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 あたしは、部屋を拭く。


 世界は本当ならどんどん乱雑になっていくらしい。脈絡なく。

 あたしにはそれがよくわからないけれど、もしそれが本当なら、時間もめちゃくちゃになっていくんじゃないだろうか、あたしは死んで、それでいつか、またあの時に戻るのかもしれない。

 けれど、君はまた死ぬのかもしれない。


 人が居た痕跡を消さなくては。

 あたしが居た痕跡を消さなくては。


 だから、いつか、あの子も殺さなくては。

 あたしが死ぬ前に。


 あの子は君のにおいがする。


 あたしは、雑巾をもう一度水につける。

 腕のかさぶたがふやけてぶよぶよとして、醜い。


 生きることは嫌だ。


 あの子をいつか殺さなくてはいけない。


 だからあたしはあの子を殺すときに備えるために、何を考えているのか知らなければいけない。


 あの子の部屋に入らなければいけない。


 あの子の部屋はにおう。


 ドアノブを回そうとしたが、鍵がかかっていて動かない。

 ガチャガチャと何度か音を立てたけれど、ぜんぜん動かなくて、イライラしてくる。


「あけろよぉっ」


 大きな声を出して、ドアを蹴り飛ばす。ちょっとすっきりした気がした。

 でも結局開かない。


 何の意味もない。


「……壊れろよ、こんなん!!」


 もう一度、蹴ってみる。

 壊れない。

 鼻に力が入る。

 奥歯を食いしばる。

 眉毛がぐっと吊り上がる。

 顔が醜く歪む。


 冷製にならなくては。

 このままでは開かない。


 そうだ、椅子をもってこよう、椅子でぶち壊せばいい。

 そう思ってリビングに行く。


 何もない。


 そうだ、椅子はもうないんだった。

 だって、あれは君の座っている椅子だから。

 君以外の人が座っていいものではないのだから。


「あああああああああーん、あーん、」


 なんだか泣けてきてしまうので、泣いた。


 この部屋には何にもない。

 どの部屋にも何にもない。


 それでいいんだ。

 君を思い出すものは何も置きたくない。


 なんだかよくわからないけれど、食べ物を食べなくてはいけないような気がする。

 でも、何も食べなくてもいい気がする。

 でも、食べなければ。

 いつかあの子を殺すために。


 近くのコンビニに買いに出ることにする。


「佐藤さん、こんにちは」


 店主が挨拶をしてくれたので返す。


「こんにちはー、寒くなりましたね」

「ねぇ、あ、また、このパンおいしいですよね」

「えぇ、娘が好きなんです」


 彼女はいつも声をかけてくれる。

 そう、あの子を殺す時まで、普通にしていなければ。


 部屋に戻って、パンを食べる。一緒に買ってきた野菜とゆで卵も。


 かすがこぼれたので、また、雑巾で拭く。

 私が、まるでいなかったかのようにしなくては。


 このうちにはカーテンもない。

 君が触るものだから、捨ててしまった。

 そして、君が触らないカーテンなど新しく買う意味がない。



 部屋に入る光の形がどんどん変わっていく。



 日が傾く。



 呼吸が浅くなる。



 君が死ぬ。



 夕日が沈んで夜になる、そのつかの間が、怖い。


 

 君が死ぬ。


 

 あたしの中で、何度も、何度も、何度も。


 ついに、その時になる。


「あ、ああああああああああああああああああああ」


 叫ぶ。


 叫ぶ。


 窓を開ける。



「ああああああああああああああああああああああ」


 こわいこわいこわい。


「ちょっと、あんた、やめてよ!!」


 あの子がぐっと、あたしの腕をつかんだ。部屋の奥へと引きずり込んで、窓を閉める。


「いい加減にしてよ、どうして毎日毎日、やめてよ、やめてよっ!」


 その勢いで、あたしは部屋の中に転がった。

 起き上がりたくないので、おきあがらない。

 力が入らないだけかもしれない。


「くさいくさいくさいくさい」


 あの子に聞こえるように言う。

 本当に臭い。

 化粧品の臭いは嫌いだ。


 私は化粧なんて、大嫌い。


「もうやめてよ! なんで、せめて普通に自殺出来ないの? どうして、生き続けてるの?」


「くさいくさいくさい、なんで化粧なんてしてるの? 臭くない?」


 気が狂ったふりをして、あの子を傷つけるのよりも、普通の顔をして、傷つけたほうがあの子は傷つくような気がしたから、そうする。

 狂人に何を言っても、あの子は気がとがめない。


「なんっで、なんで、どうして、ここに居続けるの、わざとらしく、あた、あた、あたしは」


 あの子は肩で息をしつつ、どもりながら言う。

 あの子の部屋に、なぜか、贅沢品の化粧道具がいくつも乱雑に転がっているのを、あたしは知っている。彼女が何をして、それを手に入れているかも。


 あぁ、私にそっくり。


「これくらいの狂人、今の世界には溢れるほどいるじゃない」


 寝転がったまま。

 フローリングは冷たい。冷たい。

 冷たい、がわかるということ、生きているということ。


 君のいるころも、よく、これを感じてた。フローリングに転がって、顔を守るようぎガード。


「そんで、そういう人はさっさと自殺してる。でも、あんたは死んでない、死んでよ! もう」


「どうして?」


「お父さんもういないじゃん!」


「違うでしょ。あたしが、あんたの重荷だからでしょ?」


 自分で言うのも何だが、どうして生きているのかわからない。でも、なんでだか、生きている。


「知ってんじゃん! あたしがあんた養ってんじゃん、どうしてそういう口きけるの、なんで」


 あの子が手を挙げる。

 けれどもそれを私に振り下ろしたことは一度もない。


 私がこう言うからだ。


「君にそっくり!」


 あたしはその手があたしを傷つけるのをこの上なく期待しているのに。

 決定的な、その瞬間を。

 けれども、あの子は、けっして、そうしない。

 君に似る意志の強そうな濃い眉毛、薄情そうな一重の瞳。

 あたしに似る薄い唇、少し上向いた鼻。

 そして、私たちによく似た、世間の目を気にするしたたかさ。


 あの子は、狂人の母を世話するよくできた娘さんという立場を手放したくない。

 あたしは、君の社会的地位と収入と、あたしなんかのそばにいてくれるという事実。

 君は、そこそこの学歴とそこそこの容姿とそこそこの収入を持つ、家事をすべて請け負い――殴らせてくれる私。


「なんか、ななななんか、どうして、あんた、そうやって嬉しそうにするの」


 似てるから。


 私たちはみんな本当によく似ていて、世界には何一つ本当は必要ない。


 本当に、私が殺したいのは、あたしでもなく、あの子でもなく君だ。


 だから、あの子が、決定的に、君になる瞬間を待ちわびている。

 




 狂人のふりをして、床を、この部屋を拭きながら。

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