◇魔族の女 2◆
「よくも……」
先ほどよりさらに冷たく、凍てつくような双眸に怒りを滲ませて、剣を構え直すローレントの袖を、慌ててシェラが引っ張る。
ここでジェシカを仕留めてしまうのは、きっと良くない。
もし彼女が本気なら、シェラはきっともう生きていなかったろうから。
「いけません! 深追いは……それに、彼女、何か事情があるようで」
「事情? 彼らの言うことなんて嘘に決まっているよ」
ローレントがそう言うのも無理はないのだ、少なくとも今までそんなまともな魔族に遭った事はない。
しかし、今回に限っては別であるように思えた。
シェラはローレントの袖を掴み、必死の思いで言う。
これほど怒っているローレントがただで止まってくれるとは思わないのだが、なんとか止めなくてはならない。
本当なら、ジェシカにとって今は好機であるはずなのに、何もせずにじっと見守っているのだから、やはり理由があるのだろう。
「ですが、本気で殺すつもりなら彼女、魔術を扱えるようですから……とっくにそれを駆使していると思うんです」
冷静なシェラの言葉に、ジェシカは腹部を押さえたままフンと鼻を鳴らす。
「そっちのコのほうがずうっと賢いわねェ、剣を振り回すことしかできない低脳男、少しは見習ったらいいわ! しかも、女の腹に一撃入れるような男だし!」
根に持っている……と思いつつ、シェラがローレントを見あげると、彼は剣をおろして問いかけた。
「いったい何をしに来た? 火を放ち、彼の腕を負傷させたうえで、事情があるなどと言うのはずうずうしいにも程があると思うが」
冷たいローレントの言葉に、ジェシカは腰に手を当てて、こちらを指さして嫌そうに言う。
「あんたたちだって争いなんて望んでいなかったアタシたちの仲間を散々殺しまくってるじゃない、誰も殺してないだけ感謝してほしいものね!」
争いを望んでいない……?
今まで、そんな可能性について考えたことはなかったが、もし事実であれば大変なことだ。
けれどローレントは彼女の言葉を無情に切り捨てる。
「質問に対する答えではないね、殺されたくなければさっさと話して消えてくれ」
淡々としたその言葉にジェシカの口もとが引きつった、どうやら彼女もかなりイラついているようだ。
彼女は一度深呼吸をすると、一気にまくしたてた。
「アタシたちの中にも人間と争いたいやつらと、そうじゃないやつらが居るのよ。ここはひとつ、争いたくないアタシたちと、あんたたちで手を組んで、あいつらを殲滅したいわねっていう相談!」
これは……とんでもないことになったと考えるシェラの一方で、ローレントは冷静なままで言葉を紡ぐ。
「それで、きみがやって来たのだとしたら素晴らしいほどの人選ミスだ。同胞を殺されたとは言っても、火を放つような卑劣な相手を私たちが信じるとでも?」
「しようがないでしょ! 殺されたのは――」
言いかけて、ジェシカは唇を閉ざした。その表情は悔しそうで、痛々しいものだ。
(殺されたのは……?)
疑問に思ったが、彼女がそれ以上そのことに触れることはなく、シェラとローレントを睨みつけて大声で言う。
「ともかく! アンタたちに協力する気があるのか! 無いのか! それだけ知りたいのよっ!」
それはシェラにもローレントにも決められないことだ。
だが、もしも協力できるのであればそれにこしたことはない。
こちらには兵器の類があるが、魔術も加わってくれれば戦線はさらに有利になる。
シェラはジェシカを見やって、唇を開く。
「それは、私たちだけでは決められませんから。上層部の判断しだいです」
そう言うと、女は片眉をあげて腕を組んだ。
「なら、伝えてくれる? 返事は後日また聞きに来るわ」
しかしジェシカの返事に、今度はシェラが豆鉄砲をくらった鳩のような顔をする。
「――本気ですか? あなたが来る頃に、私たちが罠を仕掛けて待っていないとも限らないのに?」
思わず正気を疑った、普通に考えれば、そんな危険なことをしようとは思わないはずだ。
いよいよ、彼女の本気を疑う要素がなくなってくる。
シェラの質問に、ジェシカは自嘲気味に嗤う。
「ええ、本気よ。どうせこんな命、もうあってもなくても変わらないからね。アンタらが裏切るなら好きにすれば? 報復を恐れないならネ」
それだけ言って、彼女は焼け焦げた雑木林の先に消えていった。
彼女はきっと本気だ。死を恐れずに本当にもう一度やって来るだろう。
報復を恐れないなら、と彼女は言った。
どっちみち、上層部も無碍にはしないだろう。
「……帰りましょうかローレント、このことを上層部に報告しなければなりません」
静かにそう告げたシェラに、彼は怪訝そうな顔をする。
「本気かい? シェラ、魔族の言うことを信じるのか?」
彼は魔族というものが嫌いなのだろうか?
今までそういった様子は特になかったが、ジェシカに対するローレントの敵意には過剰なものがあるように感じる。
彼がここまで徹底的な敵意を見せたことは、少なくとも今までに一度もない。
「だって、あのかたも死ぬ覚悟で来たんでしょう? それに、大切なひとを私たちが奪ったのなら、せめて誠意だけは見せなければなりません」
ジェシカの先程の言葉を思い起こせば、家族か恋人あたりを亡くしたのだろう。
それもおそらくジェシカと同じで、人間と争う意図を持たなかった人物だ、きっと一方的に殺されたのだと見るのが妥当なところだ。それなのに、彼女の誠意を裏切ることは、シェラにはできなかった。
「私にできるのは、彼女の言葉を上に伝えることだけです。ローレント、あなたはあなたで好きになさったら良いです、来たくなければ、私が一人で行きますから」
そう言って歩きだそうとするシェラの身体を、ローレントの腕が抱きしめる。
「それはできない。あの魔族のことがどうであれ、きみの怪我を放りだして行くのは、同じ仲間として最低の行為だ」
そう言うなり、ローレントは剣を鞘におさめてからシェラを抱きあげた。
まさかのことに、シェラは目を見開いて離れようと暴れる。
「えっ、ちょっと! おろしてください! 怪我は腕なんですから! こんなことする必要はないでしょうっ」
じたばたと暴れるシェラを気にするでもなく、ローレントはさっさと歩き出す。
あまりに平然としているので、腕が自由ならひっぱたいてやりたいところだ。
ローレントは冷静なままで、淡々とシェラに言う。
「一人で突っ込んでいった罰だと思ってほしいな。他に怪我がないとも限らないし、じっとしていてほしいんだけど」
恥ずかしいやら目立ってつらいやらで、シェラは頬を赤く染め、右手で彼の肩を押すが無駄な抵抗に終わる。
「ありませんよっ! ありませんからっ! おろして……っ」
ふと、右足にも軽い痛みが走った気がしてシェラは表情を歪めた。
まさか、足まで怪我を負ったのだろうか。
そんな彼女を見て、ローレントは小さく息を吐いた。
まるで予想していたかのような反応だ。
「きみの動きがいつもより妙に鈍かったから、もしかしたらと思ったんだ。緊張が解けて痛みがやって来たんだろう。やっぱり、このまま連れて帰るよ」
「――最悪です」
シェラは疲労感と諦めからローレントに身体を預けた。
これでは、しばらく腕も足もまともに動かないのではないだろうか。前途多難もいいところだ。
はあ、と大きなため息を吐くシェラを翡翠の瞳で見つめ、ローレントは小さく首を傾げた。
「なんだか落ち込んでいるけど、何かあったのかい?」
それに対してシェラは、少しばかりそっけなく答える。
「いいえ、何もありませんよ」
それしか言えない。ローレントには何も話すわけにはいかないのだから。
本当のところを言えば、いくらなんでも一人で内通者とやらを捕まえるのは不可能であるように感じているのだが、弱音を吐いてもいられなかった。
いったい相手はなんの目的を持って、そんなことをしているのか。
ひとに勝ってほしくないのか、金で買われたのか、身内を人質にでもとられたのか。
いずれにしても、シェラの目的は変わらない。
……そう決意を新たにした、その翌日。