◇名もなき少女と王子◆
ことの始まりは今から数年前の嵐の日に遡る。親に捨てられて路上に倒れていた少女の前で、豪奢な馬車が止まった。
周囲の人々は見てみぬふりをしているのに、いったい何だろうと彼女は最早力の入らない冷えた身体を僅かに動かす。
冷たい雨と強い風が吹きつける中、横たわったままうっすらと薄紫の目を開けて、少女は自分を見おろす人影を見つめる。それは美しい金色の髪に、青い瞳の少年だった。
場違いにもほどがある、身なりの整った美麗な少年。
シェラには、それが幻のようにも思えた。どうせ幻なのだから、助けてくれるとも思えない。
『……生きているのか』
返事をしようにも、あまりにも喉が渇いて声がでてこない。少女はただ口をぱくぱくと動かして、助けを求めようとする。もちろん、相手が幻であっても、現実であっても、貴族である以上、無駄だと頭では分かっていても、本能的にだ。
それを見て、少年は傍に控えていた召使になにか言づけて、自分は倒れふす少女に近づき、躊躇いもせずに泥水に汚れたそれを抱き上げ、馬車に乗せる。
久しぶりの暖かさと、柔らかなクッションの感触に少女の意識はすぐに遠のき、そこからの記憶は定かではないが、気づけば豪華な一室のベッドで眠っていた。
とてもではないが、宿屋や民家ではない、たとえるなら……城のようだ。
『……ここは……』
周囲を見回しても、人は見当たらない。少女は自分の身体が綺麗になっていて、なおかつ衣服も上等なものであると気づいた。喉の痛みも無いし、身体も調子が良い。そして、意識を失う前のことを思いだす。
そういえば、貴族のような少年に、どこかへ連れて来られたのだと。
そこまで思いだして、さっと青ざめた。
貴族がなんの理由もなく自分のような孤児を拾うはずがない、ともすれば、売り飛ばされるのだろうか?
そんな最悪の可能性を考えてしまう。
『目覚めたか』
あの時の少年の声が聞こえて、はっと顔をあげるとそこには、やはりその時の人物がいた。名前は知らない、当然面識もない。
ただ、身分の高い相手であることだけが分かる。
所作のひとつひとつが優雅で、気品がある、孤児のシェラにも、そのくらいは理解できた。
金色の肩まである髪に青い瞳の少年は、少女に近づくと口を開いた。
『おまえの名前は?』
『……私、は……名前が……ない、です』
残念ながら、彼女の両親は名さえ与えてはくれなかった。
だから事実をありのままに告げると、少年は少し困ったような顔をして、それから咳払いを一つした。
いったいなんだろうと首を傾げる少女に、彼は言う。
『なら……そうだな、おまえの名前はシェラ・スフィレトだ。これからはその名を使えば良い、気に入らなければ自分でつけろ』
あぁ、名前をくれるのかと思った。
それは初めてのことで、少女にとって嬉しいことだった。
名前があるひとというのを、羨ましく思うこともあったから。
おまえ、とか、それ、とか言われるのでは、自分を呼んでいるのか、物に対してなのか、他人に対してなのかさえ分からない。
分からなくて返事をしてしまい、殴られたこともある。
『……いいえ、与えてくださるなら、それにします』
気に入るとか気に入らないとか以前に、実感さえないのだが。
せっかく名前を与えてくれたのに、突っぱねる必要も無い。それに身分の高い相手のようだから、あまり機嫌を損ねたくもないのだ。
もっとも、本当にシェラのような者に礼儀や品位を求めているのなら、おそらく見てみぬふりをしただろうが。
『そうか。私の名前はリヒト・シューヴィッヒ、王家の……三人目の王子になる』
『……王子殿下でしたか』
救われたと思ったが、逆にとうとう命運尽きたのではないかとシェラは思った。あまりにも無礼な振る舞いであろうことは分かっているのだ、分かっているのだが、どうすれば無礼ではないのかも分からない。
『そんなに悲壮な顔をするな。私は今のところおまえを殺すつもりなどないし、拾ったのにも理由がある。あぁ……そもそもおまえに礼儀など求めていないから、余分なことも気にするな、私としても堅苦しくなくていい』
『そう……ですか』
変わったひとだと思いながら、シェラはリヒトを見つめる。
彼はすぐ側にあった猫足の椅子に腰掛けると、優雅に足を組んでシェラに視線を戻す。
中性的なひとだと感じていた、シェラよりよほど、女性的なのではないだろうか。
とはいえ、本人の振る舞いは男性のものであり、そんなことを口にすれば相手の機嫌を損ねるのは明白、シェラは黙って彼の言葉を待った。
『ただし、おまえにこれから話すことを他言した場合には死罪を免れないと思え』
『……あの、なぜ私にそんなお話を?』
あまりに物騒な言葉だし、そもそも孤児に何をさせるつもりだろうとシェラは首を傾げた。
リヒトはシェラに視線を向けず、金色の髪を指先で弄りながら憂鬱そうに青い瞳を細める。
その表情は複雑そうで、難題を抱えたひとのそれであるように思えた。
『私は長い間、私の駒として動けそうな者を探していた、たとえば家族を盾に取られて裏切らない、なおかつ金で動くでもないような者をだ。おまえにはその素養があると思った、孤児であり、なおかつ窃盗に手を出していないからあそこで行き倒れていたのだろう』
『……その程度のことで、そんなに信頼してよろしいのですか? 私が裏切らない保証なんてどこにもありませんのに』
疑問に思ったシェラがリヒトに問いかけると、彼はにやりと唇の端をつりあげて彼女を見た。
とてもとても、嫌な予感がする。
人間がこういう顔をするときには、ろくなことがない。
『先程も言ったとおり、裏切ることがあれば処分する。それでも私の期待を裏切りたければそうすればいい、簡単に殺してもらえるとは思うなよ。ここまで来てしまった時点で、おまえには死ぬか生きるかの選択肢しか与えられていない』
『……よく分かりました』
シェラは自分の状況をようやく理解した。すでに退路は無く、裏切れば惨い死を遂げることになり、生きたければリヒトの言うことを聞くしかないのだ。
どうせ死ぬ身であったのだからいまさらではあるが、いったいどんな無理難題を押しつけてくるつもりだろうか。
素性の知れぬ孤児などを拾うほどだ。よほどに特殊な事情があるのだろう。
『本題に戻ろうか。忌まわしいことに我が騎士団の左翼部隊の中に魔物どもに情報を流している内通者が居るようだ。それを発見し、必要であれば処分する、可能であれば捕縛するのがおまえに与える使命だ』
『騎士様ですか? 男性しかなれないのでは……』
シェラの乏しい知識の中でも、騎士に女性が居たというものはない。
それなのに、女の自分がどうやって騎士になるというのだろう?
疑問に思った彼女が小さく首を傾げると、リヒトは意地の悪い笑みをうかべたままで言う。
『あぁそうだとも、だからおまえはこれから男として振舞って生きるんだ。細かいことは私が手配してやる、今からおまえに与えられるのは、まず、騎士団の入隊試験に受かれるだけの腕前を磨くことだな。入隊してすぐに戦死されても困る』
無理だ、すぐにそう思った。
騎士になるだけの腕前、戦死しないだけの実力、とんでもない話だ。
貧弱と脆弱を絵にしたようなシェラがそれに受かれるとは思えず、おずおずと唇を開く。
『……あの』
けれどリヒトはその返事を予測していたのか、にこりと微笑んで小首を傾げる。
そこには、有無を言わさぬ迫力があった。
『できない、とは言わせない。それを言うなら今すぐにあの世へ逝くことになるが、それでも言えるか?』
リヒトの言葉に一瞬は考えた。
死んだほうがマシかもしれないが、死ぬのは嫌だ、と。
死に瀕して、死を拒もうとした自分を思いだせば、おそらくリヒトに処断されるときにも自分は後悔するだろう。
ならせめて、限界まで挑んでからでもいいのではないだろうか?
『いいえ』
……そうして、シェラという少年が生まれたのが数ヶ月前。
地獄のような勉強と鍛錬を乗り越え、やがて騎士団に成績一位で華々しく入隊することになった少年が。