その1: ある夕暮れ
「…さん。……江さん……霧江さん!」
声に驚いて、客が一向に訪れない古書店のレジ中にいた男はビクッとした。
「霧江さん、時間っス。」
「あ…ああ。平井くん…お疲れ様。」
平井と呼ばれた男は、入口のドアを閉めて、大きなスーツケースをゴロゴロ転がしながら霧江のいるレジカウンターまでやって来た。
「店番しながら、また読書ですか?」
「ああ…ごめんよ。…でもお客は来なかったから、大丈夫だよ、うん。」
霧江は狭いカウンターの中からのっそりと立ち上がった。交代の時間だ。
「今日の注文は…これだけ。」
霧江は平井と呼んだ男に一冊のノートを手渡した。
「ふぅん…F先生の、希少本かぁ。…入手、難しいかもしれませんよ。ちゃんと言っておいてくれました?」
平井くんは霧江が学生の頃からこの古書店で働いており、殊に高値取引されている希少本に詳しい。肩書は店長で、普段はほぼ1人で店を切盛りしているが、彼が不在の時は臨時に霧江が店番に入ることもある。
「買い出し、どうだった?…重そうだね。」
「そっスね。…まぁ、ぼちぼちっスかね。結構高値で売れそうなもんがボロい値段で売ってたり、中々面白いとこですよ、古本メッセって。」
「ふぅん。私も一度、行ってみるかなぁ…」
「幕張ですよ。霧江さんには遠いでしょ」
「それもそうだ。」
そのあと、小さな店内に、男二人の空間に短い沈黙が流れた。霧江が平井に声をかけた。
「今日は、この後は?…その、大きな荷物…私も、なんか手伝いとか…」
「あぁ。帰ってもらって大丈夫ですよ、霧江さん。こんなんべつに大した量じゃないし、この後、特に大きな用事はないし。」
その言葉を受けて長身の霧江はひょろりと立ち上がると、天井近くまである本棚の最上段に届きそうな頭に山高帽を乗せた。
「そう…ありがとう。じゃあ今日はもう、いいかな?」
「そっスね。棚卸しは来週ですから、その時都合が良ければ、また店番に来てもらえないですかね。」
「ん。わかったよ。」
霧江はカウンターから出て、店長の平井くんに自分の席を譲った。
「じゃあ、私はこれで…」
霧江が店を後にしかけたとき、平井が呼びかけた。
「霧江さん、F先生のこの本、いつまでに取り寄せとかって言われました?…って、さっきも聞いたんですけどね、俺?」
「あぁ、ごめん。…ちゃんと、期限は約束できないって言ったよ。値段もあとで連絡するって。」
「…あーはいはい。んじゃ、もういいスから…」
そう言うと、既に平井は霧江などその場にいないかのようにノートに集中し始めた。
「もういいスよ。お疲れ様…」
「ああ。うん。…お疲れ様でした。」
霧江は一人、ドアを開けると、店を出た。
そろそろ夕日が鋭く輝き始める、秋の夕方だった。
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ふと、手を見る。ずっと気になっていた本だ。
実はレジカウンターの中にいる間、ずっとこの本を眺めて物思いに耽っていた。
表紙が緋色の別珍のハードカバー、大きさは高々文庫本ぐらいだが、色褪せたその表紙は、その大きさ以上の存在感を示していた。
「せめて中を読むことが出来れば…」
霧江は溜息をついた。
本は外国語で書かれている。どうやら西ヨーロッパの言語らしいが、誰か読める人はいるのか…
「もしかしたら、あいつなら本当に読めるかもしれないな…」
彼は、急に吹いた風に反応して山高帽を押さえながら歩き始めた。このところ急に涼しくなり始めた。
「野分…野分避け…野分…うーん、野分…」
浅葱鼠の袴を風にはためかせ、この季節に似合う短歌でも捻ってみようとするが、夕陽の色を見ると、その気も失せてしまった。野分は、当分来ないだろう。
強い風から本を守るため、霧江はそっと着物の袂の中へ本をしまった。
長いアーケードを抜けて大きな寺の横を歩き過ぎて3つ目の角を右へ曲がると、大きなマンションが見えてきた。このマンションの最上階に、彼は住んでいる。
霧江は、マンションの居住者用の入口の脇にある小さなドアを静脈認証キーで開けて中に入った。窓のない空間にセンサーで灯が付くと、通路の先にエレベーターが現れた。ボタンを押すとすぐにエレベーターのドアは開いた。これは霧江の部屋直通のエレベーターで、無用な待ち時間を無くす為に特に作らせた物だ。
エレベーターがついた先は、直接彼の家の玄関だ。
扉が開いたので彼は降りた。そこは玄関の三和土だった。
草履を脱いで、きちんと揃える。
いつもは帰宅するとまず部屋着に着替えるのだが、今日は真っ直ぐリビングの電話機に向かった。子機を手にソファにどっかり座り、短縮ボタンを押すと、待っていた声が応えた。
「おう。お困りのご様子ですな?」
聴き慣れた明るい男の声に、霧江は話しかけた。
「やあ三春…今から時間、あいてるかな?…昼にメールした、古書の件だ。」
「オーケィ。…ふふふ。男からのデートの誘いじゃテンションも下がろうってもんだが、実は、俺もその本、ちょいと見てみたくてね。」
「頼むよ、三春。君しかいないんだ、多分。」
「多分…ね。俺が読める言語である事を期待しましょう。じゃ、すぐ行くよ。」
電話が切れた。
聡明な友人の厚意に応えるため、今夜は年代物のワインを開けねばならないな。
霧江は覚悟した。
夕陽は、はや地平線に沈もうとしていた。
最後までお読みくださりありがとうございました☆
ついに始まりました。初異世界モノです。(もっとも現段階では異世界にカスってもいませんが)
場所は東京の某町です。私鉄の終点でデパートもあり、そこそこ賑わっている某町です。ここからどうやって異世界へ行くのか?…実は次回からその中身に迫ってゆきます☆