大人になりたいカーリー 2
翌日、僕は庭のくすのきに登って枝の根元に体を横たえていた。
都会の人は木登りというと細い枝先まで行くようなことを考えるみたいだけど、実際には木登りの名人であるほどそういった危険はおかさない。木の種類によって枝のつき方も違うのだから、太い枝がワッサリと広がった上りやすいお気に入りの木があったりするんだ。特に僕のくすのきは、地上からあまり高くないところに太い枝がまとまった枝棚があって、体を押し付けても十分なだけの広さがある。
僕は一人で考え事をしたくなるとここに上るクセがあって、だからドラゴのリードをひきながら庭に入ってきたカーリーとジェニーは、木の上にいる僕を見ても驚きもしなかった。ごく当たり前のように少し手を振って挨拶しただけだ。
二人はドラゴのリードをはずして遊びはじめるから、僕はそれを木の上から眺めて、ゆっくりと物思いにふけることができた。
(ああ、大人になりたい)
木の下にぼんやりと目を向けると、ジェニーはカールとドラゴにじゃれつかれて、尻もちをついたところだった。それでも何がおかしいのか、顔中が口になるんじゃないかというくらいに思いっきり笑っている。
(そうだ、ジェニーは子供なんだから、ああやって笑いながら暮らす権利がある!)
ジェニーやカールみたいに賢くてかっこいいことを考えようとしたんだけど、僕の頭ではこれが限界だった。
(僕が大人だったらなあ)
難しい裁判の話とか、おばさんからジェニーを守る方法考えるとか、賢くてかっこいい言葉とか、そういうものがわかるんだろうか。
僕はつい、ぼそりとつぶやいてしまった。
「ああ、大人になりたい」
その呟きを耳ざとく聞きつけて、カーリーが僕を見上げた。
「わたしも! 私も大人になりたい~」
「なんでお前まで大人になりたがるんだよ」
「だって、大人になったらお買い物が自由にできるんだよ。ご飯のお使いに行ったとき、お駄賃に一個じゃなくて、いっぱいお菓子が買えるじゃん!」
「安っぽい理由だな」
「それだけじゃないもん! 大人になったら夜更かししても怒られないし、アニメじゃないテレビだって見ていいんだよ!」
「あのなあ、僕はもっとふか~い理由があって大人になりたいんだよ」
ジェニーはそんな僕たちのやり取りをこめかみを押さえながら聞いていた。まずい食べ物を無理やり飲み込もうとしているような、変な顔をしていたような気がするのだけれど、深くうつむいてしまってはっきりとはわからない。
だから僕は、そんなジェニーが気になって声をかける。
「気分でも悪いのかい?」
僕に向かって不機嫌そうな表情を向けたジェニーの言葉は、憎しみをこめて何かを噛み潰そうとしているみたいだった。
「大人なんかになりたいの? 本当に?」
その声を聞いただけで僕なんかは、これがジェニーにとっては触れちゃいけない話題なのだと気づいたけれど、カーリーはまだ小さいからそういう気の使い方というものを知らない。だからひどく無邪気に答えた。
「うん! なりたい!」
「大人になったって、いいことなんかひとつもないわよ」
「そんなことないよ! だってさ、学校に行ってお勉強したりもしなくてすむんだよ!」
「そうね……試してみる?」
「試すって?」
「おじさんの研究室に大人になるクスリがあったわ。それを分けてあげる」
「やったあ!」
「ただし、おじさんには内緒にしてね、持ち出し禁止の棚に入っているクスリだから」
こうして僕たちは、こっそりとマーカスの秘密研究所に行くことになったんだ。
研究所には何回も来ているのに、今日はマーカス博士に見つかっちゃいけないんだと思うとどきどきした。ジェニーが裏口の戸をそっと開けてくれたから、僕たちは足音を忍ばせてキッチンを通り抜ける。
途中、リビングの入り口からマーカス博士と、きちんとしたスーツを着た見知らぬおじさんが玄関口で立ち話をしているのが見えた。
「児童相談所の人だわ」
ジェニーは小声で、何でもないことのように言ったのだけれど、僕の心臓はびっくりしてドキンと鳴った。
「児童相談所の人がなんでここに?」
「まあ、いろいろあるのよ」
「いろいろって?」
「そんなことはいいから、静かにしないとおじさんに見つかっちゃう!」
ジェニーが強い口調で言うから、僕は慌てて口を閉じた。
「こっちよ、はやく!」
ソファの陰に隠れるようにしてリビングを抜け、廊下へと出る。そのつきあたりには地下室へと続くドアがあって、こんなプレートがかけられていた。
『研究室 危険 こどもだけでのたちいりを禁ず』
「おい、勝手に入っちゃまずいんじゃないかな」
「別に大丈夫よ、ここは私の家でもあるんだし、入っちゃいけない部屋なんてないわ」
「いや、『こどもだけでのたちいりを禁ず』って、さあ……」
「それは、あなたみたいないたずらっ子に対する警告よ。勝手に触るとあぶないものもあるから気をつけろっていう。それ以上でも以下でもないわ」
「でも……」
「カーリーちゃんくらい小さいならいざしらず、あなた、『触っちゃいけない』って言われたものに勝手に触るほど分別のない子供なの?」
この言葉には、カーリーがぷくりと頬を膨らませた。
「カーリー、そんなにコドモじゃないもん」
「そう、いいこね。じゃあ私が触っていいって言うもの以外には触れてはだめよ」
「わかった!」
地下へと続く薄い扉は、ジェニーによって開かれた。押し込められていた空気と一緒にふわっと流れ出してきたのはかいだこともない種類の悪臭で、これにジェニーが顔をしかめる。
「ああ、ガスが発生している……換気扇は回しっぱなしにしておけって言ってるのに、おじさんったら!」
怒ったようにズシズシと荒い足取りで階段を下りるジェニー、お下げを揺らしながらぴょこぴょことついていくカーリー……僕はといえば、そんな二人のさらに後ろからおっかなびっくりのへっぴり腰でついていくだけだ。
この部屋には初めて入ったが、もとはボイラー室だったらしいむき出しのコンクリート壁が、ひんやりと冷たい印象だった。
壁の一面は大きな棚になっていて、金属製の部品や、茶色や緑色の薬瓶がぎっしりと詰め込まれている。棚だけには収まりきらなかったようで、足元にも作りかけの機械や大きな丸い玉や、そのほか良くわからないものがごちゃごちゃと散らばっていた。
「なんだか、おもちゃ箱をひっくり返したみたいだ」
僕の言葉を聞いて、ジェニーが小さく肩をすくめる。
「ちゃんと片付けなさいって言ってるんだけどね、なんだか、このほうが使い勝手がいいんですって」
ジェニーはあきれてるとか、怒っているとかではなくて、お母さんがやんちゃ坊主のことを話すときみたいに優しい顔をしていた。
「だから、立ち入り禁止の本当の理由は、私に『片付けなさい』っていわれないようになのかもね」
小さな声でクスクスと笑いながら、ジェニーは棚の中ほどに手を伸ばした。そこには何本かの薬瓶が置いてあって、そのなかの一番大きな瓶を手に取ったんだ。
「さあ、これが大人になるクスリよ」
「大人に!」
カーリーがぴょん、と飛び上がった。
その勢いで足元にあった丸い玉を踏みそうになるから、ジェニーが怒鳴る。
「あぶない!」
「ぴゃ!」
カーリーが飛びのくと、玉はころころ転がって壁に当たって止まった。
「触っちゃだめよ。ここには爆発するものとかもあるんだからね」
「爆弾?」
「いいえ、花火よ。お菓子が出てくる花火の研究をしているんですって。でも、爆発したら大変よ」
「わかった。気をつける」
こくんとうなづいたカーリーの手の中に、ジェニーが薬瓶の中身をなん粒か滑り込ませた。
「飲んで30分くらいで効いてくるわ」
僕も5粒くらいもらったんだけど、病院でもらう甘くてつるつるしたクスリとは違って、ざらざらした苦そうな手触りがいかにも大人のクスリっぽかった。
「これで私も大人になるのね!」
カーリーは大喜びでそれをぺろりと飲み込んだけど、僕はポケットにあった紙に丁寧に包んでしまいこむ。
「あれ? お兄ちゃんは飲まないの?」
「二人とも大人になって帰ったら、母さんがびっくりするだろう?」
「あ、なるほど、お兄ちゃん、頭いい!」
この場で一番頭が良くなかったのは、どう考えてもカーリーで……
「お前、何の準備もなくクスリ飲んじゃって、体が大きくなったら洋服とかどうするんだよ!」
「あ! 考えてなかった!」
これにはさすがのジェニーも慌てたらしく、眉をぴくぴくさせて不安そうな声を出した。
「どうしよう、大人用の服なんて、家にはマーカスおじさんのしかないわよ」
それは当然だ、この家に住んでいるのはマーカス博士とジェニーだけなのだから。
「それでも無いよりはマシだよ!」
「そ、そうよね、じゃあカーリーちゃん、洋服を探してくる間、私の部屋に隠れてて!」
ジェニーが飛びつくようにして開いたドアの隙間から、僕たちは飛び出した。
玄関のところにはマーカス博士と児童相談所の人がまだいたけれど、ふたりでなんか難しい話をしているらしくて、こちらには気づきもしないみたいだ。
だから僕たちは一気にリビングを駆け抜けて、二階へ上がる階段の所までたどり着くことができた。後はそれぞれのミッションをこなすだけだ。
「私の部屋は二階の突き当たり、カーリーちゃんはそこから絶対に出ないこと! ブライアン君は部屋の前で見張ってて、もしもおじさんが来たらうまく対応してちょうだい! 私はおじさんの部屋から洋服を取ってくる、いいわね?」
僕らはこくんと頷いてそれぞれに散った。ジェニーはまっすぐに廊下の向こうに、水色に塗られたドアの奥へと駆け込んで行った。
その対面、ピンクに塗られたドアに手をかけた僕は、大変なことに気づいた。
「カーリー、お前、背が伸びてる!」
いつもなら僕の胸の高さでぴょこぴょこと揺れているお下げが、今はちょうど目の高さにある。
「いいか、部屋に入ったら洋服は全部脱いでおくんだ!」
「お兄ちゃんのエッチ! そんなことしたらはだかんぼうになっちゃうよ!」
「ああ、もう! そんなふざけたことを言っている場合じゃないんだ。もしもこのまま大きくなったら、小さいままの洋服は脱げなくなるかもしれないんだぞ!」
「あ、そうか。お兄ちゃん、やっぱり頭いい~」
「もういいから! 言われたとおりにしろよ、後はジェニーにおねがいして、僕は絶対に部屋には入らないから!」
カーリーをピンク色のドアの奥に押し込んで、僕は深いため息をつく。
「どうせ大人になるクスリなら、中身を大人にしてくれよ……まったく……」
マーカス博士がにやりと笑った……なんだか、そんな気分がしていた。




