その2: 霧江冬吾と別珍の本
霧江冬吾は、小説家である。そう自負している。出版社の賞を受賞したこともあり、本を出版したこともある。そして今も、物語を書き続けている。肝心なのはそこだ。小説家とは、筆を折るまでが小説家なのだ。
だが現実は…霧江は小説で生活できるほどの収入を得られていない。今までの稼ぎは、出版社の賞を受賞した時の賞金と、その本の印税と、その3年後に出した新作などのほんの少しのギャラだけだ。それ以降、霧江は書店に並ぶような本は書いていない…文章は書き続けているけれど。
霧江冬吾は、小説家である。ただし小説では食えない。だが彼は、小説家である事をやめようとは思わなかった。
彼の元カノは、彼の生き方に理解を示した。彼女は、「諦めたら、そこで試合終了だよ」と、霧江を見つめながら目をウルウルさせて言ったものだ。霧江は、その時の言葉と彼女のウルウルに感動し、たとえお金にならなくとも、自分はどこまでも小説家として頑張って行こうと心に誓ったのだ。
しかし彼女は、その半年後に、丸の内の大手銀行に勤める男と婚約したと言って、霧江の元を去ってしまった。彼の生き方に理解は示したけれど、彼との生活には理解が示せなかったのだ。
以来彼は、観念した。文学の荒波に立ち向かう者は、常に孤独なのだ、と…
小説家じゃないけど、あのシューベルトだってニートだったじゃないか。今でこそ天才などと囃されているが、彼だって生前作品を出版社に買い叩かれたりしているし、縁故採用で立派な定職があったにも関わらず、ブッチして友人宅を転々とするボヘミアンライフを満喫していたのだ。俺は天才じゃないかもしれん。だが、それは「今だから」なのかもしれん。きっと俺はシューベルトの如く、生まれて来るのが早すぎたのだ!霧江は心の中で声を大にして叫んだ。
…どうやら彼には、残念なことに問題の本質が分かっていないようだ。
幸いにも彼の家は土地持ちの資産家で、彼の親はいくつか会社も経営しており、家から出なければ生活に困ることはない。彼はもう37歳にもなるが、現在も小説執筆の傍ら霧江家が経営している古書店の店番を時々している以外、労働らしきことはしないで生きている。霧江が4人兄姉弟の末っ子であることも幸いし、両親共に霧江が事業を継ぐことは期待していないし、もしも霧江が一生この生活を続けていたとしても全く困らない程度の財力はあるからだろう。
彼は小説家だ。彼の寄稿している同人誌はそこそこ売れており、確定申告の必要がない程度の収入はある。収入が全くないわけじゃない。だから自分は、まだやれる!
霧江は、昔から一途な性格だった。
昨日も、親に与えられたマンションの最上階の書斎で文章を捻る作業を4時間続け、いい加減集中力が無くなった頃に気分転換をしようと窓から外を眺めた。
地上の景色が、何故か輝いて見えた。
何かが見つかるのではないか。この、泥のような日常から自分を変えてくれるような、何かが…
霧江は、いつものように浅葱鼠の羽織袴姿で山高帽を被り、直通エレベーター経由で街へと歩き出した。
(運命の出会いまで、あと1時間…)
----------
駅前のアーケード商店街を和装姿で歩くのは少々目立つ。
行きつけの蕎麦屋でいつものようにざるそばを手繰り、勘定を済ませ、霧江冬吾は表へ出た。腹ごなしに見慣れたアーケード商店街をなんとなく散歩してみる。うちの古書店の前を通り過ぎる。そういえば明日は平井くんが幕張メッセの古本市に行くとかで店番頼まれてたっけ。
霧江は、平井くんにはどうにも疎まれているらしい。別に彼が雇ってるわけでもないし、横柄な物言いをした訳でもないのに、どうも彼は平井くんには好かれていないらしいのだ。まぁ、いつもそんなもんだ。俺と初めて関わる人の反応は極端に2つに別れる。
物凄く好意を持たれるか。
物凄く嫌われるか。
俺だって嫌われて嬉しいわけじゃない。だが、好かれるように媚を売って生きようとは思わない。嫌いな奴には嫌わせておけ…
さて、このアーケード商店街には、霧江の家が構える店を含めて3軒程の古書店がある。近くには大学が3つあり、学生達や先生方が専門書の古書などを求めて来店するのだ。昨今では大抵の古書店は、ネットを使った通販も行っているが、書店にわざわざ足を運ぶようなお客は、必ず一定層いる。彼等は根っからの古書好きで、目的の本をまず手にとってみたいのだ。
この商店街では、そんな古書店同士が凌ぎを削っている…わけでもなく、けっこう仲良く共存している。別の古書店の店長がうちの店に訪れることもある。
霧江は、とある古書店の前を通り過ぎようとした。そのとき、入口脇の棚に何気なく目を向けた。…瞬間、霧江は足を止めた。
何かが俺を見つめている。
確か今までにも1度だけ、こういう視線めいた気配を感じたことがあった。それは以前、世田谷区某所に出掛けた時だった。通りがかりのアンティークショップの店先からこっちを見る気配を感じた。振り向いてみると、そこには舶来物のアンティークドールがあった。赤いドレスにボンネット、色あせたブロンド、気の弱そうな大きな緑色の瞳。…どこか遠くを見つめているようにも見えるが、その人形は、霧江に向かってぼんやり何かを主張しているようだった。
結局、そのショップには寄らずに帰ってきたが、彼は数日、その人形のことが気になっていた。
どうやらそれと同じ気配が、今、彼のもとに来ているらしい。…しかしあの棚、売られているのは、古本だけだ。しかもご丁寧に「100円均一」の札まで付いている。
100円なら、いっか。
実は霧江は、あの人形は見るからに高価そうだったので、近寄ることも考えなかったのだ。100円なら、間違って買ってしまっても手痛い散財にはならないだろう。
霧江は、棚に近寄り、よく見てみることにした。…程なく彼は、気配の元を探り当てた。すると、今度は声が彼の頭の中に響いた。
手に取りなさい…
私を、手に取りなさい…
「なんだ、こりゃ…」
件の本を棚から引っ張り出す。…なんだこりゃ。
彼の手に取った本は、赤いハードカバーの文庫本サイズの本だった。
「赤い布の装丁なんて、変わってるな…しかもこの色褪せ具合、中々にグッとくる物がある…」
そこでまた頭に響く声が…
レジへ向かいなさい
迷わずに向かいなさい
いやしかし、なんの本なんだこれは?明らかに古そうで、しかもハードカバーで、100円で、おまけにタイトルも見ていない…
しかし、ここで霧江の頭に、3度目の声が響いた
足を止めてはなりません
ひたすらにレジへ進むのです
そして本をカウノデス!!!
…気がついたときには彼は、その本をレシートと共に握りしめていた。
背後から店主の声が「まいどあり〜、霧江の坊ちゃん!」と聞こえてきた。
----------
えーと。つまり、買ってしまったわけだ。
なんの本かもわからん古書を。
まずはタイトルを確認…それすらしてなかったのかよ。
表紙を読む。ん…?これ、何語だ?
金押し文字でタイトルと著者らしき表記がある。西洋の横文字であることは間違いない。しかし…
ページをぱらぱらめくった。ぱっと見、英語とフランス語ではない。ちょっとドイツ語に似てる気もするが、単語が分かりそうでわからない…オランダ語あたりかな?…ラテン系の言語や北欧の言語とは、明らかに違う感じだが…
面倒だ。霧江は英語、ドイツ語、フランス語なら辞書でも引けばそこそこ読める。だがそれ以外の言語となると、文法も単語もさっぱりわからない。こんな読めない本買って、どーすんだ?
嗚呼。またいらぬ物を買ってしまった…
彼は赤表紙の本を本棚にしまいかけた。
…その時、ふと思った。これ、アイツ、読めるんじゃね?
アイツとは、霧江の幼なじみで今でも親友の男のことで、名は阿田巻 三春という。彼もまた資産家の子息で、「売れない作曲家」という名のニートをやっている。
確かアイツ、オランダに留学したことあったよな?…どこだっけ?アムステルダム?
この言葉がオランダ語なら、彼に頼めば訳してくれそうだ。
霧江は左の袂からスマートフォンを取り出すと、親友に電話をかけた。
親友・三春とひとしきり話をし、表紙の写メを送信したところ、三春が言うにはこの本は彼が読める言語…すなわちオランダ語で書かれている可能性が高いとのこと。
曖昧な返事になってしまったのは、どうやら古い言葉で書かれていて、表紙を見ただけでオランダ語だと判断するのは難しいから、とのこと。
なら全ページを写メして送ってもいいかと聞いたら、溜息をついて、「俺、明日そっち行くわ。その方が早いし。」と言われた。
ここまでが、昨日の話だ。
そして…翌日は、朝から古書店のレジ中でぼ〜っとして、なんとなく一日を過ごし、今に至る。
霧江が窓の外を眺めると、オレンジ色の太陽が遙か地平線に沈もうとしている所だった。
…あの声は、なんだったのか。
一瞬でも俺の自我を奪って100円の無駄遣いをさせた、あの頭に響く声。男?女?…わからない。声というより、言葉だけだったのかもしれん…
そんな風に物思いに耽っていると、玄関チャイムが鳴った。
解読先生、もとい親友殿のご到着だ。
恭しく、お迎えせねばならない。
最後までお読みいただきありがとうございます☆
ついに親友殿の登場。次回から、問題の本の解読が始まるようです。
それにしても、親友殿もニートとは…
すなわち、ダブルニートですね(笑)。
この二人をちゃんと操って、お話を進められるんでしょうか(笑)。
がんばります☆