5 集結 曲沃
昭和16年5月1日。百号作戦-6日。
朝。臨汾県城を出た四郎と奥田は、第41師団司令部に行く。
候馬鎮の駅に自動貨車が手配されてると、留守番の准尉が告げる。その車で、曲沃に進出している司令部まで行けるらしい。
「ほら、申告してて、よかったでしょう」と奥田が言う。
「・・・」
「「まったくであります」」
そう答えたのは、石腹と頭城だった。
4人は臨汾から列車で南下する。候馬鎮までは、およそ70km。昼は、石川の妻女がつくってくれた弁当をいただく。駅で待っていた車に乗り込んだのは、午後2時過ぎだった。臨汾ではまだ遠くにあった山々が、候馬鎮の駅ではかなり迫って見える。
日産自動車謹製八〇型自動貨車にゆられながら、前方の山脈を眺める。
「正面から右手の山地が中條山山脈です。敵の第1戦区軍が篭っています」
「へえ。中條山って、1つの山じゃないんですね」
「ここからは見えませんが、山脈はずっと南の運城の先まで続いています」
「敵はどれくらいいるんですか?」
四郎がずばりと聞くと、石腹と頭城が聞き耳を立てる。
「全部で20万ですが、黄河の向こう側にも布陣していますから」
「ああ、中條山の向うは黄河でしたね」
「山地の中に16万はいるでしょう」
「そんなに?」
「山脈の長さは150kmはありますよ。ここからは、半分も見えません」
「北アルプスぐらいですね」
見た感じではそんな峻厳な山地に感じられない。それは、この汾河盆地自体が海抜500mの高地であるからで、四郎は失念していた。
「2000mを超える山は少ないですから、むしろ中央アルプスですね」
「なるほど」
「左手の山奥はもう中共軍の勢力圏です」
「八路軍ですね」
「主力かどうかわかりません。軍区は晋冀豫辺区軍だそうです」
「晋冀豫辺区って?」
「晋は山西省の別名。同じく、冀は河北、豫は予で河南」
「はあ」
「つまり、山西省の南東部から黄河の対岸、それに河北省の京漢線あたりまでです」
「辺区は、辺境の意味ですよね。山奥に篭っているから?」
「いえ、ソビエト地区です。解放区を辺区と呼称しています」
「へえ。よく知ってますね」
「ま、仕事ですから」
「任務でしたね。なるほど」
曲沃に着くと、奥田は堂々と司令部に入って行く。
続いて入ろうとする四郎を、二人が袖を引いてとめる。
「あれ」
「まずいでしょう、少佐どの」
「だって」
「師団長閣下ですよ」
石腹は控えの衛兵と話すと、近くの空き地に向かう。3人は一服して待つ。
第41師団は2年前に編成された。秘匿名は「河」。乙師団とも呼ばれる歩兵連隊3個基幹の、警備・治安を目的とする師団である。野戦用の甲師団より歩兵連隊が1個少なく、捜索連隊も附かない。砲兵も野砲ではなく山砲だ。編制直後より山西省に駐屯しているから、兵要地誌の研究は、おさおさ怠りない。それどころか、第1軍の中條山への攻撃は13回になる。第41師団も、そのほとんどに参加していた。
今の師団長は2代目の清水規矩陸軍中将である。
「第1軍司令部附き奥田少尉、入ります」
「入れ」
従兵が出て行って二人きりになると、清水は破顔する。
「道夫君か、よく来た。ま、座りなさい」
「はい、叔父さん。ご無沙汰してます」
「太原にいるのは知っていたが、なかなか出張できなくてね」
「いいえ、こちらこそ」
「親父さんは元気か」
「元気です、まだ2升飲めると」
「そうか、だいぶ減ったなぁ。閣下もお年か」
「元気もすぎると、迷惑なものです」
「あっはっは。ちと言い過ぎだぞ」
奥田家は軍人一家である。男の兄弟5人全員が軍人で、女の姉妹4人もみな軍人に嫁いでいる。道夫は末っ子で陸軍少尉だが、長兄はすでに海軍大佐で年も20近く上だ。奥田の一族郎党も、陸軍はもちろん海軍軍人も多い。奥田の父は陸軍中将までいって、だいぶ前に予備役に入った。大将までいけなかった代わりに、多くの部下の心服を得ることが出来た。その部下たちの多くが、今は将官である。
清水中将はロシア畑の出身、どちらかと言うと参謀本部が長い。
「それで観戦のために南下して来たか。あっはっは」
「二重包囲とあっては、黙っておられません」
「相変わらずだね。そうか、道夫君は奉天戦を研究していたね」
「はい。奉天会戦での乃木第3軍の動きです、中入りから片翼包囲へ」
「それだ、久しぶりに聞いたよ」
「えへへ」
「どうだね。今回の包囲戦に所感はあるかね?」
(かかった)奥田は心の中で歓声を上げた。
参謀ではないとは言え、奥田とて軍司令部附だ。今回の作戦は研究してある。3個師団、2個旅団による西正面の二重包囲は、問題なく成功すると思っていた。方面軍直轄の東正面も大丈夫だ。主力は2個師団だが、最新の97式中戦車や騎兵連隊もいる。東正面の作戦は、機動戦が中心だから、戦車や騎兵が活躍できる。新郷飛行隊の直協もある。迂回や突破をふんだんに用いた電撃戦になるだろう。
懸念は北方である。陽城の第33師団は、陣地正面の薫封を攻撃する。敵98軍を拘束し、敵15軍を牽制して、東と西への兵力移動を阻止する。百号作戦全体の中では助攻の役目だ。しかし、兵力は1個師団だけであり、敵15軍の動き次第では苦戦になるかも知れない。反撃を受けるとは思えないが、薫封西側の山地へ逃げ込まれると厄介である。
「なるほど。さすがに研究しているね」
「はい、まあ」
「我が河兵団の最左翼は翼城だが、もっと山中に入れようか」
「できれば、弓兵団との連結ですね」
にこにこと話していた清水が、突然、真顔に戻って囁くように言う。
「参謀長を呼ぶか?奥田少尉」
咄嗟のことで、清水の顔色が読めない。
「とんでもありません、閣下。参謀統帥はご法度であります」
清水は笑い出す。
「それに奥田は参謀でさえありません」
「そうか、残念だったね」
まだ、清水はにやにやしている。
「ま、師団の全力出撃だ。大隊の1個や2個、連絡が途絶えることもあるよ」
「・・・」
清水は、道夫の顔を見据える。
「そうならんように、しっかりと指揮統率に努める」
「はっ!奥田はこれで失礼します、閣下」
師団長室を出た奥田少尉は、司令部附きや通信隊の陸士同期を探す。
司令部内を通ると、あちこちで声がかかる。
「おう、奥田の弟じゃないか」
「真面目にやっとるか」
「寄って行け」
「兄貴の失敗話を聞きたくないか」
「あっはっは」
6時近くになって、ようやく、奥田が四郎たちのところに戻って来た。
用意された兵舎は、通信隊の隣の民家だった。石腹と頭城は大急ぎで炊事にかかる。夕飯を終えると、奥田は行李からウヰスキーを2本取り出し、四郎と二人で通信隊へ出かける。四郎のシベリア出兵の武辺話を肴に、同期生と一杯だ。みな、待ちわびている。
遅くなるだろうと、石腹と頭城は昨日の残りを取り出して拝む。これだけの兵隊が集結すれば、酒保はもう売り切れだろう。明日は、仕入れができるかな。二人は早めに寝た。
その頃、山西省の省都、太原市。
暖簾を下ろしたおたふくの2階では、ふくが荷造りをしていた。
「女将さん、本当に行くんですか?」
「行くの。だってもう、我慢できない」
「でも、任務中だと旦那さんが言われましたぜ」
「そうですよ、女将さん。奥田少尉さんも大丈夫だって」
「旦那さんと少尉さんが出張ってるんだ。大船に乗って待ちましょうや」
「行くの。彦さん、おかめさん、あとはお願いね」
「「・・・」」
彦三はおたふくの板長、かめは女中頭である。二人は夫婦で、もともとおたふくは二人の店だった。潰れかかって人手に渡ろうとしたとき、陸軍将軍閣下の肝いりでふくが買い取った。それから両隣も買い増して大きくなった。いや、人手に渡ったのには違いない。が、お願いしますと言われても、恩人を死なすわけにはいかない。
「はぁ」
「あんた、止めてよ」
「わかってるよ。女将さん、命は大事にしなきゃ」
「彦さん、わかってます」
「じゃあ、女将さん」
「でもね。生きてる間は精一杯やる、それも命を大事にしてることなの」
「そんな」
「みっともないかも知れないわね。ふふふ」
「命あってのものだねだ。女将さん」
「父さんがね、そう言ったの。ちょっといいでしょう。うふ」
「はい。いや、それは、あの」
「あんた!」
「そんなとこがいいのよね、父さんは。わたしも精一杯生きなきゃ」
「いけませんよ、女将さん。死んじゃったら」
「行くの。あたしが死んだら、彦さんとおかめさんで仲良くやってね」
「はい。いや、それは」
「え~ん。女将さん!」
その時、場違いな笑い声が起こる。
「きゃっきゃっ」
「「あれ?」」
「きゃっきゃっ、きゃっ」
「って、安安も連れて行くんですか」
「だって、私だけじゃ寂しいもの」
「しかし、物騒なんじゃ」
「まだ子供ですよ」
「行くの。あとはお願いね」
「「はぁい」」
翌日。
昭和16年5月2日。百号作戦-5日。
朝。
昨日使った車がそのまま今日も使えるらしい。石腹と頭城はご機嫌で、荷物を車に積む。もちろん、奥田の将校行李の重さなど気にもならない。
今日は、絳県の独立混成第9旅団司令部を訪ねる。絳県は最寄駅がなく、強いて言えば、昨日の候馬鎮か1つ先の東鎮だが、車の方が早い。曲沃から絳県は30km、東鎮から絳県までも、やはり30kmなのだ。
独立混成第9旅団は、秘匿名は「谷」、旅団長は池ノ上賢吉少将である。
池ノ上は陸士21期で、陸士では23期の清水第41師団長より2期も先輩だったが、少将になったのは清水より1年あとだった。つまり。
独混と呼ばれる独立混成旅団は、かなり特異な編成である。野戦軍の編制は、師団の下に2個旅団、1個旅団の下に2個連隊、1個連隊の下に3個大隊が通常である。しかし、独立旅団には連隊編制がなく、3個から5個の独立歩兵大隊を直接指揮下に置く。軍司令部から直接の命令を受け、師団の指揮下に入らない。独立の由縁である。所属する歩兵大隊も連隊の下に入らないので、独立歩兵大隊だ。独立歩兵大隊は大隊本部に歩兵砲中隊を持つ。工兵隊や通信隊も独自にもつので混成旅団だ。なかには野砲や戦車をもつ独混もあった。
作戦主務者にてとって、独混は使いやすく便利な作戦単位だ。もともと独混や独歩は、歩兵の数に対して火砲や工兵が多く配されている。これに、軍予備から機関銃隊、山砲隊、輜重などを増強すれば、通常の2個歩兵連隊よりも大火力で高機動の兵団が、司令部付きで出来上がるのだ。
独混の旅団長も、それを見越して、優秀な少将が配置される。歩兵以外の兵科も難なく使いこなし、火力と機動を活かして軍命令を達成できる。そんな優秀で独立心も旺盛な少将とは、たとえば、陸軍大学を出なくても将官に任官するような軍人だ。陸軍大学を出ないと将官には昇進できず、大佐どまりで予備役となるのが通例で、例外は非常に稀だ。しかし、なかには非陸大卒で少将になるものもいる。
「あっはっは。清水師団長がそう言ったか」
「えへへ」
「道夫もなかなか煽り上手になったものだ」
「伯父さん、それはちょっと」
「何を言うか、はじめからそのつもりだろう」
「いや、それは」
「それで、わしにも悪事の片棒を担がせるか」
「まいったな」
「わっはっは。ほれ、白状した」
百号作戦における独混9旅の役目は先鋒である。先んじて中條山に入り、敵軍の中央を突破する。24時間で垣曲を占領し、敵軍の黄河対岸への退路を断つ。絳県から垣曲までは、いちおうは自動貨車も通れる道があった。第1軍は、独立山砲兵1個大隊、兵站自動車3個中隊、それに無線電信2個小隊を増派してくれた。
「たしかに、南側には37師、36師の他に独混16旅もいる」
「はい」
「そうだな。わしも、まさか中将まではなれん。ぼちぼち予備役だろう」
「え?」
「よし、のってやる。絳県から垣曲の街道を確保したら」
「はい」
「北の山中に山砲を撃ち込もう。それでいいか」
「はい」
「もとから南には撃てん。銃撃はともかく、砲撃では同士討ちになる」
「はっ」
「奥田少尉、年を取ると独り言が増えて困る」
「はっ!奥田はこれで失礼します、閣下」
ドアへ向かう奥田の背に、池ノ上少将は怒鳴った。
「必ず陸大に行けよ。忘れるな!」
指定された兵舎に行って、荷物を降ろす。今朝の残りで昼食を済ます。
午後、それ!とばかりに、石腹と頭城は買い出しに出る。
奥田と四郎は、ゆるゆると絳県の城内を見物する。臨汾と違って、絳県はもう最前線である。時々、山の方から、ぽんっ、たっぽぉぉんと、銃声が聞こえる。
「始まってるんですか?」と、四郎が聞く。
「いや。この辺ではいつものことです」
「へえ」
「県城の中も安心できませんよ」
「え」
「敵さんだって食糧はいる。市場で買い出ししてるかも」
「ま、まさか」
「あっはっは」
「え、ええ」
「県庁に行きますか」
「はい。いや、え、えええ」