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居場所

 玄関の鍵を開けて、家に入る。どうせ誰もいないから、ただいまは言わなかった。


 鍵を閉めて、洗面所に向かう。まずは手を洗ってうがいをしないと。その後は夕食を作らなくてはいけない。病院帰りだから、大分遅くなってしまった。



(ご飯、何にしよう)



 今日は母も父も遅いが、帰ってこないというわけではない。真夜中に帰ってきても軽く食べられるように、野菜スープでも作ろうか。そうしよう。


 スマートフォンを取り出して、暦からの連絡を確認する。今日は病院だったから、帰りは別々だったのだ。


 無事家に帰ったよ、という連絡があって安心してから、エプロンを着て夕食に取りかかった。



(野菜スープの中は何にしよう。あ、そういえば、味噌をそろそろ使い切らないと。スープはやめて、味噌汁にしようかな。ついでに明日の分も作っておこう)



 明日の朝食を作る手間を、少しでも減らそう。



(味噌汁以外は……肉が食べたいから、生姜焼きも作ろう。もう一品は……疲れたからいいや)



 献立を決めたところで、材料を取り出す。


 今日は買い物をしていないから、食材がそんなにない。明日の弁当と朝食の分はあるが、明日は買い物しないといけない。



(洗濯物も取り込まないと。ご飯食べた後でいいか)



 時間を見る。ニュースをやっている時間だった。



(今日はテレビを見ながら作ろう)



 テレビ番組は面白いと思わないが、ニュースは別だ。ニュースも面白いとは思わないが、テレビ番組よりかは見る価値があると思っている。


 リモコンでテレビを点けて、適当なチャンネルを選んだ。


 鍋に水を入れて、顆粒タイプの出汁を入れて沸かす。その間に野菜を切っていく。

 まずは泥のついたゴボウをブラシで洗って、包丁で軽く皮をこそげ取る。ゴボウを切ったら、すぐ水につけてアク抜きをする。


 アク抜きをしたところで、次は人参を切ようとしたときに、とあるニュースが耳に入ってきた。



『次のニュースです。番を失ったΩに対する治療法が臨床実験を経て、本日から一般向けにも治療が可能になりました』



 手を止めて、顔を上げてテレビを見る。



『αの番から番解消されたΩは、番が運命の番ではなくても精神が非常に不安定になり、自殺する可能性が高くなります。そこで草野研究所は、Ωの記憶から番だったαの記憶だけの消去する研究を十年前から行っており、それが実用化されました』


『結構問題になっていましたからね』


『運命の番ではなくても、番うことはできますからね。Ωのヒートに当たってそのまま番にしてしまったαの人も多いですから』



 そういう情報、ネットにもあったなと思いながら食い入るように見る。



『そのために首輪が開発され、被害は減ってきましたが全くないとは限りませんからね』


『たとえ運命の番ではなくても、番のαから番解消されたΩは精神的ショックが大きくて、社会問題になっていましたが、ついに解決の糸口が見えてきたというわけですね』


『本当に番だったαの記憶だけを消せるのでしょうか?』


『臨床実験では成功したようです。ただ、この治療法は保険外になるので、相当な費用になります。そこで番だったαに関する記憶を消すコースと、今までの記憶を全部消すコースがあるらしく、記憶を全部消すコースのほうが安いとのことで』


『最悪の選択ではないでしょうか、それは』


『選択肢が治療を受けないしかない!』


『ですが、Ωのことを考えると』



 治療法について、議論が交わされる。咲夜はそれを冷めた目で見つめていた。



(コメンテーターがβしかいないから、β目線でのコメントしかないな)



 反吐が出そうだ。こういうニュースがあるのなら、Ωのコメンテーターを起用すればいいのに。


 視線を下げて、人参を切っていく。次は椎茸、そして油揚げ。



(記憶を消される、か。たしかに番に見放されたΩにとってはいいけど、周りは……) 



 事故の後を思い出して、咲夜は苦虫を噛み潰したような顔をした。


 目が覚めたら、それまで築いていたはずの世界が消去されていて、自分の世界はいつの間にか知らない物に囲まれていた。真っ白な世界に残されたのは、胸に残る火傷のような痛みだけ。


 言葉は知っているのに、知っている人がいない。両親である人たちですら知らない人だった。


 両親は優しい人だった。自分の前では嘆かず、不安で押し潰されそうになった自分を励ましてくれた。


 気にしなくてもいい、これからまた思い出を作っていけばいい、と自分の気持ちを押し込んで言ってくれた。


 けれど、咲夜は知っていた。裏では息子が自分たちのことを忘れてしまったことに嘆いていたことを。



(だから最初は、思い出すように努力した)



 だが、結局挫折した。


 両親から以前の自分のことを聞くたびに、自分が全く違う人間になってしまったような気がした。


 前の自分はまだ笑っていたらしいのに、今は笑えない。母の背中をついていくのがいつものことだったらしいのに、ついていくことに違和感を覚えるようになった。


 自分のことなのに、自分じゃない。


 それが怖くて、動けなくなった。そして、消去された世界がまた崩れてしまうのではないかと戦いた。


 自分の家だと教えられた場所も、自分の部屋だと案内された場所にも、自分の居場所ではないような気がして、気を休めることができなかった。


 両親が知っている自分と、今の自分は全く別の生き物のような気がして、自分はこの人たちの息子の皮を被った偽物のような気がして、両親に大嘘をついている気がして申し訳なかった。


 自分を知るのが、思い出すのが怖くなって逃げた。そして、今こうしている。



(自分はよくても、周りの人たちに迷惑を掛けてしまう。オレとしては、番のことを忘れるのはいいけど、全部忘れるのはどうかと思う……けど、オレは番を持ったΩの気持ちを知らないから、そんなことが言える。もし、自分がその立場になったら……オレはどうするんだろう)



 あのときはただ怖くて、ここにいてもいい理由が欲しかった。居場所が欲しくて、必死だった。もし同じ立場になってまた全部忘れたら、またあんな思いをしなくてはいけないのだろうか。



(母さんも父さんも、また同じ思いをしなくちゃいけなくなるから、今のオレはごめんだなと思う。オレは忘れるから、またの感覚がなくて、けど、二人にはある。二人には、そんな思いをさせたくない)



 思い出すのは、両親が泣いている後ろ姿。あの姿を二度と見たくない。泣かせたくなかった。


 決意を固くし、止まっていた手を再開する。


 思えば、自分が家事をするようになったのは、そういう背景があったからだ。


 居場所が欲しくて、ここにいる理由が欲しかった咲夜は、家事をすることで、居場所を得られた。家事の手伝いをすると、母が喜んでくれた。料理を作ると、父が美味しいと言ってくれた。だから安心して、自ら進んで家事を引き受けた。


 そして今も、家事に縋り付いている。家事をすることで、自分も仕事をすることで、ここにいていい理由を手に入れて、やっと落ち着いていられるのだ。



『へぇ。えらいね』



 久留島類の声が、鼓膜に蘇る。今思い出すと、少し優しい響きが入っていたように思えるが、多分幻聴だろう。



(えらいものか)



 心の中で吐き捨てる。


 自分の居場所を得るためにやってきたことの、どこが偉いというのか。

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