マッシュ空を飛ぶ? 2
翌日、マッシュとカール、それにカーリーを連れて訪れた僕を、マーカス博士はすごく歓迎してくれた。
「やあやあ、待っていたよ! 特にマッシュ君!」
「え? 僕?」
マーカスさんに肩を抱かれて、マッシュは戸惑った顔だ。ちょうどそのとき、二階の部屋のドアが開いてジェニーが顔を出した。
「うるさいわねえ、なんの騒ぎ?」
鼻の頭にしわを寄せて、明らかに不機嫌そうな顔。それでもマーカス博士は、はしゃぎきった声で答える。
「被験者だよ! ほら、例のあれの!」
「被験者って……彼を実験台にするつもりなの?」
「あの薬の安全性は、私が自分で飲んで確認済みだ。問題ないだろう?」
「大問題よ。私は反対だわ」
ジェニーは階段を下りてきて、マッシュをマーカス博士から引きはがした。それから腰に手を当てて、マーカス博士をにらみつける。
もちろんジェニーはマーカス博士よりずっと小さいのだけれど、なぜか彼女が大きくて頼りがいのある存在に見えて、僕はすごく安心したんだ。
ジェニーは顎が上がるくらい胸を張って、厳しい声で言った。
「いくら安全だからといって子供を被験者に選ぶなんて、おじさんの常識を疑うわ!」
「ああ、いけないな、ジェニー。その常識というものが科学の進歩を妨げる。常識を突き破る勇気ある若者こそが科学の進歩には必要なのだよ!」
「じゃあ、個人的な理由を言うわ。私の『友達』を実験動物扱いしないでちょうだい、以上!」
ぴしゃりと言い放って、それっきりだった。彼女はくるりと振り向いて僕の手をとり、玄関に向かって引っ張る。
「行こう。表で遊ぼう」
「いや、その前に勉強をと思って、教科書を持ってきたんだけど……」
「そんなの、後で私が教えてあげるから、早く行こう!」
こうして僕たちは玄関ポーチに連れ出されたのだけれど、そこで彼女はくるりと振り向いて、聞いてもいないことをいきなり言い出した。
「いい? さっき『友達』って言ったのは、おじさんをだまらせるための作戦なんだからね!」
マッシュとカールはきょとんとした顔で「あ、うん」と言ったきりだったけれど、その気の抜けた表情がおかしくて、僕はここまでこらえていた笑いを一気にふきだした。
それがお気に召さなかったのか、ジェニーは僕をぎろりとにらんだ。
「なによ?」
「だって、君とマーカス博士って、どっちが子供でどっちが大人なのかわからないよ」
「そうかしら?」
カーリーも声を立てて笑いだす。
「本当だ、マーカスさんは子供みたいに怒られちゃうし、ジェニーはお母さんみたいに怒ってるし、あべこべだね!」
僕たちに釣られたのか、ジェシーも笑いだす。
「そういえばそうだわ、まったく、あべこべね!」
あとはもう、ワハハ、ワハハと大声をあげて、僕たちは笑い転げた。そういうバカバカしい雰囲気っていうのは伝染するらしくて、カールとマッシュも口の端をむずむずと震えさせている。
「ふふ、ふふふ、確かにマーカス博士って子供みたいだよね」
「ははっ、ははは、ジェニー、お母さんだって」
ついに二人も大きな声をあげて、ワハハ、ワハハと笑い始める。
「なんだよ、何がおかしいんだよ」
「ぶ、ブライアンこそ、何笑ってるんだよ」
「ふひひ、ふひひ、あ~、涙出てきた」
お腹が痛くなるまで笑い転げたら、なんだかすごく気持ちがすっきりとしてしまった。
カールは笑い涙をふきながら、ジェニーに向かって頭を下げる。
「いやあ、君をアンドロイドだとか、失礼なことを言ってすまなかった」
ジェニーも涙をふきながら頭をあげる。
「別に気にしてないわ。漫画みたいでバカバカしいとは思ったけれど」
「それでもさ、僕の方は気になるんだよ。君が傷ついたんじゃないかなってさ」
「あら、どうして私が傷つくの?」
「だって、アンドロイドってさ……」
カールは珍しく顔を伏せて、すごく弱気な声を出した。
「人間らしい感情がないって、からかう時にも使う言葉じゃないか。つまり僕は、君に人間らしい感情がないって悪口を言ったのとおんなじだから、さ」
ジェニーは勿体ぶって腕を組む。でも僕は、ジェニーが本気で怒っているわけじゃないことに気が付いた。
だってジェニーは、本当に楽しそうにニコニコ笑っていたんだもの。
「そうね、少し傷ついたかしら」
「ご、ごめん。って、謝ってすむもんじゃないけど」
「ええ、謝ってすむもんじゃないわ。だから、償ってもらおうかしら」
「つ、償うって?」
ジェニーは腕組みをほどいて、にやりと笑った。僕らが飛び切りのいたずらを思いついた時にするような、本当に子供らしい笑い方だった。
「そうね、お詫びに、虫取りを教えてちょうだい」
「虫取りって、虫を捕る、あれかい?」
「他にないでしょ、その虫取りよ」
「虫なんか取って、どうするんだい?」
「そういえば、虫なんか取ってどうするの?」
この質問には、カーリーが伸びあがって答えた。
「あのね、虫かごで飼うの!」
「飼うって、餌をあげたり、お掃除してあげたり?」
「うん、そうだよ。あのね、コオロギさんとか、キュウリあげると鳴くんだよ」
「え、キュウリ?」
マッシュが多くなお腹をゆさゆさと揺すりながら前に出た。
「違うよ、カーリーちゃん、キュウリはコオロギの餌なんだよ。コオロギが鳴くのはね、単なる求愛行動だよ」
「きゅーあい?」
ジェニーが手を打ち鳴らす。
「雑誌で見たことある! 鳴き声でメスを呼ぶから、鳴くコオロギって、みんな雄なのよね!」
マッシュはジェニーの明るい声を聞いたとたんにそわそわと体を揺すって、両手でお腹をくるくると撫で始めた。
「あの……」
「どうしたの?」
「あのね、僕はやっぱり、君のこと、かわいそうだと思うんだ」
そのあとでぶんぶんと手を振り回して、早口で。
「違うよ、別に君を憐れんでいるわけじゃない」
「マッシュ君、いいから落ち着いて、ゆっくり」
「うん、あのね、僕はあのあと、『かわいそう』について、お父さんといろんな話をしたんだ。お父さんはね、かわいそうっていうのはかわいそうな目に会ったことのない人が、かわいそうな目にあっている人を安全な場所から見ていて言う言葉で、そういうのって『憐れみ』っていうんだって教えてくれた」
「そうね、たしかに『憐れみ』っていう言葉はあるわね」
「でも、そうじゃないんだ。僕はお父さんとお母さんがいないとこまることがいっぱいあって、だからジェニーは困っていないかなって、すごく心配になるんだ。心配しすぎて、悲しくなって、それで……」
マッシュが言葉に困って口をもぐもぐ動かしたのは、きっと説明が難しいくらいに複雑な『かわいそう』だからだろう。
ジェニーはマッシュに向かって笑顔で頷いてみせた。
「わかったわ、マッシュ君の『かわいそう』は憐れみの『かわいそう』じゃないよって、そういうことよね?」
「うん! だから、安全な場所から君を見下ろしたりしないよ、困ったことがあったら、手伝うから、何でも言って!」
「マッシュ君の『かわいそう』は、とてもやさしいのね」
「そうかなあ」
「そうね、困りごとなら一つあるわ。助けてもらってもいい?」
「もちろん!」
「私、虫取りってしたことがないの。もちろん虫を飼ったこともね。だから、虫取りを教えてくれる人が必要なんだけど……」
この言葉に、マッシュよりも先にカーリーがぴょんとはねて叫んだ。
「虫取りをしたことがないって、一度も?」
「ええ、一度も。だって街には、虫がほとんどいなかったもの」
カールが腕組みして、まるで大事件が起こった時の探偵みたいに「ふむふむ」とうなる。
「なるほど、つまり君は、僕たちに虫取りの先生になって欲しいと?」
「じゃあ、まずは虫かごを用意しなくっちゃね!」
そう言ったのはマッシュで、カーリーはこれにこたえてぴょんと跳ねる。
「私、お家から虫かご持ってくる!」
ジェニーが止めなかったら、きっとカーリーは駆けだして家へ戻っていただろう。だけど、ジェニーは落ち着いた声で言った。
「虫かごならうちにもあるわ。ここに引っ越してきたら、虫がいっぱいいるだろうからって、マーカスおじさんが買ってくれたのよ」
ジェニーはふわりとスカートの裾を揺らして玄関のドアに手をかける。
「待ってて、帽子と虫かごをとってくるわ」
「それだけじゃダメだ!」
カールがジェニーを呼び止めた。そうして、いかにも賢そうに前髪をかき上げながら言う。
「草むらに入るんだ、スカートは怪我をしたり、虫に刺されたり、最悪の場合は蛇にかまれたりする危険もある。できれば長ズボンが好ましい」
「蛇相手では、ズボンだってあぶないと思うんだけど……」
「何もジャングルの大蛇に噛まれるっていうわけじゃないんだ。そこらの小へびくらいなら、ジーンズのズボンだって十分な防御になる」
「でも、困ったわね、私、スカートしかもってないのよ」
カーリーがぴょこぴょことお下げを揺らしてジェニーの裾をつかんだ。
「じゃあさ、ウチにおいでよ! お兄ちゃんはチビだから、ズボンを借りればいいよ!」
僕は、これにちょっとだけムカついた。
確かにジェニーと僕はほとんど同じぐらいの背丈で、むしろジェニーのほうがほんのわずかに背が高いのだけれど、なんだか男のプライドみたいなものを傷つけられた気がしたんだ。
「そんなことないよ。僕は男なんだから、たぶん一回りくらい僕のほうが大きいさ!」
「じゃあ、ちょうどいいじゃない」
確かに太っちょマッシュのズボンではぶかぶかだろうし、カールのズボンでは足の部分が長すぎて引きずってしまうだろう。だからどうしたって僕のがちょうどいいということになるのだけれど……断然絶対全面的に不服だ。
ジェニーもなんだか遠慮がちにもぞもぞと身を揺すって困っている。
「あの……えっと……遠慮しておくわ」
カーリーは無遠慮というか無邪気というか、何の屈託も無い表情でジェニーの裾を強く引っ張った。
「えー、どうして~? お兄ちゃんは確かに時々お風呂入らないで寝ちゃうからフケツだけど、ズボンはお母さんがちゃんと洗ってくれるからピカピカだよ」
「いえね、別にブライアン君のズボンを借りるのが嫌だというわけじゃないのよ」
「じゃあ、どうして~」
「だって……私、よそのお家に遊びに行ったことってないから……」
「一度も?」
カーリーのお下げがぴょこんと揺れた。
「ええ、一度も」
この言葉に目を丸くしたのはマッシュだ。彼はおなかの肉をパタパタと手で叩いて驚きを伝える。
「じゃ、じゃあさ、友達の家でご飯をご馳走になったりとかは?」
「もちろん、ないわ」
「なんてことだ!」
カールはさすがに驚いた様子を顔に出したりはしなかったが、それでも答えのわかりきった質問をわざわざするあたり、やはり動揺していたのだと思う。
「特にすることもなくて、退屈しきって、友達の家でみんなでゴロゴロしちゃったりとかは?」
「そんなの、もちろん無いわ」
「なんて……ことだ!」
カーリーは大喜びで、お下げ髪をぴょこぴょこ揺らしてジェニーの周りを跳ねて回る。
「じゃあさ、家に遊びにおいでよ! 初めてのおよばれしようよ!」
「え……でも、いきなり行ったらご迷惑じゃないかしら」
「大丈夫! お母さんはやさしいから!」
「確かに、ブライアンのお母さんなら気にしないだろうね」
「むしろ『子供が一人や二人増えたところで同じことさ』って言いそうだよね」
ここまで盛り上がってしまっては、僕にもとめる理由なんて無い。だからジェニーの肩をポン、と叩いた。
「行こうよ、うちの母さんは子供好きだからさ、きっと大歓迎だよ」
その後で一言だけ付け加えたのは、男のプライドというやつなのだから許してほしい。
「ま、僕のズボンは君には大きいと思うけどね」
こうして僕らは、僕の家へと向かった。




