◇最初の満月◆
ジェシカとの戦闘があってから数日。
満月を明日に控えた日。
シェラは部屋でいつものように椅子に座って、ローレントに髪を結ってもらっていた。
「ローレント、もうそろそろ、腕も動くようになってきましたし、明日からはもう結構ですよ。今までありがとうございました」
シェラがくすぐったそうに笑ってそう言うと、彼は寂しそうに小さく息を吐いた。
「残念だな、きみの髪は触り心地が良くて、毎日楽しみだったのに」
「ヘンな言い方しないでくださいよ、恥ずかしいじゃないですか!」
シェラは頬を赤く染めて抗議する。
ローレントは普段からこういうことを平気で言うから心臓に悪い。
「まったくあなたも、誰彼構わずそういうことばかり言っていると、いざ本命の女性が現れた、という時に困りますよ?」
真剣なシェラの説教に、ローレントはさもおかしそうにくすくすと笑う。
珍しく髪を結う手が少しばかり震えた気もした。
「誰にでも言っているわけではないし、おかしな意味もないよ。ただ、真実きみの髪は触り心地が良いというだけだ」
「……あぁ、そうですか」
なんだか言い負かされたような気がして、シェラはふてくされて頬を膨らませ、視線を彷徨わせる。
他人に髪を結われるというのはやはりくすぐったいものがある。
こんなふうに、優しく誰かに触れられることが極端に少なかったために、余計にそう思うのだろうか。
落ちつく、安心する……けれど同時にくすぐったくて、恥ずかしくもある。
そんな彼女の葛藤を知らず、ローレントは提案をしてきた。
「これからも結ってあげたいのだけど」
腕が自由になっても彼に結ってもらうだなんて、とてもではないが恥ずかしくて耐えられない。
シェラはそれを誤魔化すようにそっけなく答えた。
「結構です。私はあなたの妹じゃないんですよ」
シェラの言葉に、ローレントは苦笑をこぼした。
ローレントが髪を結い終えて、いつもどおりシェラに手鏡を渡す。
とっくに、変なふうに結ばれているのではという心配などしていないのだが。
今日も綺麗に結ばれた髪を見て、シェラは彼を見あげて微笑んだ。
「ありがとうございますローレント、あなたが居てくれて助かりましたよ」
「どういたしまして」
微笑んだ彼を見あげて、小さな声でシェラが言う。
「……明日ですね、満月」
正直に言えばとても緊張している。
できれば明日が来ないでほしいと思ってしまうほどだ。
けれどシェラには、常に最善を尽くすことしかできない。
逃げ場はとうの昔に存在しない。彼女はただ立ち向かうしかないのだ。
強張った表情のシェラを見て、ローレントは優しく翡翠の瞳を細める。
「そうだね。だけど、きみはまだ本調子ではないのだから、あまり前に出てはいけないよ?」
ぽんぽんと頭を叩かれて、シェラの眉が寄る。
ローレントとはそう年も変わらないはずなのだが、いつも子供扱いされている気がするのだ。
「分かっています、足手まといにだけはなりたくありませんから」
けれどそれを言うのも癪なので、シェラは無難な返事をする。
不安と緊張が和らいでいることに、彼女はこの時、気づかなかったが。
「そういえばシェラ、きみには吸血衝動があったりしないのか?」
ローレントの唐突な質問に、彼女は首を傾げる。
しばらく何のことか分からなかったが、先日発覚したヴァンピールの話だろう。
シェラは不満そうな表情で返事をする。
「ありませんよ、血を吸うだなんて……気持ちが悪い」
想像するだけでぞっとする。
血なんて、おいしいわけがないのに。シェラも怪我で口を切ったりすることはあるが、鉄錆の苦い味がするだけだ。
ローレントは彼女の返事に口もとに手をあてて、考える仕草をした。
「……そうか、イストが嘘をついているというふうでもないけど、きみのその点だけが不自然だと思ってね」
彼の言葉にシェラは不思議そうに首を傾げる。
「不自然……なんですか?」
そもそも、多岐にわたる魔族の特性全てを把握するような時間がなかったシェラは、ヴァンピールについても詳しくは知らない。
ローレントはそんな彼女に丁寧に説明をしてくれた。
「普通、ヴァンピールというのは吸血衝動に苦しむものだ。それが私たちにとっての食事と同じであるし、力を保つために必要なことなんだ。それなのに、きみにはそれがまったくない。同時に、特別な力を有しているわけでもないから……かもしれないけれど」
ローレントは不思議そうに首を傾げて、シェラをじっと見おろす。
そんな彼に、シェラは別のことで驚いていた。
「……ローレント、あなた、詳しいんですね?」
感嘆を含んだシェラの言葉に彼は苦笑して首を横に振った。
「いいや、詳しいわけじゃないよ。ヴァンピールというのは特に有名なだけだ。その特性上、昔から人間に接触することも多くあって、他の魔族よりは資料が多くあるというだけさ」
血を求めて人間と接触することがあったということだろうか。
だとしたら恐ろしい話だが、確かにそういう話を聞いたことがないわけではない。
「なるほど……探せばあるというわけですか」
それなら、今度調べてみようかとシェラは考えていた。
そんな彼女の頬を、ローレントの長い指がつつく。
どこか切なそうな彼の表情に疑問を覚えて首を傾げると、静かな言葉が落ちてくる。
「イストの言うことが本当なら、きみはもしかすると王妃の子かもしれない。それなのにひとの世に追いやられている……と思えば、敵はきみを抹消しようとするだろう。だからこそ、満月に限らず、戦いの時にはくれぐれも気をつけてほしい」
心配そうに、切なげに揺れる彼の翡翠の瞳に妙な気恥ずかしさを覚えて、シェラは早口で答える。
「わ、分かっていますよ。あなたこそ、あんまり余裕でいると大怪我してしまいますからね!」
シェラはその空気を振り払うように、笑顔で言った。
今回の満月には精鋭だけが配備されている。
他の騎士たちにはまだ内密になっていることだが、シェラとローレントの二人は同じ隊に配備されていた。
イストとジェシカもこちらに居る。
担当地区は騎士団左翼軍の外回り。
潜伏先として疑われているのは右翼軍ではなく左翼軍だ。
当然と言えば当然で、寄せ集めに近い左翼部隊と違い、右翼部隊には更に厳しい試験と審査があるうえに、王城の警備なども務めるため、出自が確かな貴族しか入隊できない。
シェラは椅子から立ちあがると、ローレントの隣に並んで微笑む。
「さあ、作戦は明日です。そのためにも、まずは今日を乗り切りましょう」
「ああ、そうだね」
明日。
何が起きるのか、相手の正体をつきとめることはできるのか。
まだ何も分からない。
不安を抱えたまま、シェラは部屋の扉を開いた。
その後、午前中シェラは市街の見回りをしていたのだが、下町の路地近くになって突然うしろから誰かに抱きつかれた。
「ハロー、シェラ!」
「……ジェシカ、びっくりするじゃないですかっ」
周囲の人々には見えないのだからと、シェラは小声で抗議した。
いくらなんでも往来で騎士が独り言をこぼしていたら、不審すぎる。
そんな彼女の心中など知ってか知らずか、ジェシカは赤い唇を笑みの形にしてシェラの耳元で囁く。
「あらまぁつれないこと、ってそーんなことより、あんたたちって恋仲なの?」
「は?」
このひとはまた急に何を言いだすのだろうと、怪訝そうに瞳を細めたシェラに、彼女は赤い唇を笑みの形にして耳元で囁くように言う。
「シェラとローレントのコト」
一瞬、大声をあげそうになったのを理性で堪えたシェラは足早に場所をひと気のない路地裏に移すとジェシカを睨む。
その頬は、薄暗い路地裏でもはっきりと分かるほど赤く染まっていた。
「ばかなこと言わないでくださいっ、何を言ってるんですか、あなたは」
「だって毎朝決まって一緒に出てくるじゃなぁい? 毎晩いろいろしてるのかなぁって」
うふふっと茶目っ気のある笑みをうかべたジェシカにめまいと恥ずかしさを覚えて、シェラは額に手をあてた。
「――あなたが腕をこんなふうにしてしまいましたから、髪を結ってもらっているんです! おかしなことを言わないでください!」
今度こそシェラは大声をあげてしまった。きっと耳まで真っ赤になっているだろう。
ジェシカの言葉はあまりにも想定外で、そんなふうに思われていたとは恥ずかしい限りだった。
(ローレントですよ? そんな感情、持つわけないでしょう、彼は……仲間なんですからっ)
混乱しそうになりながらも必死に冷静さをたもち、シェラは大きく深呼吸をくりかえす。
「あらぁ、そぉだったの。つまんないわぁ、騎士団ってのは色恋沙汰のひとつもないんだもの、酒のツマミもありゃしない」
つまらないという言葉どおり不満そうな顔をしているジェシカの一方、シェラは腕を組んで淡々と事実を告げる。
「男性しか居ないんですから、普通でしょう」
けれどジェシカはそのふてくされたシェラの頬をつつきながら言う。
「そうかしら? ローレントはシェラに特別思いいれがあるみたいだけど」
「っ⁉」
思いがけない言葉に驚いている間に、ジェシカが人差し指でするりとシェラの唇をなぞる。
「あ、ん、た、の、こ、と、好きなんじゃないの?」
一度深呼吸をしたシェラは、ジェシカの指を払いのけ、低く冷たい声で言う。
「ジェシカ、あんまりふざけていると怒りますよ」
けれどもジェシカにはまったく効果がなく、悪びれた様子もない。
「あらぁ、アタシは本気で言ってるのに」
「そんなにおつまみが必要ならナッツでも買ってあげますから、これ以上風紀を乱すような冗談はやめてくださいよ」
そう言うなり、シェラは大きな歩幅で歩きだす。
「はいはーい、アタシ、魚のほうがいいわあ」
「もう、しようがないですね」
シェラのあとをついて来ながら、ジェシカは頭の後ろで腕を組んで、さして気にしたふうでもなく言う。
「でも、恋って良いわよシェラ。女を綺麗にしてくれるワ」
「綺麗になっても困ります、私は今、男なんですから」
シェラだって、可愛らしい小物やリボン、服に興味がないわけではない。
だが、今は男なのだ、そんなもの見ていたら怪しまれてしまう。
女だと気づかれてしまうかもしれない。最悪の事態だ。
想像してぶるりと震えたシェラを見て、ジェシカが意地悪い口調で言う。
「あらぁ? じゃあローレントが他の女にとられちゃってもいいの?」
ぴたりと、無意識に足が止まって、シェラは首を傾げた。
考えたこともないことだった。
ローレントはシェラより前に騎士団に在籍していて、何かと親切にしてくれたひとだ。
そして戦友でもある。
けれど思えば、彼もいつかはそういうひとを見つけるのだろう。
それは当然といえば当然で。
(でも、そんなの……私には関係ないじゃありませんか)
少しの間をあけて、シェラは少しだけ拗ねたように唇を開いた。
「構いませんよ、別に。彼の自由でしょう」
「あーらら、ダメねえシェラ。良い男は捕まえておかないと……アタシにとってはただのゲス野郎だけどね!」
いまだにジェシカは腹に一撃いれられたことを根に持っているようだ。
爽やかな笑顔に明確な敵意がある。
シェラはそれにフンと小さく鼻を鳴らして言う。
「そんなに言うなら、あなたが恋人を作ればいいじゃありませんか」
仕返しのつもりで言ったのだが、少しの間をあけて返ってきた言葉は冷めたものだった。
いつも明るいジェシカらしくない、暗く、冷たい。
「……アタシはもう作らないわ」
「え……」
思わず足を止めてふりかえると、ジェシカは空を見あげていた。
それの意味するところを察して、シェラは口を噤む。
やはり、ジェシカが亡くしたのは――……。
「なーんてねー! イイ男がいたら捕まえるわよ、当たり前じゃない」
けれどジェシカは明るく笑って、シェラをまた抱きしめた。
彼女は優しい声音で静かに告げる。
「シェラ、せーっかく可愛いオンナノコに生まれたんだから、その任務が終わったらちゃんとオンナノコを楽しみなさいな」
それに対して、シェラは苦笑をこぼして答えた。
「……そうですね、それは考えておきますよ」
愛する人を亡くすというのは、どれほどつらいのだろう。
誰も愛したことがないシェラには分からない苦しみだったが、あの日、ジェシカが火を放ち、シェラに怪我をさせたのも、無理はなかったのかもしれないと考える。
もちろん、火を放ったのは許されることではないのだが。
それほどの憎悪の火が、いまだ彼女の内には揺れているのだろう。