擦れ違い、痛む心
ぎくっと肩が強張った。前を見なくても、誰なのか分かる。
足音がやけに耳に響く。あの、匂いがする。間違いなく彼だ。
俯いていた顔をおそるおそる上げる。
誰もいない廊下の向こう。そこに久留島類がいた。
彼も咲夜に気付いて、立ち止まった。僅かに目を見開いて、咲夜を注視する。
視線を逸らすことができず、見つめ合う。言葉が出てこない。身体が硬直している。久留島類も固まったまま、咲夜を見つめている。
長いこと見つめ合ったような気がする。
話し掛けないと。何故だが、そういう使命感に駆られ、口を開こうとした。
だが、その前に久留島類の表情が動いた。
彼が眉間に皺を寄せたと思ったら、そのまま顔を逸らされ、咲夜に声を掛けることもなく歩き出した。
久留島類が咲夜の横をすり抜ける。その間、咲夜を見ることはなかった。
驚きのあまり、思わず振り返るが、久留島類は咲夜を一瞥もせずそのまま廊下の向こうへと歩いて行った。
唖然としたままその背中を見送る。声が固まって、一言も声を発することが出来なかった。
(どう、して)
頭の中が混乱している。初めて見た、彼の表情に動揺していた。
(そんな、辛そうな顔をするんだよ)
何かを堪えるような、苦しいような、悲しいような。色々とひっくるめて辛そうな表情。
(オレの顔を見て、どうして)
そんなに一昨日のことが気に食わなかったのか。
(いたい……)
胸が、すごく痛い。いつもの火傷とは違う痛みだ。疼くような痛みではなく、ズキズキとする痛み。
(なんで)
こんなにも痛くなる。あの顔を見たから? 無視されたから? どちらとも言える。けど、なんで。
「あ、さっくーん!」
我に返る。前を見ると、魅瑠が大きく手を振りながら駆け寄ってきた。
「さっくん、もうだいじょ」
そこまで言いかけて、魅瑠はぴたっと固まって、咲夜の顔を凝視する。
「さっくん、別の意味で大丈夫?」
「え」
問われた意味が分からなくて、素っ頓狂な声を上げる。
「すごく泣きそうな顔をしているよ」
「泣きそう……?」
泣きそう。そうだ、久留島類のあの顔は泣きそうな顔だった。なぜ、咲夜の顔を見て泣きそうになったのだろうか。
「そんな顔、オレもしているのか?」
「しているよ~。でもオレもって?」
「……いや、なんでもない」
「ふ~ん?」
怪訝そうに首を傾げる魅瑠だったが、すぐ表情を切り替えて満開の笑顔を見せた。
「ま、とりあえず教室に行こうよ~。こよみんが戻っていないうちに!」
「暦が戻っていないうちにって?」
「昼休みになったすぐ後に、どっかに行っちゃってさぁ! 保健室で寝ていたこと、バレたくなかったら、早く行かないと」
「先生め……チクったな」
あんなに言わないでってお願いしたのに。
恨めしく呟くと、魅瑠があっけらかんと笑い飛ばした。
「これでも慎にぃは妥協したんだよ~! その証拠に、こよみんには出来るだけ内緒にしといてやれって頼まれたしぃ。そんなことより、ほら! はやくはやくぅ!」
元気な声を上げて、魅瑠は咲夜の腕を掴み、引っ張って行こうとする。
咲夜は溜め息をついて、魅瑠に合わせて駆け足で教室に向かった。
もう見えなくなった、久留島類の背中を気にしながら。
(これで、いい)
咲夜と擦れ違った後、久留島類は何度も自分に言い聞かせた。
これでいい。あとは彼が勝手に、自分から遠ざけてくれるだろう。
ズキズキと胸が痛い。自分勝手なのと、自分が傷付くこと自体お門違いだとは承知している。けれど、これで彼が傷付かないでいてくれるのなら、それでいい。
――今度は、咲夜を死なせるの?
先程の暦の言葉が、頭の中で木霊する。
それは呪いにも似た戒めだ。その言葉が、久留島類の心に重くのし掛かっている。
――薔子おばさんのこと、ちゃんと覚えている?
瞼を閉じると、あの人の横顔がゆっくりと浮かび上がってくる。
ずっと見ない振りをしていたのに、暦のせいであの人の面影が現れてしまった。
(忘れられるものか)
たとえ、周りに関心がない、それどころか親にすら関心を抱かない冷めた子供だと、父親に言われた自分でも。
自殺してしまった母親のことを忘れるだなんて、できるはずがない。




