2 探訪 太原
昭和16年、4月。山西省。
第1軍の司令部は、山西省第一の街、太原にある。
百号作戦は、山西省南東部から黄河北岸に蟠踞する第1戦区軍の撃滅と決裁された。
2月25日と26日の両日、北京の北支那方面軍司令部にて参謀長会議が招集され、隷下兵団の参謀長が参集した。方面軍は、上級の支那総軍より第十七師団および第三十三師団を、さらに関東軍より飛行第32戦隊、飛行第8戦隊を、増援として指揮下に入れた。すでに兵団の移動は開始されている。飛行戦隊は、4月19日に飛来した。
実は、この参謀長会議に先立つ2月14日、支那派遣軍の方面軍・軍司令官合同が開かれている。総司令官の西尾大将から、昭和16年において支那事変を絶対解決す、との訓示があった。しかし、昨年9月の北部仏印進駐以来、参謀本部の関心は南方に移りつつあるようだ。昨年末からは、戦線整理や予算削減、つまり兵力縮小の話題も上がっているという。
この相反する事象について、第1軍司令官の篠塚中将は、参謀長の楠山少将と検討した。その結果、大規模攻勢ができるのは今回が最後ということで一致した。
推定される国府第1戦区軍の陣容は9個軍、およそ18万。これに対して、第1軍は西と北から、4個師、2個旅で攻撃する。このために第1軍は治安駐屯を一部放棄する覚悟だ。東からは方面軍直轄の2個師、1個旅が攻撃する。作戦の主眼は西方面での包囲殲滅だ。軍規模での包囲殲滅戦、それも二重包囲は陸軍創設以来の試みである。作戦参謀は最後の調整で忙しい。
情報参謀も、暗号活用の積極策に忙しい。国府軍の暗号はすでに解読されている。偽電・虚電を発信し、国府軍の統帥を混乱させる。また、それに対する返電や問い合わせ電によって、敵中枢と位置を特定する。決定的な戦果をあげる機会は今回しかないのだ。第1軍司令部は大車輪で、作戦の仕上げにかかっていた。
黄塵が吹くその日の夕方、一人の男が太原駅に降り立った。
男は、協和会服にゲートル、軍服のつもりか、腰には太いベルトを巻いている。背中に大きな背嚢を背負い、水筒を袈裟に掛けていた。左手には、長い包みを持っている。え。
突然、居合わせた客がさあっーと引いた。包みは刀袋で、中身は軍刀らしい。
「待てぇ、こら。そこの男」駅警護の兵が数人、駆け寄る。
「はい?」男が振り向く。50前後か?
「おお!」
男の顔は黒い上に、さらに黄塵と煤塵に汚れている。服から覗く首も手も真っ黒だ。とても日本人とは思えない。いや、支那人でもあるまい。
「怪しい奴め。その中身は何だ!」兵は着剣した小銃で小突く。
「これですか」といって、男はさりげな~く右手を包みに回す。
「ん~」釣られて、兵隊が首を伸ばす。
しゃっ。
「ひっ」兵隊の目の前に、抜き身の刃先があった。
「兵長。第1軍司令部に案内せい」
「えっ、えっ」突然のことに、隣の兵も動けない。
「山口四郎、3等主計正だ。復唱は?」左手で徽章を見せる。
3等主計正は、少佐である。
「あっ、あっ。山口3等主計正どのを司令部にご案内するであります!」
「よし!」
「ん?気のきかない奴だな」男は隣の兵を睨み、体を落とす。全身に殺気が漲る。
ばびばび。
「あっ、あっ。お荷物をお持ちするであります。3等主計正どの!」
「よろしい」軍刀を仕舞うと、途端に男の顔は柔和になった。
男は、案内する二人の兵、兵長と上等兵の後に続いた。
第1軍司令部の玄関に若い将校が出て来た。
「ああ、日本からの主計少佐どのだね。聞いているよ」
司令部附きの奥田少尉がそう言うと、二人の兵の緊張は一挙に解けた。
へろへろと、崩れ落ちる。
「あれ、どうした。しっかりしろ」
「われわれは、もう、いかんのであります」それだけ言うと、二人は気を失った。
「では、主計少佐どの。こちらへ」知らん振りで、奥田は客を案内する。
「おっ、それはシベリア従軍記章ですね?」
奥田は目聡い。男の胸に下げられた従軍章に気づく。
「はい。わたしにも若い頃があったということです」
「いえいえ。小官があるのも、先輩方のおかげです」
主計少佐の体からは、さきほどの殺気は全く消え失せていた。
「奥田少尉。今回は、お世話になります」
「とんでもありません。後で武辺話を聞かせてください」
二人は上機嫌だった。
来意を告げられた楠山少将は不機嫌だった。この忙しい時に参謀長を呼び出すとは。
(気をきかせんか)そう思って、奥田少尉を睨みつける。が、奥田は何にも感じていない、と見えた。
「少尉、本官は忙しい」睨む眼に、力を籠めたつもりだった。
「はっ。例の大作戦ですね」奥田の返答は、朗らかだ。
「げふん。ま、いい。で、紹介状は持っていたのか?」
「はっ。このとおりであります!」
楠山参謀長は、奥田から紹介状を受け取る。ごわごわ。
「あん?なんだ。青写真か!」
「なかなか、用心深い方と見受けました」
「ふん。貴公は、そんなことは気づかなくてもよろしい!」
「はっ。奥田少尉は細かいことはいいんだよとご指導を受けました!であります!」
室内の副官と従兵が眼を剥く。
「げふんげふん、もう。連れて来い!」
山口予備役3等主計正が入室する。敬礼を交わした後、山口と楠山が話し始める。
「山口四郎さんか。第1軍参謀長の楠山だ」
「楠山閣下、お世話になります。実は、愚妻が家出をしまして」
「はああ?」
「陸軍省の田中閣下に相談したところ、こちらに参れば解決すると」
「えええ?」
「愚妻は、実は、わたしの幼馴染でして」
「ななな?」
部屋の隅に屹立している副官と従兵は笑いをこらえている。
「待て。た、たしかに田中兵務局長の紹介状は見た」
「楠山少将閣下。実は、わたしは腰痛持ちでして」
楠山は、そこで初めて、二人とも立ちっぱなしと気づいた。
「失礼した。どうぞ」
「いいえ。恐縮です」
椅子に座った男は、じっくりと、順を追って、話し出した。
一時間後、楠山参謀長は、部屋を飛び出した。
楠山は、作戦室に逃げ込む。作戦室は、例の百号作戦で殺気立っている。楠山が入室しても、数人が敬礼しただけだ。ほとんどの要員は気づいてもいない、作業に没頭しているのだ。北原中佐も敬礼しない方の一人だった。
「こほ!」
「え?あああっ」
「・・いいよ、いまさら」
参謀長が、北原参謀を部屋の隅に誘う。
「実は、頼みがある」
「お客さんはお帰りですか」
「そのことだ」
「はあ」
「まだいる!」
「ひえっ」
「一時間も付き合ったが、話の半分も終わっていない。たぶんな」
「??」
「前任の田中少将の紹介状をもっておって、無碍にはできん」
楠山の前の第1軍参謀長は、陸士の1期上の田中隆吉少将だった。今は陸軍省兵務局長である。が、なぜか、頻繁に出張して来る。
「紹介と言うと、知人ですか。それとも縁戚?」
「そこまでは知らん。とにかく今は時間が取れん、わしも貴公もな」
「では?」
「ああ、適当に聞き流して、どこかに回せ。中原から離れたところへな」
「北ですね。了解しました」
「丁寧に、だぞ」
北原中佐が出て行く。
参謀長は司令官の高級秘書、参謀は参謀長の高級女中であり、部員は召使だ。驚くことではない、よくある話だ。山西省内の鎮圧はとっくに峠を越えている。点と線だが。それでも、一旗組の有象無象がひっきりなしに押し寄せる。普段はそうでもないが、今は大作戦の直前である。地方人には退散願おう。北原中佐は、参謀長室に向かう。
見送る参謀長に、矢部少佐が近寄る。
「地方人を北原参謀に任せてよいのですか?」
それは、第1軍司令部内でしか通じない言葉だ。
「わかっとるよ。しかし、北原参謀は初志貫徹だ。この場合は最善だ」
初志貫徹は地方語で言うと石頭だ、聞く耳持たないとも言う。矢部参謀は反論できなかった。
北原と山口、参謀長室で二人は、しばし睨み合う。ばちばち。
そして、同時に喋りだした。
「山口四郎さんですね。第1軍参謀の北原です」
「実は、愚妻が家出をしまして。名前は『ふく』と申します」
「参謀長から聞きました。息子さんをお探しとか」
「わたしはずっとジャワで仕事をしていたんですが」
「詳しくは言えませんが、ご子息は任務中でしょう」
「1年ぶりで帰国したら、愚妻がいない。家は売られている」
「兵営に居るときはともかく」
「いいえ、あれはわたしに惚れておりまして」
「任務で出動中は会えません」
「そっちの方はあり得ません」
「といっても、せっかくの田中閣下の紹介ですので」
「わたしも愚妻も、両親はとうに死んでおりまして」
「そのあとは、出先の長と折衝してもらうことになります」
「はい、愚妻の友達が言うには」
「だいたいが、異例中の異例なのですよ」
「愚妻は幼馴染で、ええまあ尋常学校の同級生で」
「軍務には機密がつき物でして」
「ああ、わたしは若いころから腰痛持ちでして」
「これは誰も変えられない」
「はい、その、あれになりまして。ええ、所帯を持ちました」
「わかります。それを思うと、わたしもつらい」
「それで、息子の五郎が生まれまして」
「帝国軍人の務めなのです」
「一粒種でしてね。ええ、可愛いもんです」
「すべては承知しました。お任せ下さい」
「それが陸士に入りたいと」
「ええ、わかってます。参謀長からは別途、連絡しておきます」
「なんですか、まあ、地元が熊本ですので」
「なにしろ、ここは前線です。事変の真っ最中なのです」
「陸士を卒業したまでは連絡があったのですが」
「ですので、紹介状も何とか考えましょう」
「それから、ずっと音沙汰なし」
「大丈夫です。全部手配しておきます」
「で、堪りきれなくて、愚妻が息子を探しに飛び出した」
「ああ、通行証は出しますよ」
「そういう訳で、ここに田中閣下の紹介状があります」
「それと切符ですね。はい、お預かりしましょう」
「・・・」
「・・・」
「当番兵!お客様をお連れしろ」
従兵は、笑いをこらえながら、主計少佐どのを連れ出した。
楠山参謀長が一時間かかってできないところを、北原中佐は10分足らずで済ませた。
「奥田少尉!今より山口予備役3等主計正の警護を命ず!」
「えええ?」
「面倒見ろということだ」
「つまり?」
「機密費をやる。もう、太原には近寄せるな!」
「諒解であります!」
「よし」
「奥田少尉は・・・」
「復唱よろしい」
「はっ」
もう夜である。北原参謀は時計を確かめると、暗い大通りを小料理屋に向かう。
太原の街は大きい。軍司令部があるので偕行社もあったし、ちゃんと畳を敷いた日本旅館がいくつもある。日本食堂や小料理屋もかなり増えた。
北原がよく行くのは、『おたふく』という新しい店で、なかなか乙な料理を出す。
「えーっへん、げふんげふん」
北原が店に入ると、十人近くいた客は慌てて料理を口に詰め込み、勘定をして出て行く。
「あら。中佐どの。いらっしゃい」
「おう。暇そうじゃないか」
店は、小料理屋と言うよりカフェみたいな造りで、帳場の中に女将がいる。着物に割烹着だ。内装や調度はなかなかである。
「ええ、まあ。どうぞ」
給仕の女子も十人ほど、年増から子供まで様々だ。
北原のテーブルには、いつもの通り、ビールと洒落た酒肴が並べられる。女給の小姐も可愛い。
「你好嗎。中佐ドノは、面白い方アル」
「我門一同遊。ま、小官の任務は頭が柔らかくないとな」
「きゃ、きゃっ。哎呀」
「飲んでみるか。あっはっは」
「あのね、中佐どの。息子が行方不明なの」
「家出か。穏やかではないね」
「そうじゃないの」
「それそれ。飲めるじゃないか」
「うちの息子は五郎って言うの。士官学校卒の少尉さんよ」
「そうか、同業か。・・・あれ?」
どっかで聞いたような話だ。
「女将さん、名前はなんて言ったっけ」
「中佐どの、何遍聞くのよ」
「いや、まあ」
「ふく。おふく、よ」
北原は頭を捻ったが、心当たりはない。
「それで『おたふく』か。あっはっは」
「ちょろちょろ」
「それっ」
「哎呀。くすくす」
「ふふふ」
「今日は派手にやるぞ!」
北原は参謀長から預かった機密費をピンはねして、奥田に渡したのだ。
「きゃっ、きゃっ。哎呀」
席は、盛り上がってきた。絶好調。
しかし、好事魔多しが世の中の常である。
北原が楽しんでいるところへ、ずかずかと奥田少尉が入ってきた。
「あれ?参謀どの!」
「きゃあ、オクダ、オクダ!」
北原の酔いが一気に醒める。(まったく無粋な奴だ)
「奥田ーっ。まだ発っておらんのか!」
「はあ。しかし」
考えてみれば、夜は列車がない。奥田の後ろには、例の男がいた。
「オクダ、オクダ!きゃっ、きゃっ」
「少尉はもてるなあ」
奥田を取り巻く少女たちを見て、四郎が呟く。
そこへ。
「あら!」
「おお!」
「お前さん!どげんしたと?」
「母さん、やっと会えた!」
「「「えええーっ」」」
『おたふく』の中は、全員が棒立ちになる。
「「「哎呀ー」」」