに優しくしてくれたのは、ドレービーしか居ないのだ。仮に他の誰かがクレアを助けてくれたのなら、きっとクレアはその人を好きになっただろう。たとえその人がドレービーよりも更に恐ろしい見目と気性を持ち合わせていたとしても、クレアはきっと心惹かれたことだろう。
だから、好きになったのがドレービーでよかった、と思った。ドレービーの見目は巨大な芋虫で、人に似た歪な形の腕がついていて、目玉も三つついているけれど、優しくて、暖かくて、そしてとても可愛いひとなのだ。
クレアが作った歪なアップルパイを一緒に嬉しそうに食べてくれて、『この間よりもっと美味しいね』と笑ってくれて、クレアの好きな味付けに『ちょっと辛い』とめそめそしているような、そんな、とても可愛いひとだ。
出来ることなら、一生を添い遂げたい。ドレービーの寿命は途方もなく長いと聞いたから、せめてクレアが息絶えるまでは共にいてほしい。残された彼がその先の未来で誰か別の素敵な魔力の人を探しに行くのだと思うと嫉妬に身が焼けそうになるが、少なくとも死んだ後のことならば我慢ができる。
だからこそ、最近のドレービーの様子が心配でならなかった。もしかしたら彼はクレアよりも更に『魔力の美しいひと』を見つけてしまったのではないだろうか? だから最近は余所余所しいのではないだろうか。
湧き上がる不安を抑えることは日に日に難しくなり、やがて耐えきれなくなったクレアは、ある日隣町への買い出しの帰りに、聞いていた森へと立ち寄った。
「…………ええとね、ミス・フロックハート。俺にそれを相談されても困るのだけれど」
「そうですよね、ごめんなさい。ドレービーと同じ悪魔の方なら分かるかと思って……」
「いや、違うんだ。そうではなくて……ああ、なんて言ったらいい?」
森の同胞は、心底困り果てた顔で額に手を当てて呟いた。彼はドレービーとは違って非常に人間に似た形をしている。三十代半ばの鳶色の髪をした男は、不安げに眉を下げるクレアを指の隙間からそっと見遣ると、深いため息を落とした。
「一つ言えるのは、君はあまり心配する必要はないということかな。言っておくけれど、現存する世界で君以上に美しい魔力を持つ存在は他にいないし、過去と未来においても同様に存在しない。魔力というのは同質のものは二度と生まれない、だからこそ尊く、その美しさに価値があるんだ」
「…………では、私の魔力が失われることはあり得ますか?」
「もちろん、君が死ねば失われる。でも、死んだとしても魔力を取り出して保存する方法はいくらでもあるから、彼が君以外を愛することはあり得ないと思うよ」
同胞は周囲に忙しなく視線をやりながら、限りなく声を潜めて続けた。同胞は気配探知に優れた種ではあるけれど、災禍の王がその気になれば『なんだってできる』ことを、彼は痛いほどに知っていた。何せ、彼の元いた世界は、既にドレービーの手によって一度滅んでいる。絶対の力を欲した王族は数多の民を贄に『邪神』を召喚し、世界統一を果たそうとした結果、邪神の神性に耐えきれず、世界もろとも滅んでしまった。
ドレービーがこの世界に来るにあたって自身を『魔人』と定義しようとしたのは、この世界を壊してしまわないためだろう。極めてありがたい判断だと言えた。
どうやらドレービーは軽度の接触程度なら咎めるつもりはないらしい。会話を聞かれている気配もない。ひとまず安堵の吐息をこぼした同胞に、クレアは不思議そうに黒曜石の瞳を瞬かせた。
「……魔力だけを取り出す方法があるんですか?」
「ああ、幾らでもあるよ。魔唱石に閉じ込めたっていいし、魂を取り込んで身体の中で別の器官として動かすのでもいいし、新たな定義を与えて君そのものを宝石とするのでもいい。下手に人の身を生かすよりもよほど管理としては楽だね」
「……じゃあ、どうしてドレービーはそうしないのかしら?」
同胞は答えに窮した。そんなことは決まりきっているからである。
ドレービーは生きているクレアが好きなのだ。生きて、動いている彼女を手元に置きたいと思ったのだ。一体いつからクレアが好きになったのだろう。もしかしたら一目惚れだったのかもしれない。聞く気はないが。照れ隠しで森を破壊されては堪らない。
「…………君には分かっているんじゃないのかい」
だから、同胞は全ての責任をクレアへと投げた。クレアは教育を受けていないだけで、聡い女性だ。少し考えれば答えに行きつくだろう。
「さあ、もう帰りな」
あまり長居しているとドレービーが気づくかもしれない。同胞には馬に蹴られて死ぬ趣味はないし、折角滅亡した世界から生き延びたのだからあとは余生を楽しく過ごすつもりだったのだ。災禍の王に上半身と下半身を真っ二つにされ、挙句のはてにそれぞれも細切れのぐずぐずに溶かされるなんて目には遭いたくない。
大丈夫だよ、おふたりさんともとても仲良しだろう? そう言って送り出した森の同胞に、クレアは少しだけ納得がいかないながらも小さく頷き、笑顔でお礼を言って去っていった。
家に帰ると、門の周りに夥しいほどの死体が転がっていた。びっくりして足を止めてしまったクレアの視界の端で、塀の影に隠れるようにして身を潜めるドレービーが「おかえり」と力無く呟く。完全に、悪戯が見つかった飼い犬と同じような反応だった。
「どうしたの? これ、」
誰かがドレービーの噂を聞いて攻め込んできたのかしら、なんて思いながらそろりと転がった足を跨いだクレアは、転がっている頭のうちの一つにひどく見覚えがあることに気づいた。黒曜石の瞳が、砂まみれで転がる首をじっと見下ろす。苦悶の表情を浮かべるそれは、一年ぶりに見る顔だった。
「お父様」
思わず呟いて、次いで、笑いが溢れる。やだわ、『お父様』ですって。骨の髄まで染み込んだ〝躾〟に自分でも呆れてしまう。クレアはそのまましばらく、耐え難いほどの衝動に笑い続けた。
楽しげに笑い続けるクレアの様子を見て、塀に隠れるようにしていたドレービーがゆっくりと顔を出し始める。彼の黒い身体には無数の臓物の欠片がこびりつき、八本脚の一つには明確に小腸と思しき部位が垂れ下がっていた。
「ごめん、クレア。ぼく、その……君の家族を……」
よくよく見ると、兵たちの中には弟と、兄の姿もあった。一体どうしてこんなことをしたのだろう。クレアにはさっぱり理解できなかったけれど、一つだけ確かなことがあった。
「ドレービー、私の家族はあなただけよ」
砂まみれの首を軽く蹴り飛ばす。球状と言うにはあまりに歪な塊は下手な軌道を描いで少しばかり転がっていき、すぐに他の死骸に紛れてよくわからなくなった。
クレアの行く先を阻むものはもはや何一つ転がっていない。門の影から顔を覗かせるドレービーへと軽やかな足取りで近づいたクレアは、彼の頰へと手を伸ばすと、もう一度囁いた。
「私の家族はあなただけなの、この先ずっとね」
「…………ぼくでいいの?」
「貴方がいいわ」
「でも、ぼく、人間じゃないし、こんな見た目だし……」
自信なさげに呟くドレービーは、自分の体をゆっくりと振り返ると、脚の一つに引っ掛かっている臓物に気づいて、洋服に大きめの虫がついていた御令嬢のような反応でそれを振り落とした。その辺の草むらに放り込んで、丁寧に隠している。彼はあまり器用ではないので、結局端が食み出たままだったけれど、クレアは微笑みを浮かべて見なかったふりをした。
「ドレービー、何度も言わせないで。貴方がいいのよ」
バスケットを出来る限り綺麗な場所に置いてから、戸惑うドレービーの首元に抱きつく。強く抱きしめると、案外柔らかい身体をしているドレービーの首が柔く撓んだ。そうして待っていると、ゆっくりと八本脚のうちの一つがクレアの背に回った。
フロックハート侯爵が『自身の娘が〝神〟に見初められた』と聞いたのは、以前に『取引』をしようと持ちかけてきた好色の公爵経由だった。なんでも、一年ほど前に王都の神官長が処理しきれずに奇声を上げて暴れ回るほどの強大な『予言』が降りてきたらしい。
三日三晩正気を失い暴れ回り、拘束されるまでに裂傷と骨折で自傷の限りを尽くした神官長曰く、『災厄の神が降り立ち、とある娘を見初めた』のだという。その娘の名は、『クレア・フロックハート』。フロックハート侯爵家に知らせが届いたのは、おおよそ神託を受けてから半年後のことだった。
公爵は、『クレア・フロックハート』が以前『欠品』を理由に契約を破棄した娘だと知ると、どれだけ金を出してもいいから欲しい、と言い始めた。神に愛されるような娘だ、さぞかし具合がいいのだろう、と、フロックハート家では一生をかけても手に入れることが出来ないような金を支払うと言い出した。
役立たずの塵のような娘にようやく役割が出来たのだ。フロックハート家は歓喜の声に包まれた。神と言っても、あんな娘を欲しがるような低劣な存在だ、大したことはないだろう。
公爵からの援助もあり、情報を掴んだ侯爵家は五百の軍勢を率いてとある屋敷を襲撃した。当主自らが加わったのは、公爵へのアピールだ。これだけ貢献したのだから、もっと褒美を与えられて然るべきだろう、と。
そうして意気揚々と乗り込んだ軍勢は、ものの十五分で壊滅した。どちら様ですか、と尋ねたドレービーを神の召使か何かかと勘違いした侯爵は、高慢な物言いで此処に訪れた経緯を説明した。お前の主人が攫った私の娘を返せ、あれにはまだ役目があったのだ、捨てるには早かった、と述べる侯爵に、ドレービーはこれが『父親』か、と思った。思って、次の瞬間には腹部に脚を突き入れていた。
人間というのは面白いくらいに脆い。防具がなければろくに身を守る器官を持たず、硬化も出来なければ内臓の位置をずらすことすら出来ない。そして、一つ二つ臓器がやられれば容易く死ぬ。
ドレービーは人間には全く詳しくない(彼が詳しいのはいまだにクレアただ一人である)が、人間がどうすれば上手く壊れるのかだけは、大層詳しかった。
死なない程度の臓器をいくつか潰し、馬と一緒に地面に転がしておく。喚き始めた他の人間たちは、頭部を潰せばすぐに動かなくなった。そういえば、と先ほど『父親』が呼びかけていたいくつかの人間を拾い上げておく。
『兄』と『弟』を同じく処理して『父親』の横に転がすと、彼らは互いに口汚く罵り始めた。元気なことだ。
「ごめんね、よく聞こえなかったんだけど、クレアをどうするって言ったの?」
もしかしたら聞き間違いだったのかもしれない。彼らはクレアに謝りに来たのかもしれない。自分のような得体の知れない存在に攫われたと聞いて、今更クレアのことが心配になったのかもしれない。
有り得ないことは分かっていたのにわざわざ尋ねたのは、いまだに時折、クレアが夜中に呻きながら飛び起きるからだ。ごめんなさい、許してください、と泣きじゃくる彼女は、自分が夜中に泣き喚いていることも、家族へと懺悔を吐いていることも、朝にはすっかり覚えていない。覚えていたくもないから、脳が記憶することを拒否しているのだろう。
家族と和解することで少しでも彼女の傷が癒えるのなら、そういう風に使うのもいいかもしれない、と思ったのだ。
『父親』は最初、変な笑みを浮かべながら「神殿に依頼されて邪悪なる神からクレアを保護しに来たのだ」と言った。指をいくつか折ったら本当のことを話し始めたので、ドレービーは彼の上半身と下半身を両断して、首を切り落としてから、残りは全部細切れにしてしまった。這って逃げる『兄』と『弟』も同じようにして、そして、『妹』がいないのは残念だな、と思ったところで、クレアが帰ってきたのだ。
ドレービーは一瞬で我に返って、慌てて門の後ろに隠れた。人間は『家族』というものをとても大事にするらしい。たとえ虐げられていたとしても、殺したいと思っていたとしても、実際に死んでしまったら悲しいと思うことがあるらしい。
クレアがそうだったらどうしようか。自分は決定的に嫌われて、クレアは此処を出ていってしまうかもしれない。
自身の巨体が隠れられるはずもないと知っているのに、ドレービーは塀の後ろに隠れてしまった。立派に食み出ているので、クレアとはすぐに目が合った。おいしそうなパンの入ったバスケットを抱えたクレアは、周りの惨状を一通り見回してから、足元に転がる男の首を見て、口元に笑みを浮かべた。
「お父様」
呟かれた声には、少なくとも悲しみはなかった。けれども、憎悪も既に掻き消えてしまっているようだった。彼女は今、どういう気持ちで父親の首を見下ろしているのだろう。
息を詰めて見守るドレービーの前で、クレアはやがて、なんとも楽しげに笑い出した。初めてドレービーに気を許した時と同じ笑みだった。彼女は今、心から笑っている。楽しげに。愛おしげに。
魔力の煌めきがドレービーの目を奪った。まるで夜空を染め上げる極光のように美しい。少なくとも、怒っている様子はなかった。
そっと安堵の息を吐いて、ドレービーは門からそろりと顔を覗かせる。何かしらの弁明を口にしたような気がしたが、その他にも用意していた言い訳はクレアの言葉で全て吹き飛んでしまった。
「ドレービー、私の家族はあなただけよ」
クレアはそう言って、ドレービーを強く抱きしめてくれた。これ以上の幸福はないだろう、とドレービーは思った。それが誤りであることをこの先の七十年で思い知る羽目になるのは、また別の話だ。
クレアはドレービーを抱きしめ、彼の控えめな言葉の真意を正しく読み取ると、大きく開いた黒い口に、そっと口付けた。この時点で『これ以上の幸福』は既に上書きされていたのだが、あまりにも衝撃が大きすぎるせいで、ドレービーはふらふらと手を引かれて屋敷に戻り、美味しい晩御飯を食べて、いつものように健やかに眠りにつくまで、そのことに一切気づかないままだった。
「それで、来月小さな教会で結婚式をしようと思うんだけど、君も来てくれる?」
「王サマのお呼び立てなら何を放り出しても行くよ。でも、その教会は可哀想だな、担当地区の魔人の胃が死にそうだ」
「この世界の魔人は死んでも蘇るから大丈夫だよ」
「まあね。そりゃ、もちろん。……もちろんね」
森の同胞は特にそれ以上を口にすることはなく、後はただ祝福の言葉だけを紡いだ。それ以外の何を言っても野暮だと分かっているし、余計なことを口にしないのが彼の処世術だった。
◇ ◆ ◇
「ねえ、ドレービー。私の魔力は今でも美しいかしら?」
「君が一等美しいよ」
「それって、死んでも変わらない?」
「もちろん」
寝台に横たわるクレアは、何処か不安げに問いかけた。脇に立つドレービーは、変わらず八本脚の芋虫姿である。結局七十年の時をかけても、固定された彼の姿はどうにもならなかったのである。
ドレービーがあまりにも気にするので、クレアは一時期、毎日ひとつはドレービーの素敵なところを褒めるようにしていた。七番目の脚の先端が他よりちょっと丸っこいところがかわいい、というのが数ヶ月に一度は言われるドレービーのチャームポイントだ。
何度も繰り返し褒めてもらえたから、ドレービーは今や自分の体のどこもかしこも好きになっている。たとえ他の姿を取ることが許されたとしても、ドレービーはこの先もこの姿で生きるだろう。何せ、一番に愛した人が余すところなく褒めてくれた姿なのだ。
「そう、よかった」
クレアは心底安堵したように呟いた。穏やかに微笑む彼女は、やはりこの世で一番美しい。魔力だけではなく、その容姿も、性格も、生き様そのものが。
『父親』を退け、その次にやってきた『公爵』も同じように片付けて、結局王都からやってきた『神官』の軍にも同じような対応をした後、屋敷の周辺には不可侵条約が結ばれた。手を出せば誰も彼もが死ぬのだから、当然の話だった。
そうして平穏を手に入れたのち、クレアはドレービーにとあるお願いをした。ドレービーの力で、街で苦しむ子どもたちを攫ってきてくれないか、と。クレアと同じくどうしようもなく虐げられている子どもたちをなんとか助けられないかと願うクレアに、ドレービーは二つ返事で請け負った。
対象はドレービーの姿を見ても驚かない子供だけに絞られたが、それでも何人もの少女や少年が屋敷で過ごし、無事に成人して旅立っていった。
ドレービーは彼らに『お父様』と呼ばれるたびになんともむず痒い衝動を覚えるのだが、クレアが嬉しそうにしているので、特に何をいうでもなく素直に受け入れることにした。クレアが心底幸せそうに笑っていることが、ドレービーにとっては何よりも重要なのだ。
この七十年、クレアは本当に幸せそうだった。心から笑い、怒り、時には泣いて、ドレービーの隣で美しく輝き続けた。
そしてこれからは、一等美しい宝石として、ドレービーの胸で輝くのだ。彼女がそうして欲しいと望んだから、ドレービーは死にゆく彼女を宝石とする道を選んだ。アンデッドじゃダメ?と何度か聞いたことがあるけれど、復活者はその時点で魔力が穢れてしまうのだと聞いてからは、クレアは『私を貴方の中で一等美しい価値のあるものにして』と願った。
今のドレービーには仮に魔力の美しさが損なわれたとしてもクレアを愛し続ける自信がある。それを信じてもらえないのは寂しい、と零したドレービーに、クレアは小さく笑ったのだ。
『女っていうのはね、好きな人には一番綺麗な自分を見ていて欲しいものなのよ。それが一番素敵な形で叶うのですもの、絶対にそうして。貴方を飾る美しい宝石という立場を、私だけに頂戴?』
愛おしげに細められた黒曜石の瞳を見つめ返しながら、ドレービーはただ静かに頷いた。愛する人に此処まで望まれて断るなんて許されないだろう。七十年の間に学んだ、夫の心得というやつだった。
「ドレービー、私を助けてくれたのが貴方でよかった」
「ぼくも、こんな素敵な君を見つけられてよかったよ」
美しい瞳がゆっくりと綴じられていく。
ドレービーは痩せ細ったクレアの掌をそっと握り締めながら、柔らかく微笑む彼女の頰へ軽く口付けた。