4 捜索 臨汾
昭和16年、4月30日。百号作戦-7日。
山口四郎と奥田少尉は、臨汾駅にいた。
臨汾県は山西省の南部にあり、太原からもやはり南である。南に行け、と言ったのはふくである。四郎は言われるままに、太原駅から南行きの列車に乗った。列車といっても狭軌の軽便鉄道に近いもので、かつ鉄道が走るのは昼間だけだから、4日かかって臨汾に着いた。
「いいのですか。奥田少尉」
「大丈夫ですよ」
「でも、参謀長は北に連れて行けと言われたのでしょう」
「そうだったかもしれません」
「え」
「最後に北から戻ればいいのですよ」
「ま、わたしは有難いですが」
奥田は南下に反対しなかった。四郎のシベリア出兵の武辺話が面白かったのもある。シベリア出兵は、日露戦争や青島出兵と違って、帝国にとって失敗した戦争だ。だから、出征した軍人もあまり話したがらない。四郎は主計での出征であるから、奥田には新鮮で興味深かった。
それに、まもなく百号作戦の発動である。四郎と一緒に北、大同や張家口の方に行ってしまえば、作戦には間に合わない。ここで、第1軍の全力をあげた作戦を見ない法はない。このまま、第41師団か第37師団に紛れ込んで、大会戦を観戦しようと、奥田は考えていたのだ。
日本軍にとって、臨汾県はなかなかの要所である。第41師団の司令部があった。憲兵隊分隊もいるし、臨汾特務機関もある。
奥田少尉は、律儀に、臨汾にある司令部と特務機関に申告すると言う。
(それは、まずいだろう)
四郎にとって、奥田の行動は相当に破天荒である。
「なあに。陸軍はね、ほとんど、うちの親戚みたいなもんです」
「はあ?」
「はは。あそこですね」
奥田にも考えはあった。たしかに、臨汾には第41師団の司令部があるが、開始間近い百号作戦で、今は曲沃あたりまで前進して留守のはずだ。同じく、憲兵隊や特務機関も、作戦で出るであろう捕虜の尋問準備や何やらで出払っているだろう。
実際、留守番をしている准尉や雇員に挨拶するだけですんだ。
「今度はどこですか?」
「県城に行きましょう。県顧問に会います」
「はあ」
「いや、ご子息の情報を仕入れるのですよ」
「はい」
「ここ臨汾から南端の運城まで、1週間で主な県城を回れます」
「1週間ですか、はう」
作戦開始の5月7日までに運城周辺に着く。それが奥田のねらいだ。運城には、第37師団の司令部のほかに、陸軍運城飛行場があり、作戦の間は第3飛行集団が常駐する。第1軍の野戦司令部も運城に置かれるだろう。つまり、すべての情報は運城に集まるのだ。
運城飛行場では、今日も天候のいい時を選んで、第3飛行集団隷下の99式軍偵察機が出撃していた。
第3飛行集団は、関東軍から2個飛行戦隊の増援があって、軽爆6個中隊、偵察3個中隊、直協2個中隊、戦闘機1個中隊に増強されていた。百号作戦では、ここ運城と河南省北端の新郷の2つの飛行場で運用される。
新郷から戦場の黄河北岸までは、中原と呼ばれる平原だから、任務は多岐に亘る。偵察や直協の銃爆撃だけでなく、航空補給もあるかもしれない。2ヶ月前の中支方面の錦江作戦では、弾薬を撃ち尽くした第33師団附属の山砲隊に空中投下を行った。その第33師団がまた出陣するというから、航空補給は大いにあり得る。
一方、運城飛行場から出撃する西側の戦場は、ほとんどが峻厳な山地であり、直協や補給任務は困難だ。飛行経路が限定される狭い山地の中では、銃撃や爆撃に同士討ちの危険が付きまとう。補給も投下できる平地が少ないし、下手に山麓に落とせば黄河まで転がり落ちてしまうだろう。物資弾薬も、運城は太原からの狭軌だが、新郷なら広軌の京漢線が使える。だから、軽爆機や直協機のほとんどは新郷に集結していた。運城には、偵察隊と若干の戦闘機だけだ。
その99式軍偵察機は、4月28日から連日、天候が許す限り出撃していた。予備機と合わせて2機の99軍偵は、第1軍参謀長の直轄機であり、他の任務には使用してはいけないと厳命されてある。99軍偵は、なぜか想定戦場のはるか北方、沁源の周辺を念入りに偵察していた。航続距離は1000kmほどだから、ここまで進出すると、やはり緊張する。緊張をほぐすには馬鹿話が一番だ。99軍偵は操縦員と偵察員の二人乗り、二人は伝声管で怒鳴り合う。
「たしかに、楽させてもらってるが」
「本任務専任トシ他用途ヘノ転用ハ不可トスベシ、です」
「その任務がなんだかな」
「そうですよねぇ。地文の異常を発見、報告せよとは」
「この間の件は、翌日に1升壜が届いたが」
「はっきりしませんな。反応はあるが回答ではない」
「まだ、山中の日本兵を捜索せよ、の方がすっきりするな」
「それはいい」
「「あっはっは」」
臨汾県顧問の石川修孝は、県庁の執務室にいた。
石川は、方面軍の特務機関に所属している軍属だ。占領軍は占領地に軍政を布く。北支那方面軍は、参謀長の下に特務機関を置いて、占領地行政を担当させていた。戦闘序列下の作戦部隊とは別だから、特務機関だ。建制では、方面軍参謀副長が軍政部長を兼任する。軍政部には、政治、経済、治安などの部署があり、これらがすべて方面軍特務機関に所属する。特務機関ではこの他に、情報・諜報・工作なども行う。軍政部は特務部とほとんど同一で、特務部は特務機関の一部ということになる。
だから、石川の場合、身分は北支那方面軍嘱託県連絡員、所属は第1軍参謀長附臨汾特務機関、職務は臨汾県顧問、待遇は高等官相当軍属尉官待遇。俸給は145円、それに加えて同額の機密費が支給される。さらに、保安隊1個中隊の指揮官でもあり、作戦行動では、臨汾駐屯の第41師団の指揮下に入る。
内地で応募すると、書類審査と採用試験があった。試験に合格したら、北京に送られ、新民塾で2ヶ月の教育を受けた。その後に配属されたのである。
「いや、たいへんなものですね」
四郎が知っている軍政と言えば、占領それだけである。
「事変も4年になろうとしています。占領も長期になると行政になるのですよ」
石川が応じる。
「そうなのですね」
「占領当初は宣撫班が出ます、前線なら従軍宣撫官です」
「はい」
「宣撫官の仕事が捗って住民が戻ってくれば、住民の有力者で治安維持会を組織します」
「ははぁ」
「次に県知事を起きますが、だいたいは治安維持会長がなります」
「なるほど」
「県知事は警察署長を指名し、警察隊を組織します。一般の職員も雇う」
「はい」
「そして、日本人の県顧問に保安隊の指揮を任せて、日本軍は前進する」
「日本人は、県顧問お一人ですか」
「そうですよ」
「それは豪気ですね」
石川は笑う。
「臨汾はいいです。西の方では、日本軍の駐屯がない県に半年いました」
四郎と奥田は居住まいを正す。
「いま、山西省では60県に県顧問がいます。全省の6割ということですね」
「たまには太原とか行かれますか?」
「いや、出張なら太原より北京です」
「え、北京まで?」
「県連絡員の本部があって、農事や作物市況、なんでも教えてくれます」
「そうなんですか」
「ここまでくれば、軍政ではなくて民政ですね」
「見かけはそうですね」
現実は、なかなか面倒なのだろう。石川は複雑な顔をする。
「民政と言えば、方面軍や第1軍では、鉱山を開いたり、工場を建てたりもします」
「へえ」
「臨汾にも、軍管理の麺粉工場があります」
「ほう」
「安定すれば、いずれ民間に払い下げることになります」
「なるほど」
石川は立ちあがり、部屋に貼られた地図を指でなぞる。
「この南の山の向うに黄河が流れていて、河南省との境になっていますが」
「ええ、中條山ですね」と、今度は奥田が興味を示す。
「そうです。その向こう側は、函谷関の険、峡があって流れが速い」
「箱根の山ですか」四郎が混ぜ返す。
「この辺りを占領してダムを作るそうですよ」
「はいはい。聞いたことがあります」
「なんでも、ここを堰き止めれば、西安はじめ陜西省が水浸しになる」
「ははは。黄河決潰の意趣返しですな」四郎は破顔する。
「よくご存知ですね」
「師団砲だか連隊砲だかの中隊長が言ってましたよ」
「砲兵科や工兵科の将校は土木技術者ですから」
給仕の少年がお茶を替えに来る。石川は上機嫌で、菓子も出してくれる。
奥田は、土産にチェリーの缶を持参していて、行く先々で配っていた。内地産の煙草は珍しく、ありがたい。
「そういえば、あの二人はどうしているかな?」
二人とは、太原から連れてきた二人の兵隊、四郎に指名された石腹兵長と頭城上等兵である。任務は護衛であるが、実際は荷物持ちだ。何が詰まっているのか、奥田の将校行李はひどく重かった。もちろん、四郎の背嚢も持たされる。四郎はふくから着替えやその他を補充したと見えて、こちらも相当に重くなっていた。
石川が給仕と話す。
「ああ、餡巻きを買って来させたそうですよ」
「それは、恐縮です」
「いえいえ」
機を見て、奥田は、石川からたくみに情報を引き出す。
県下、特に東側の山地での治安状況、共匪の出没頻度、駐屯部隊の出動回数、その戦果や損害などなど。臨汾の周辺は、汾河沿いの平野としては広く、山地までは距離がある。
その間、四郎は口を出さない。なにしろ五郎の命に係わるかもしれない。
奥田は、なかなか聞き上手だ。
「本当に、日本軍は鉄道沿いしか支配していないのですよ」
「軍司令部も理解しています。なにしろ兵力が不足です」
「県城や駅を外れると必ず襲われます。ほとんどが八路です」
「やはり、山西軍は出ないか」
「今回の大作戦ですが、共匪と聞いていたのですが」
「今の参謀長は、作戦参謀に押され気味でして」
「国府軍が相手となって、残念です」
「情報参謀は踏ん張ったのですが、力足らずでした」
「本当の脅威は共匪だと思います」
「わかってます。しかし、作戦参謀は初志貫徹でして」
「あ、ここは大丈夫ですよ」
「そうですか?」
「師団司令部もありますし」
「でも今は留守でしょう?」
「なに、野戦病院用の建物を用意するように命じられました」
「はあ」
「最前線に病院をおく、そんな間抜けな軍隊はいないでしょう」
「た、たしかに」
「だから、臨汾は後方。安全ですよ」
だいぶ日が傾いてきた。
だが、石川はまだ話し足りないようだ。よほど、話し相手に飢えているらしい。
「そうだ。宿はまだでしょう」
「あ、そうだった」
「みなさんは、県庁内に泊まったらよろしい」
「え。いいのですか」
「従兵さんには、保安隊の兵舎で、将校用の部屋を空けさせます」
「それはありがたいですが」
「いや、もう掃除させてますから」
「では、お世話になります」
「一緒に食事をしましょう。家内も喜びます」
「いや、そこまでは。いくらなんでも」
「遠慮はいりません、家内は料理上手ですよ」
「じゃ、食材はこちらで持ちましょう」
「いや。それでは」
「まあ、まあ」
奥田は表に出ると、声をかける。
「集合!石腹兵長、頭城上等兵!」
「はっ」
「はい」
「餡巻きはうまかったか?」
「え」
「げぷっ」
「夜は日本食を食わせてやる」
「やった」
「しまった」
「大和撫子の日本料理だぞ」
「「おおお」」
「金を渡すから、肉と野菜を見つくろって買って来い」
「「はいー」」
その夜。
四郎と奥田は、石川夫婦に日本酒も出してもらってご機嫌だ。
「いやあ、これはご内儀。お世話になります」
「あら」
「おお、きれいな方ですね」
「まあ」
「美人!」
「はぁい」
「やめて下さい。癖になる」
「あはは。事実は事実ですよ」
石川の妻女は、最後までとっておいた冷凍魚を奮発することにした。
「おお、うまいうまい」
「美味です」
「どうぞ、もう一杯」
「これはどうも」
「ははは」
「快々的」
「ジャワではね、指輪の事を××××と言うのですよ」
「あれー」
「「あっはっは」」
「それから茶碗のことは×××」
「いやーん」
「「あっはっは」」
お裾分けの石腹と頭城も兵舎で盛り上がっていた。酒も2合あった。もちろん、街で仕入れた合成酒は別に1升ある。二人は満期も間近い、賢い古兵なのだ。
「ぷぁーっ」
「久しぶりですな」
「おう、うまいうまい」
「やはり、日本料理ですよ」
「そうだな。おい、頭城」
「はい、なんでしょう」
「逃げ出さなくてよかったな」
「・・・」
深夜。臨汾県庁は闇の中だ。明かりは警察隊の事務所だけ。
コツコツ。時々、歩いているのは不寝番だ。
最後まで騒いでいた石腹と頭城の二人も遂に酔いつぶれたらしい。
これで、保安隊の面々もぐっすり眠れるだろう。
寝静まった兵舎の中を、影が1つ動いていた。
翌朝、四郎と奥田の出立に、石川は非番の警察隊と保安隊を整列させた。
警察隊と保安隊がつくる横列の中を、石川に先導されて四郎と奥田は歩く。様は閲兵だ。
「どういうことですか?」
「おそらく。石川さんは、私たちの顔を見させているのでしょう」
「え?」
「つまり、自分の客人だから覚えておけと」
「はあ」
よろよろと、石腹と頭城の二人もそれに続く。自分たちの装備のほかに、将校行李と背嚢を持っているのだ。
奥田の行李がかなり軽くなっているのに、二人は気づかなかった。