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樟、猫、霞の中

作者: オシップ




 歩いて15分。

 電車で10分。

 また歩いて10分。

 また電車で1時間と15分。


 めいっぱい細長いホームに降りて、改札へと続く階段を目指す。

 定期を取り出し、二つしかない改札の、片方の口に押し込む。

 カシャン、と、吐き出された定期をつまみとり、駅を出る。

 車通りの少ない道路にかかる横断歩道を、向かいのバスセンターを視界の端に入れながら渡る。


 また歩く。

 5分。


 敷地内に入り、グラウンドを右に、坂道を登りながら考える。


 桜はもう散ってしまったというのに、ここはまだ寒い。

 そういえば、試験のとき、この辺りは濃霧に包まれたな。

 試験開始が30分遅れて、会場に中々入れなかった。

 もう何年前の話だ。

 ともかく、入試の季節よりはかなり暖かい。


 坂を登りきり、掲示板を通り過ぎる。

 昼時は人で溢れる広場も、まだ閑散としている。

 時刻は8時をようやく回ったあたり。

 朝の遅い学生たちが、いるはずもない。


 広場を横切り、足は迷いなくある教棟へ向かう。

 機能性を無視した、この構内でも異質な建物。

 表口が開いていることを確認し、入ってすぐ右手の事務室に顔を出す。


「おはようございます。鍵を…」

「ああ、おはよ。ハイハイ」


 用件を伝え終わる前に、事務の女性は俺の所望するものを手渡してくれた。

 手渡された鍵は3つ。

 それぞれ、「彫塑室1・2」、「彫塑室3」、「木彫室」と書かれた木札がつながれている。


 まず、彫塑室1・2の鍵を開ける。

 中には入らず、そのまま廊下を歩いてとなりの部屋へ。

 そこで、彫塑室3の鍵を開ける。

 土の匂いのする室内を素通りし、外へと繋がるドアを解錠して外に出る。

 室内に比べれば、外は段々と暖かくなっていることが肌で感じられた。


 そのまま、外にある木彫室の鍵を開ける。

 アルミの引き戸を少し開け、解錠を確認してまた閉じる。

 外を回って、また教棟の入り口へ。

 事務室に顔を出し、礼を述べて鍵を返す。


 今度は彫塑室1・2に入る。

 外へと通じるドアを開け、また木彫室へ。

 アルミの引き戸をガラガラと開ける。


 木彫室に入ると、樟のさわやかな香りが鼻をつく。

 まさしく樟脳のそれだ。

 この田舎の町工場のような木彫室一体を、この香りは包んでいる。


 コンクリートがうちっぱなしの床を歩き、オイルや工具が置かれたロッカーの上段から、また別の鍵を取り出す。

 どこかにある夢の国の動物をあしらったキーホルダーにつながれたそれを持って、アルミ扉の前に立つ。

 この扉の向こう、木彫準備室には、俺の作業着や、工具が置かれている。

 鍵を開け中に入り、ロッカーを開け作業着に着替える。

 ツナギも持っているが、昼から暑くなるこの季節は、ただの安物のTシャツに着替えるだけだ。

 安全靴は忘れずに履く。

 この前、サンダルで作業していた教授は、足を潰した。

 木の重さは侮れない。

 夏用なんてわざわざ買わないから、これからの季節は足下だけ変に汗をかく。


 着替え終わると、手洗い場の食器棚から陶芸研究室の学生がつくったカップを取り出し、冷蔵庫のお茶をいただく。

 ようやく一息ということだ。

 大学に来てからは、まだ特に何もしていないが。


 いつの代の先輩たちが持ち寄ったかわからない、赤い革のソファに腰掛け、冷たい麦茶で一服。

 この大学はそもそも辺鄙な場所にあり、この時間はまだ学生もいない。

 構内にありながら、半ば森の中とも言えるこの木彫室には、鳥の鳴き声くらいしか聞こえない。

 眼前には、先輩や教授の作った作品、作りかけの作品が、静かに、所狭しと並ぶ。

 一つ一つが大きく、一人では中々動かせないそれらは、何も言わず、人間以上の時間を纏う。

 時間の濃密さに深呼吸をすると、樟の香りが肺いっぱいに満たされる。

 音のない空間で、自分の息づかいを感じる。


 いつも、この場所この時間は、浮き世と隔絶されたような感覚を覚える。



 一服が終わると、俺は自分の作品を見る。

 100kgほどの樟から切り出した、緩やかに曲線を描く物体。

 頭の中で思い描いた形に近づけるため、そろそろ別の木を組み合わせなければならない。

 少し繊細な作業だ。

 頭の中で、どう組み込むかを考えながら、俺はソファへ戻ろうと踵を返す。



 そこで、背後に忍び寄っていた客に気づく。


 客はちょこんと木彫室の床に座り、俺をぼんやりとした目で凝視していた。

 いったいどこから、などとは考えない。

 このボロの町工場には、客の進入路はいくらでもある。

 俺は客と同様、無言で相手を眺めた。

 灰色の長毛は、いつも通り汚らしい。

 この大学に出没する野良たちの中でも、一際みすぼらしい猫だった。


 学友たちは、この猫を「モップ」と呼んでいた。

 言い得て妙である。

 その学友たちも、今は俺を置いて卒業してしまったが。


「よぉ、雑巾」


 俺はモップにそう話しかけながら、もといたソファより、少し猫に近い回転椅子に座った。

 雑巾は微動だにしない。

 まあ、この猫にとっては、モップだろうと雑巾だろうとたいした違いはないのだろう。

 ちなみに「雑巾」という名前は、昨年度卒業していった彫刻の先輩がつけた名だ。

 言い得て妙である。

 彫刻研究室以外の学生たちには不興を買ったが、研究室一、下衆が集まることで有名な彫刻研究室では、女子も男子もこの猫を雑巾と呼んだ。


「また食いもん漁りにきたん?」


 雑巾は応えない。

 じっと俺を凝視している。


「……ザッキン」


 俺は更に別の名で、猫を呼ぶ。

 この名前は、「雑巾はさすがに」ということで、発音が似ている彫刻家の名をそのままあててみた名だ。

 今度はザッキン本人に失礼、ということで、たまにしか呼ばれていない。

 ザッキンはその偉大な名にも反応を示さない。

 やっぱりおまえは雑巾だな。


 雑巾との付き合いは、短くはない。

 色々な名で呼んでみても、猫が反応しないことは知っている。

 灰色の野良が反応するのは、エサをあげようとする素振りだけだった。

 例え何も持っていなくても、とりあえず近づいてくる。

 そのまま抱きかかえても、ぴくりとも抵抗をしない。

 食欲以外は無だ。

 この全てに無警戒などうしようもなさも、猫を雑巾たらしめているといえる。

 俺は少しだけ雑巾と一方的に戯れ、席を立って手を洗った。

 雑巾はやはりぼんやりと座り込んでいるが、そのまま放っておくと、いつかふらりといなくなる。

 昼頃は広場で、女子大生に何かを恵んでもらっているのをよく見かける。

 食べるときでさえ無なのは、中々にあっぱれな猫だと思った。


 俺は、動線に居座る小さな客を何度も跨ぎ、道具を揃えてからその日の制作を始めた。


 差し金やスコヤを片手に木とにらみ合いをしていると、木彫室のアルミ戸が音を立てる。

 教授が入って来られた。


「おはようございます」

「おお、おはよう」


 教授はてくてくと俺の近くまで歩いてくる。


「お、とうとう組むの?」

「そうっすね」

「木は?」

「ああ、これ使おうと思ってます」


 俺は、木彫室の隅から探し当てた、木の塊を指す。

 教授はその木に目を移した。

 木をゴトゴトと回し、あらかたの面を見て、言う。


「こんなのあったの?」

「ありましたよ」

「ふーん。まあ、いいんじゃない」

「はい」

「こっちの赤身使うの?」

「はい、そうしようと思ってます」

「うん。結局だぼ?」

「そうしようかな、と」

「ま、それが簡単だよ」

「はい」

「OKOK」


 そんなやりとりをしたあと、教授は自室へ向かわれた。

 俺は作業に戻ろうとして、気づく。



 灰色の客がいなくなっていた。


「…………」


 だからといって、特にどうということもない。

 別の食料のアテを、探しにいったのだろう。

 いつものことだ。


 今日の作業は、いつもより繊細になる。

 冷房のない町工場が暑くなりすぎない内に、山場は済ませておきたい。


 時間が9時を回ったので、俺は研究室のラジオをつけた。

 特に興味を引かない話題が、ラジオから流れ出す。

 ラジオから離れ、俺は樟の前に立つ。




 樟の香りに包まれて、樟と向き合うだけの時間が始まる。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 淡々と描かれる、静かな日常。そこにいる、猫。つかず離れずの距離感。 最初から最後まで、とても心地よかったです。 [一言] はじめまして、日向 るきあと申します。 企画つながりでお邪魔したの…
[一言] 淡々と綴られた文章を読みながら、彼が大事にしてきた日常を穏やかになぞることができました。きっとオシップさんご自身が感じてきたことなのでしょうね。薄い朝靄と澄んだ空気や、楠の香り、槌音が響きわ…
[良い点] 好きな世界観です。 雑巾と主人公、ほどよい距離の関係がまた良い。 雑巾はフッといなくなり、また現れる。 そのルーティーンが無くなった時、主人公は何を考えるのか……その後を想像できる、読んで…
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