紫陽花
青紫色の紫陽花が、アスファルトに頭を垂れている。アスファルトは濃鼠色に濡れ、あちこちに銀色の水たまりができていた。
「先生、どうしたんですか、ぼんやりしちゃって」
カルテの入力補助をしてくれる松木が、僕の背中をぽんと叩く。
雨の筋がいくつもできた窓から、僕は手元に視線を戻した。緑色のデスクマットには、キャラクターのシールが貼られている。以前、遊びに来た娘が絵本の付録を貼ったものだ。それから、電子カルテ全盛の時代、キーボードとタッチペン。
「すまん、すまん」
キャラクターシールをタッチペンでなぞる僕に、松木はため息をついた。
「今日は患者さん少なかったですもんね。午後は忙しくなりそうですよ、予報では雨が止むらしいですから」
待合室に子供達の声はない。いつもは、泣きわめく乳児やはしゃぎ騒ぐ幼児、それをたしなめる父母の声が波のように大きくなったり小さくなったりしているのだ。
それが今は、待ち時間の暇を紛らわすためにつけたテレビから流れる音声だけ。
僕は雨の音に耳をすました。
「医者の仕事も天気次第だと思うと面白いね」
「午後は健診のお子さん達もいらっしゃいますからね。キリキリ働いてください」
松木は並びのいい歯をにかっと見せて笑った。非常に若々しくエネルギッシュな彼女が、女手ひとつで育てた子供は、もう大学生になったそうだ。息子さんの合格に、肩の荷が下りたと言った彼女は、初めて年相応の顔を僕達に見せた。松木は親父の代からこのクリニックで働いてくれていて、まったく頭が上がらないが、頼もしいことこの上ない。その、いつも明るい彼女の笑顔が、ふいに陰った。
『……ちゃんは、病院に搬送され治療を受けていましたが、今朝未明亡くなりました』
僕ははっとして、時計を見た。丁度昼のワイドショーの時間だった。松木は黙って席を立つ。しばらくして戻ってくると、僕にその痛ましいニュースの詳細を伝えた。
近年、子供の人権の意識が向上し、少子高齢化社会での子育ての難しさも浮き彫りにされてきた。対応する諸機関の業務は複雑さを増している。例えば、児童相談所に寄せられる相談件数はうなぎのぼり。誰もが溺れるようにやり過ごす日々で、取りこぼされる命。メディアでは虐待のニュースが繰り返し、大きく取り上げられるようになった。
手のひらから落ちていった命の名前を、僕はテレビで知る。
「残念でしたね」
松木はマグカップにコーヒーを淹れてきて、僕に渡す。
僕はうんと頷いた。窓の向こうで、紫陽花は少しだけ、色を濃くしたように見える。反対に、霧のように細かい雨に降り込められた世界は白くけぶって、紫陽花ばかりがぼやけた世界に鮮やかになる。
俯いた僕に、松木は大きくため息をついた。そして、殊更に明るく言った。
「あー、本当に雨、やまないかしら。やまない雨はないって言ってもねえ」
家庭という密室の中で、やまない雨はないと信じなければいけないことの残酷さを、僕は思った。多くの事柄と同じように、時間の流れもまた、平等ではない。
たった二年、二十年にも、二百年にも、永遠にも続く二年だったろう。
午後になっても雨は降り止まなかった。親父のあとをついだこの小児科で、この地域で、僕は小児科医ができることを考え続けている。
小児科医だからというだけではない。僕が、子供に――特に虐待に強く関心を持つのは、ひとつの思い出があるからだ。
それは、中学生の頃、ほんの二週間だけ同級生だった友達の思い出だ。
彼女は、学期の半ばに転校してきた。冬服の制服を着た僕達の前に、彼女は夏の制服を着て立っていた。
脱色をした髪色に、ほとんどない眉毛。不良だ、と中学生の僕は思った。関わり合うことのないグループの子なのだろうと思った。その頃の僕は、学校では塾の宿題をやって、学校が終われば塾で夜遅くまで勉強していた。親父は俺がいい成績を取る限りは、文句を言わなかった。母親は、親父の機嫌を取るのに必死だった。家庭で楽しく会話をした思い出はない。それこそ俺が、ほんの小さな子供だった頃には、あったのかもしれないが。
灰色の毎日だった。不良の転校生も、その灰色を変えることはなかった。彼女は一日登校すれば、一日休みというふうで、学校に来てもすぐに保健室に行ってしまう。
金色の髪は不潔げにぼさぼさで、眉毛のない顔は無表情だった。俺以外の生徒達も、そんな彼女に関わろうとは思わなかった。彼女は、学校で孤立していたが、孤立していることが目立たないくらい、彼女は存在感がなかった。
その日も、塾の帰りは夜遅く、空にはオリオン座がぴかぴか光っていた。
俺は灯りに吸い寄せられる蛾みたいに、コンビニエンスストアに寄った。持たされた小遣いは少なくなかったが、特に何に使うということもない。肉まんを買って、俺は店を出た。
駐めていた自転車に跨がって、駐車場を出ようとした時、道を二人乗りの自転車が横切った。運転手の髪が、コンビニの青白い灯りに照らされて、鬣みたいに光った。
「……おい!」
なぜ呼びかけたのか。俺の声を聴いて、自転車はキィっと音を立てて停まった。
振り返った顔は、眉毛のない顔。けれど、大きく目を見開いて、彼女がびっくりしていることが充分にわかった。
「わ、びっくりした」
彼女はにっこりすると、自転車を降りた。ぐらぐら揺れた後部座席には、三歳くらいの男の子が乗っていた。男の子は毛布でぐるぐるまきにされていた。
「びっくりさせて、ごめん」
「いいよ、いいよ。どうしたの? 買い物」
俺は彼女をクラスメイトだと認識していた。それは彼女もだったのか、俺達は不思議なくらい自然に、挨拶を交わした。
彼女は男の子を毛布ごと後部座席から降ろした。
「塾がえり。すぐ」
コンビニの自動ドアが開いて、ビニール袋を下げた客が出て行く。俺達はコンビニの駐車場の脇の、暗闇が水たまりになったみたいなところに、自転車を寄せた。彼女は裸足に踵が大きく余ったビーチサンダルを履いていて、車輪で踏みそうになってひやひやした。
「へへ、すごい偶然だね。塾とかやっぱ勉強してんだあ。頭良さそうだもんね」
暗闇のせいか、彼女の髪に白や黄色の光が集まって、眉毛のない顔は、びっくりするくらい親しげで、風を受けて剥き出しになった額に、青紫の痣が見えた。
「全然だよ。俺なんて全然、ダメ」
俺は素直に答えていた。
「ふーん」
彼女はサイズの合っていないスエットの上下を着ていた。
「君は、こんな夜中にどうしたの」
「この子が泣くからさ、自転車で散歩」
「へえ」
「もう行くね」
俺は彼女が弟を自転車に乗せるのを手伝った。丁寧に毛布をまきつけて、彼女が自転車に跨がる。
「またね!」
彼女が大きく口を開けて笑った。
その歯はちびて、黄色く溶けていた。
溶けた歯のせいか、口のなかは、真っ暗闇に見えた。
自転車に乗った彼女と男の子は、車道を斜めに渡ると、道の向こうに消えていった。肉まんはまだあたたかく、湯気を上げていた。俺はそれを彼女の弟にやればよかったと思った。
彼女と会ったのはそれが最後だ。
転校してきてから二週間。彼女はまた『転校した』と先生は言った。
中学生が、深夜きょうだいの幼児を連れ回す状況が、なぜ生じるか、その理由を、大人達は誰も僕に教えてくれなかった。
俺は子供で、三角関数の計算や、化学式が書けても、知るべきことは何も知らなかった。
彼女がぶかぶかの薄汚れたスエットを着ていた理由も、夏服しか持っていなかった理由も、顔に殴られた痣があった理由も、裸足でビーチサンダルを履いていた理由も、虫歯だらけで歯が殆どなかった理由も。
彼女が、笑顔で、僕に「またね」と言った理由も。
「はい、じゃあ、お口を開けて」
歯磨きで、健康に保たれた歯。少し腫れた喉。
心配そうに覗き込む、君のお母さん。
「よくできたね。ちょっと腫れてるから、お薬、出しとこうね」
二つに結んだ髪の丸い飾りを揺らして、涙目で僕の患者は言う。
「のど痛いのなおる? オレンジジュース飲める?」
「うん。お薬飲んだらね、すぐ痛いのは収まるよ。飲めるようになるよ」
「やった、ママ、ジュース買って」
君のお母さんは少し困った顔で、君を抱き上げる。
「ありがとうございました」
「お大事に」
本当に危険なのは、病院にも連れてこない家だ。そういう家は、地域社会との関わりも希薄だ。医療の介入は、いつも大きな傷を心にも、体にも、子供が負ってから。
子供達の声は、待っていても聞こえない。彼らの声は、本当にか細く、息づかいほどでしかない。
子供の口は、悲鳴を上げたり、苦痛を飲み込むためにあるのではない。
おいしい食べ物をたくさん食べて、だっこをしてと言ったり、ワンワンきたよ、と言ったりするためにあるのだ。
「先生、次の患者さん、ひとり親ですね。随分若くして出産してますね」
保険証を確認した松木が言う。受付が渡してきたメモに、『服が洗濯していないようで匂う』と書いてある。
僕は松木に向かって頷く。診察次第では、保健師に連絡か、それ以上のことも必要だ。若年妊娠、ひとり親、町でフォローされているかもしれない。僕はひとつ、深呼吸する。どんな小さなサインも、もう見逃せないんだ。
キャラクターのシールを指でなぞる。ひゃくばいになれ。僕のこの小さな力が、ひゃくばいにも、いっせんばいにも。
窓の向こうは雨。紫陽花、赤、青、紫。
診察室のカーテンが開く。
僕は言う。いつものように、願いを込めて。
「こんにちは、今日はどうしていらっしゃいましたか?」
僕は、夜明けを待っている。それは、僕にとっての夜明けであり、すべての夜に連なる人々にとっての夜明けでもある。
夜は僕達を友達にした。あの夜から僕は、君をずっと、友達だと思っている。夜に消えた、僕の友達。
あの夜の続きに、いま君はいるのだろうか。
僕は夜明けを願う。やまない雨のむこうにある、僕達の朝を。