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因縁

 昼になっても、咲夜は戻ってこなかった。


 取り巻き達に絡まれる前に、教室から出ていつもの場所に向かう。その場所は、以前咲夜が使っていた非常階段だ。


 今の時期だと湿気があるが、それでも取り巻き達と一緒にいるよりかマシだし、案外心地良い場所だ。


 あれ以降、咲夜はここに来ていないが、自分にとって数少ないお気に入りの場所になった。


 あの時、咲夜が座っていた場所に座り、パンの袋を開ける。


 閉じ込められていたパンの香ばしい匂いが鼻腔を掠めるが、すぐ風に持って行かれた。



(咲夜くん、大丈夫かな)



 頭痛はどうなったのだろうか。もしかして、このまま帰るのだろうか。



(と、なると、今日は話せない、か)



 咲夜があの日のことを思い出さないように、どうするか。けれど、それは咲夜が望んでいるだろうか。思い出したかったら、自分はどうするべきなのか。


 午前中、ずっとそれを考えていた。どうすればいいのか、何を優先的にやるべきか。


 やるべきことの候補を上げては、それを行ったら、どのようなことが起きるのか。様々な可能性を考え、デメリットを考えて。それを繰り返して、辿り着いた結果はシンプルなものだった。


 詰まるところ、結局自分は咲夜と話したいだけだ。


 番だとか、過去とか、そんなの関係なく、ただ咲夜の声を聞きたい、顔を見たい。そして、できれば笑った顔が見たい。


 一回だけだが、自分に向けられたあの笑顔を、何百回でも見ていたい。


 けれど、思い出してしまったら、もう二度と笑顔を向けてくれないかもしれない。


 シンプルな答えに辿り着いては、それの繰り返しだ。



(せめて、思い出しちゃうまで、いっぱい話したいなぁ)



 どうするべきか、決めていない。けれど、あの様子だと遅かれ早かれ思い出してしまうかもしれない。もう既に思い出してしまっているかもしれない。


 思い出してしまったのなら、もう咲夜に近付かない。けれど、まだ思い出していないのなら思い出してしまうその日まで、咲夜と他愛のない話をたくさんしたい。



(まあ、そう願うのも烏滸がましいけど)



 とりあえず、今後はどうするのか。明確な答えは、まだ出せそうにない。答えが出るまで、彼が思い出すまで、たくさん話そう。


 最も良い方法ではないが、これしかない。


 それが、今できることだった。


 一個目のパンを食べ終え、もう一個のパンに手を伸ばそうとした、そのとき。



「久留島君」



 背後から、声を掛けられた。


 振り向くと、そこには一人の少女が突っ立っていて、自分を見下ろしていた。


 その少女のことを久留島類は知っていた。直接話したことはない。だが、名前と顔は知っている。


 咲夜との会話で度々登場し、いつも咲夜の隣にいる少女。名前は確か、暦。名字は知らない。



「えーっと。はじめまして、だよね?」



 初対面の人に名前呼びはいけない。取り巻きみたいに自分に好意を持っている人ならばいいが、相手は自分に嫌悪感を抱いている。名前呼びは逆効果だ。



「そうね。はじめましてだね」



 暦はにっこりと笑った。その笑い方には、身に覚えがある。



(なんというか、僕と同じ笑い方をするなぁ)



 相手に気持ちを悟られたくないときに使う、愛想笑い。まさしく、その笑い方だ。

 まるで、自分が目の前にいるようだ。



「でも、一応わたしのこと知っているでしょう?」


「まあ、一応は、ね。名字は知らないけど」



 とりあえずパンの袋を階段の上に置く。彼女が、わざわざ嫌っている自分の許に来た理由を察したからだ。



「もしかして、咲夜くんのことについて、話に来たの?」



 余計な駆け引きはせず、ストレートに聞く。駆け引きしたところで意味がないように思えたからだ。



「話が早いね。でも、咲夜のことだけじゃないよ」



 久留島類は内心首を傾げる。咲夜のこと以外で、この少女が自分に話し掛けてくる理由に心当たりがない。



「単刀直入に言うけど、もう咲夜に近づかないでほしいの」



 予想していた台詞だったので、笑みを貼り付けて応答する。



「なんで? 君が何を言おうとも、僕が咲夜くんに近づくのは僕の勝手でしょ?」


「これ以上、咲夜を苦しめないでほしいの。やっと気にする回数が減ったのに、あなたのせいで咲夜はまた記憶を気にするようになってしまった」


「君は咲夜くんに思い出してほしくないのかい?」


「そうね。おばさんたちのことを考えると、あれだけど。けど、今のままの安定した精神状態を維持しないとって、お医者さんにも言われているの」


「ふーん」



 つまり、医者から見れば、記憶を思い出さない方がいい、と判断しているということだろうか。だが、咲夜の両親は思い出してほしい、と思っているのか。



「咲夜の担当医師から聞いたの。咲夜が記憶を失ったのは、事故のせいでもあるけど、それ以上に何かとても傷付くことがあったから、記憶に蓋をしたんじゃないかって。でも、記憶は覚えていなくても消えたわけじゃないから、その何かのせいで生理が来ないんじゃないかって」



 久留島類は瞠目した。初耳だった。


 彼はΩなので、生理が来ても可笑しくはない。むしろ自然なことだ。生理は、だいたい中学生の頃に来るという。それなのに、咲夜は生理が訪れていない。


 生理が来るのが遅いだけ。そう言えばそうなのだが、精神的なものが原因ならば、そう言うわけにもいかない。その傷付くことに覚えがあるので、否定は出来なかった。



「でも……それで、根本的な問題は解決できていないんじゃ?」


「たしかにね。でも、咲夜の心が傷付かなかったら、わたしはそれでいいの」


「けど、だからといって君が咲夜くんの交友関係について」



 口に出すことはいけないんじゃないかな、と言おうとしたが、暦が感情を乗せていない、けれど強い口調で、それを遮った。



「木ノ下」



 言葉が音にならず、ひゅっと息を呑む。。


 木ノ下。その名字は、久留島類にとって、いや、父親にとっても忘れられない名字だ。


 馴染み深いというには、あまりにも複雑すぎて。父親との間では禁句扱いになっていて、父がいないときでも、それを口にするにも憚れるくらい、とてもデリケートなワード。



「木ノ下暦。それがわたしの名前」



 暦を凝視する。


 木ノ下という名字は、他にもいる。けれど、こうやって意味ありげに告げるということは、彼女は。



「ねぇ、久留島君」



 暦がにっこりと笑う。その目は、氷のように冷ややかで、自分にとてもよく似ていた。



「薔子おばさんのこと、ちゃんと覚えている?」

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