猫
深夜三時半の橋の上。
人ひとりいない真っ暗な道に、遠くからヘッドライトが近付いてくる。
あの光が通り過ぎたら、この手すりを超えて川へ飛び込もう。
墨汁のように真っ黒な水面。
あれに吸い込まれたら、二度と浮かんでは来られないだろう。
もう終わりにするんだ。
僕は靴を脱いだ。
ヴゥンッと音を立てて車が通り過ぎた。
「よいしょ……っと」
大したことない手すりだと思っていたが、乗り越えるとなるとそれなりに力がいる。
靴下が滑って上りづらい。
苦労していると、手すりにかけた右手の指に何かが触れた。
「うあっ!?」
びっくりして手すりから離れた。
「ね、猫か……」
人を怖がらないにしても、近付きすぎじゃないだろうか。
とにかくタイミングが悪い。
僕は今から川へ身を投げるところなんだ。
野良猫を可愛がっている余裕などない。
あっちへ行け、という風に右手をひらひらと振り、猫を見ないようにして靴下を脱いだ。
再び手すりへ手をかけようとした、その時。
「よう」
僕は硬直した。
まるで少年のような甲高い声が近くから聞こえたのだ。
「だ、誰?」
「俺だ」
暗闇でよく見えないが、人の気配はない。
「俺だよ。猫だよ」
手すりの上の猫を、初めてまじまじと見た。
暗いのでよく見えないが、それは確実に猫だ。
「君は……?」
「猫だってば。分かるだろ。お前猫を知らねえのか」
「し、知ってる」
猫は知っているが、僕の知る猫は人語を喋らない。
「腹が減った。ツナを買ってくれ」
「ごめん、けど、僕は今から死」
「ツナを買ってくれ。頼むよ」
「……」
僕は靴下と靴を履いた。
***
僕は猫を連れて歩き、コンビニまでやってきた。
「ここで待ってて」
「おう」
猫を駐車場に残し、コンビニへ入る。
幸い、着ていた制服のポケットにはわずかな小銭が入っていた。
ツナ缶を買って帰ってくると、猫は行儀よく座っていた。
プルタブを掴んでペリペリと缶を開け、アスファルトに置く。
「ありがとよ」
猫は缶に顔を突っ込んでツナを食べている。
駐車場の街灯に照らされた猫は、灰色と黒の縞模様をした、野良にしては大きめの立派な猫だった。
「お前、名前は?」
「え、え?」
突然話しかけられて僕は戸惑った。
「名前だよ。人間には名前があるだろ」
何が何だか分からない。
が、とりあえず質問には答えておこうと思った。
「莉智」
「リーチ? 変な名前だな」
「そ、そうかな。君は?」
「俺は猫だからな、名前なんて無えよ」
「ふーん……」
そうこうしているうちに、猫はツナを食べ終わった。
「ふー、うまかった。腹減って死にそうだったんだ。ありがとよ」
「いやいいよ。僕もうお金要らないし」
そうだ。
僕はこの猫とお別れしてさっきの橋に戻り、川へ身を投げて死ぬのだ。
どうせ使わない金だ。
無駄にならなくて良かった。
「よう、リーチ」
猫は缶のフタについたわずかなツナの油を舐め取りながら、僕を鋭い目で見た。
「親切ついでに、俺に名前つけてくれよ」
「え、困るよ。僕そういうのやったこと無いし」
「頼むって。野良の俺には呼ばれる名前すら無えんだぜ。かわいそうだと思うだろ?」
「うーん……」
あたりを見渡しても何もない。
たださっき買ってきたツナ缶だけが目に入った。
「ツナ……なんてどうかな」
「ツナね。ツナか……」
猫はしばらく首と尻尾を振りながら考えていたが、やがて真ん丸な目で僕を見つめて言った。
「悪くねえ。よし、俺は今からツナだ。そう呼んでくれ」
「わ、わかった」
何なんだこのテンションは。
調子狂うなあ。
「じゃあツナ、僕もう行くから」
僕は猫の顔を見ないように、暗い方へと歩き出した。
「おい待てよリーチ」
「何だよ……」
不思議と足が止まった。
「俺やっぱり、こんな缶一個じゃ足りねえわ」
「わがまま言うなよ……もうお金だって無いんだから」
「リーチの家、連れてってくれよ。家に行けば何かメシあるだろ?」
「僕の家?」
僕の家。
一番嫌いな場所だ。
「い、いや……やめとこうよ」
「うるせえな。行くぞ」
「そんな勝手な」
「良いじゃんか、早くつれてけって」
こんな猫一匹、無視して歩き出せないのはなぜだろう。
いや、人語をすらすらと喋る猫がいたんだ。
無視できないのが普通かもしれない。
「うん……わかったよ」
今まで何をしても、世界が変わることは無かった。
どんなに頑張っても、生きたいとは思えなかった。
でももしかしたら。
もしかしたらこの猫が。
そう思わせるだけの魔力が、ツナにはあった。