大人になりたいカーリー 1
それから一週間、特に変わった出来事はなかった。
マーカス博士はジェニーのためにズボンをたくさん買ってきて、それをはいたジェニーは僕たちと真夏の太陽の下でたっぷりと遊んで、日に焼けてしまった。Tシャツをめくると日に焼けた肌と白い肌の境目がくっきりとついていて、鼻の頭は日焼けしすぎたせいで少し皮がはがれていて、初めて教室に入ってきたときの大人っぽくて上品な雰囲気はすっかりなくなってしまった。
だけど僕は、上品だけどどこか冷たいジェニーより、今のジェニーの方が断然いいと思う。
今日はみんなでセミ取りに来てるんだけど、ジェニーの虫かごは空っぽのままだった。
「だって、セミって思ったよりも素早いんだもの」
ジェニーがうらやましそうに見つめる僕たちの虫かごの中は、かごが黒っぽく見えるぐらいたくさんのセミが入っていて、ミンミンとうるさく鳴いている。特にマッシュは小さなカーリーの虫かごにもセミを入れてくれるのだから、もう何匹捕まえたのかわからない。
「ねえ、マッシュ君、コツを教えてよ!」
ジェニーがマッシュの胸元をつかみそうな勢いで聞いた。その表情はすごく真剣で、マッシュが少したじろいだ。
「う~ん、コツかあ……」
カールは虫網を下げて、少しからかうような口調で言った。
「マーカス博士に、セミを捕まえる機械とか作ってもらえばいいじゃん」
ジェニーは、今度はぷうっと頬を膨らませて、怒った顔になった。
「嫌よ、私は自分でセミを捕まえてみたいの!」
「じゃあさ、こっちこっち、あそこにセミがいるの、見えるだろ?」
マッシュが大きなけやきの木の梢を指さす。ジェシーは眉毛の間にしわが寄るくらい目を細めて、高い木の上をじーっと見つめた。
「どこに?」
「そんな高いところじゃなくて、もっと下の方、見えないかな?」
「茶色い色ばっかりで、わかんないわよ」
「枝じゃなくって幹をよく見て探すんだよ」
「見つけた! あれね!」
いきなり網を振りかぶったジェニーを、マッシュはあわてて止めようとした。
「ダメだ、ジェニー、もっと静かに……」
時すでに遅し、襲いかかる虫網の気配に気づいたセミは、ピッとおしっこを発射して飛んでいってしまう。
「あ、やだ!」
間一髪、大きく飛びのいたジェニーは、おしっこの直撃を逃れる。
「もう! また逃げられた!」
ジェニーは顔を真っ赤にして、足を踏み鳴らす。どしんどしんと足を踏み鳴らすたびに前髪が揺れて、つりあがった眉尻が見えたり隠れたりした。
僕はそんなジェニーに言う。
「そんなに怒らなくてもさ、次のセミを探そうよ」
これを聞いたジェニーは、びっくりした顔で足を止めた。
「いま、なんて?」
「だからさ、次のセミを探そうって」
「そっちじゃなくて!」
「ああ、『そんなに怒るな』って言ったんだよ?」
「私、怒ってた?」
ジェニーは目玉を落っこちそうなほど大きく見開いて、二、三回ぱちくりさせた。それは僕が今まで見たことないほどびっくりしきった人の顔だった。
「そうか、私、怒ってたんだ……」
ジェニーの頬がゆっくりと緩んで、大きな笑い声が上がる。
「あはは、そうか、私、怒ってるんだ、あはは!」
「どうしたのさ、何がおかしいのさ?」
「ちょっとね、都会にいたころのことを思い出したのよ」
カーリーが無遠慮にぴょんと飛び跳ねてジェニーに飛びつく。
「都会のお話? 面白いこと?」
「おもしろくなんかないわ、私にとってとか言って、退屈で窮屈なところだったもの」
「おしゃれなお店とかお洋服がいっぱいあるのに?」
「残念ながら私、おしゃれとか興味ないのよ。だからおしゃれなお店のことよりも、自分がどんな顔をしているかの方が大切だったの」
「お化粧の話?」
「そうじゃないわ、カーリー。私の周りは大人ばっかりで、私はいつも自分が怒った顔をしないように気を使わなくてはならなかったの。だって、私が怒った顔をすると、おばさんがものすごく怒るんだもの」
「笑うのもいけなかったの?」
「そうね、笑うと不真面目だって怒られたの。それに私、学校でもちょっと変わった子だったから……」
ジェニーは突然、しかめっ面になった。額にしわを寄せて、口も思いっきりとがらせて、たぶん、誰かの物まねだろう……ものすごいガラガラ声を出す。
「『なんだね、そのふぬけた顔は、もっと普通にしなさい、ジェニー』」
訳が分からなくて、僕たちはぽかんと口を開けて固まってしまった。ジェニーはおろおろと両手を振って説明を始める。
「あ、あのね、これは前にいた学校の先生の物まねなのよ」
いちばん最初に「ぷっ!」と笑い出したのはマッシュだ。
「それはわかんないよ~、僕ら、その先生に会ったことないんだもん」
カールもゲタゲタと大声で笑いだす。
「ていうか、ジェニー、物まねとかしちゃうんだ?」
「あら、悪い?」
「悪くないけど、ネタのチョイスがおかしいよ!」
小さいカーリーは二人のツボがわからなかったみたいで、きょろきょろあたりを見回している。その様子を見て、ジェニーも笑いだしてしまった。
ほらね、上品で笑わないジェニーより、今のジェニーの方が何倍もいいだろう?
僕らと一緒に居る時のジェニーは、本当によく笑う。時々、何がおかしかったんだろうって僕が戸惑うくらい、いつも笑っている。
それに、ジェニーは良く怒る。怒るときはいつも腰に手を当てて、小生意気に胸を張って、力いっぱい怒るんだ。
他にもいたずらを思いつくとちょっと意地悪な顔をしたり、マーカスおじさんを怒るときはお母さんみたいな優しい顔をしたり、ジェニーはいろんな顔をする。
「私、いまね、すごく楽しいの」
笑いながらジェニーが言うから、僕は少しそっけなく答えてやった。
「見ればわかるよ」
「ああ、ごめん、違うの。いま、笑っているから楽しいんじゃなくて、こうやってみんなと笑ったり怒ったり、それをどの大人の人にも遠慮しなくていいのが楽しくて仕方ないの!」
「ふ~ん、そう」
「何よ、ブライアン君、怒ってるの?」
「怒ってるわけじゃないけどさ」
僕はこの時、ジェニーとの秘密の約束を思い出していた。
もちろんカールとマッシュ、それにカーリーにも内緒なんだから、大きな声で話すわけにはいかない。ジェニーに体を寄せて、そっと耳元で。
「ねえ、友達なんか作って、大丈夫なのかい?」
言ってしまった後で、少し意地悪な言い方だったかなと思った。ジェニーの顔を見ると、今まで一度も見たことがない顔――すごく悲しそうな、今にも泣き出しそうな顔をしているものだから、僕はすっかり慌ててしまって両手を振り回した。
「ちが……違うよ、僕はジェニーと友達になって楽しいよ。でもさ、友達を作ったら、怒られるんだろう?」
ジェニーはますます悲しい顔になって、すっかりうつむいてしまう。
「そうね、怒られちゃう」
「その人はさ、君に『笑うな』って言ったのと同じ人?」
「うん、そうよ」
「つまり、君のおばさんか……」
ジェニーがうつむいたまま、小さく肩を震わせる。もしかしたら泣いているのかもしれない。
「あのね、こんなことを言っちゃいけないの、知ってるの……おばさんはお父さんとお母さんを亡くした私を引き取ってくれたんだし、ちゃんとご飯も食べさせてくれたし……」
「ジェニー、ここにはおばさんはいない。それに、君が内緒にしておいてほしい話なら、僕は絶対に誰にも言わないと誓うよ」
ジェニーは思い切ったようにきゅっと顔をあげた。泣いてはいなかったけれど、目の端にはいっぱい涙が溜まっていた。小さな唇は少し震えながら開いて、しっかりとした声で。
「私、おばさんが怖い」
「どうして? 叩かれたりしたの?」
「ううん、むしろ、叩かれる方が怖くない。おばさんはね、私を閉じ込めようとするの」
「閉じ込めるって、部屋とか、押し入れとかに?」
「そういう直接的な体罰じゃないわ。おばさんはね、私の家を売ってしまったの。家の中にあったものも全部捨ててしまって、おばさんの家のほかに、行くところがないようにしてしまったの」
ジェニーは僕の耳元に口を近づけて、とびっきりの秘密を囁いてくれた。
「私、いずれここからいなくなるって言ったでしょ、あれも、おばさんとの約束なの」
「つまり、おばさんのところに帰るってこと?」
「そうよ。おばさんはね、私がマーカスおじさんに引き取られるときに言ったの、『夏休みが終わったら迎えに行くからね』って」
「きみはそれでいいの?」
「良くはないけど、仕方ないじゃない、私はまだ子供なんだから」
確かに僕らは子供だから、どうしても『保護者』っていうのが必要だ。お父さんやお母さんがいないなら、その代わりをしてくれる大人がいないとダメなんだ。
だけどマーカス博士なら、大人なんだから『保護者』として認められるんじゃないだろうか。僕にはそこが不思議だった。
「ねえ、それ、マーカス博士に相談したほうがいいんじゃないかい?」
「だめよ!」
「どうして? マーカス博士なら、なんとかしてくれるんじゃない?」
「おじさんは確かにすごい発明家で、なんでも作れるけど、子供みたいな人だもの、おばさんに勝てっこないわよ」
「おばさんって、ずいぶん強い人なんだね」
「強いんじゃなくて、怖いのよ。もしも私が帰らなかったら、おじさんのことを裁判にかけてめちゃくちゃにしてやるって言ってた」
裁判なんて、子供のボクはテレビでしか見たことがない。真面目な顔をした大人たちが犯人をみんなで取り囲んで「異議あり!」って叫んでいるイメージしかないんだ。
だからジェシーへの返事にも困ってしまって、あいまいにうなずくことしかできなかった。
「そうか、それは怖いねえ」
ちょうど都合よく、カーリーが僕の腰に飛びついてくる。
「ねえ~、なんの話をしているの? カーリーも混ぜて~」
内緒の話はこれで終わり。ジェニーは少し湿った目元を拭ってにっこりと笑った。
「別に大した話じゃないのよ」
「ふうん、大した話じゃないのに、どうしてお姉ちゃんは泣いちゃってるの?」
「泣いてなんかいないわよ」
「泣いてるよね、もしかして、お兄ちゃんに意地悪された?」
「泣いてないってば。ほら、次のセミを探しに行こう」
カーリーの手を引いて歩きだしたジェニーの後姿は細くて、真夏の道に立ち上る蜃気楼に紛れてゆらりと消えてしまいそうだ。
「もしも僕が大人だったら……」
ジェニーを助けてあげられるんだろうか。怖いおばさんのところへなんか帰さないで、ずっとこの街で、笑っていることができるんだろうか。
「ああ、大人になりたい」
僕のつぶやきは再び鳴き始めたセミの声にかき消されて、誰にも聞かれることはなかった。




