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1 駐屯 霍県

昭和16年。春。山西省。


山西軍閥の主は、閻錫山である。


閻錫山は孫文の辛亥革命に参加した。1912年に山西都督に任命された。日本に留学して、陸士を出た親日・知日派である。日本留学では蒋介石の先輩だった。


10年前に一度、反蒋介石の軍を起こしたが、張学良の裏切りで敗北した。中原大戦である。その時は満洲の大連まで逃れ、日本軍に匿ってもらった。庇護したのは関東軍参謀の板垣征四郎である。閻の陸軍士官学校時代の生徒付が板垣であった。翌年には蒋介石の国民政府に帰参した。


閻は、山西省の経営について独特の哲学を持っている。山西省主席で国府軍の第2戦区軍司令長官ではあるが、国府政府とも中共軍とも一定の距離をおいている。日本軍とも着かないが、離れもしない関係である。


閻の張学良と共産党に対する恨みは深く、かつ辛亥革命初期における日本の支援に対しての恩もまた深い。張学良が演出した国共合作に賛同してはいない。日支事変開始後は、山西への日本軍進撃に対して、基盤の鉱山・鉱業を無傷で残したまま、撤収した。閻の真意は奈辺にあるのか。山西省を独立させたいのではないか。それが、日本陸軍の解釈であった。


山西省は、鉱物資源が豊富であり、全省に渡り炭鉱と鉱山がある。特に北端の大同炭田は優良な石炭を産し、武漢の近く大冶鉱山の鉄鉱石と合わせて、日本が直接押さえておきたい鉱山であった。つまり、山西省は、日本の高度国防国家建設において不可欠の戦略的要地である。そのために、山西省とその主である閻錫山を影響下におくための様々な工作が表裏一体で行われていた。それは裏を返せば、山西省の主は今でも閻錫山ということだ。



参謀本部の作戦課では、昭和13年以来、山西省は日本の占領下にあることになっている。


現実は違う。日本軍は同浦線沿いの鉄道と県城を占拠しているに過ぎない。おおむね周囲5kmは巡回したり、哨兵を置いているが、それを離れると不明なのだ。山西軍と中共軍が入り混じって、隙あらば襲撃してくる。山西軍はまだよかった。首領の閻錫山は本気で日本軍に攻勢をかけることはない。しかし、中共軍は隙を見せると襲って来る。

共匪出没の情報に守備隊の大半が出動すると、手薄になった駐屯地をやられる。といって、少人数の討伐隊では、退路を遮断されて包囲される。出動しなければ、郷鎮の村落は解放区と宣伝される。


占領が進み治安が安定した県では、県知事配下の警察とは別に、軍特務機関の下に県顧問と保安隊も配置していた。しかし、中隊程度の保安隊では、大規模な共匪には太刀打ちできないし、もともと保安隊は県城の守備が任務である。治安模範県であっても、いやだからこそ、日本軍の駐屯と討伐任務は必要であった。最前線でもないのに、部隊を張り付けているのである。太原市でさえ、ある工場で欠勤が多ければ、すわ共匪の攻勢の前触れではないかと騒ぎになる。早い話、日本軍は手を焼いていた。


だいたい、山西省16万平方粁を担当する第1軍は総兵力5万名、1平方粁あたり0.3人に過ぎない。全土を守れるわけがないのだ。石太線や同浦線など鉄道沿線を2km幅で守るとして、やっと1平方粁あたり25人となる。つまり、横一列に並んだ場合の兵の間隔が40mだ。歩兵操典による、分隊のまともな防御態勢に近づいてくる。

これに対して、中共軍は攻撃正面に随意に兵力を集中することが出来る。1ヶ所に1個中隊200名が駐屯していないと、作戦が成立しない。本隊・本部との連絡路を確保する必要があるからだ。夜はともかく、昼間の連絡路を確保できなければ、弾薬食糧の補給が断たれて全滅は必須である。守備、防衛は事ほど左様に難しい。


挿絵(By みてみん)



山西省中南部、霍県東部の古老鎮には水田大尉の中隊が駐屯していた。


山西省にはおよそ百の県がある。県は古来からの行政単位で、日本で言うと郡か広い町にあたる。県の下には鎮、その下は郷か村である。税は県を単位にまとめられる。第1軍は、鉄道沿いの重要な県に大隊単位で駐屯するように、麾下の兵団に指導していた。霍県の県城に大隊本部がある。


毛澤山が水田中隊の駐屯地に来てから3ヶ月になる。

毛は守備隊の苦力である。毛は山西軍の兵士だったが、昨年の戦闘で捕虜になった。まだ子供じゃないかと助命され、代わりに苦力をやらされている。毛澤山という名前も、面白半分に日本兵がつけたのである。

共匪の討伐は連日続いていた。4個小隊を3直で回していた水田中隊も、相次ぐ損害で、遂に実働は3個小隊を切った。水田大尉は、「もうたくさんだ」とぼやくと、第4小隊の残存を3小隊に割り振ってしまった。

その日に捕虜となったのが、毛であった。力仕事も炊事もするし、守備隊が討伐に出る時は、荷駄かつぎや道案内、時には通訳代わりもする。戦力不足の水田中隊で、毛の占める役目は大きかった。

「その内、三八サマを持たせられるぞ」そう言って、兵隊たちが笑った。

(望むところだ)毛は心中で呟いたものだ。


守備隊の中には、脱走をほのめかす兵が一人いた。大学を出ているのに、甲幹も乙幹も志願しようとしないので、周りの兵隊からいじめられていた。このままでは、満期がきても上等兵になれないだろう。鈴木栄太というその一等兵は、毛と二人きりになるとたどたどしい北京語で、マルクスやエンゲルスを説いた。つまり、鈴木はアカなのである。


「君は本当は中国共産党のスパイなんだろ」鈴木が、言う。

「・・・」

「君は山西軍と言い張ってるらしいけど、このあたりは八路軍しかいないよ」

「・・・」

「実家の様子を見に来たとか、下手な嘘だね」

「・・・」

「八路軍ならすぐ殺されると思って嘘ついたんだろ」

「・・・」

「僕は知っているんだ。君が外と連絡を取っているのを」鈴木の目つきは異様だ。

「・・・」

「ねぇ。君も知ってるとおり、僕は大学を出ているんだ」

「・・・」

「歩兵操典どころか、作戦要務令や軍機の統帥綱領だって暗記しているんだよ」

「・・・」

「僕はアカだ。だから、中隊本部の当番兵をよくやらされる」

「・・・」


鈴木は監視されていた。それには、中隊本部が都合がいい。誰だって前線で、後ろから撃たれたくない。つまり、鈴木は味方から信用されていないのだ。毛は聞こえない振りをする。


挿絵(By みてみん)


「ねぇ。僕たちは同志だ。そうだろう」

「・・・」

「僕は中隊本部で、旅団司令部の作戦命令書を見たよ」

「!」

「ふふ。今、動いたね。僕の言葉は伝わっているんだ」

「・・・」

「君の上長は知りたいんじゃないかな?」

「・・・」

「君も僕を連れて帰れば、手柄になるのじゃないのかな?」

「・・・」

「もう、僕は限界だ。中隊では総スカンだよ。耐え切れない」

「・・・」

「君を売って、乙幹に志願すれば、僕の待遇は改善されるのだよ」

「!!」

「もちろん、そんなことはしないよ。同志だもの」

「・・・」

「ねぇ、君。僕を中国共産党に連れて行ってくれないかな」

「・・・」


毛も気づいていた。鈴木は錯乱しつつある。そうなれば、毛自身も巻き込まれる。水田中隊を逃げ出すべきだ。逃げたい理由は、もう1つあった。中隊配属の朝鮮人通訳の存在である。


通常、守備隊には、1個中隊あたり一人の通訳がつく。

通訳はだいたい朝鮮人である。水田中隊にも一人通訳がいた。文光世という名で、軍属の服に軍刀を下げている。曹長待遇である。なんでも、朝鮮の京城あたりの出自がいいらしい。つまり両班、士族である。本当かどうかは知らない。

毛は文が嫌いであった。だいたい、漢族は朝鮮族が嫌いだ。属領のくせして、いつのまにか、日本人として威張っている。支那人の上に立ったつもりなのだ。軍刀は、安い昭和刀で切れないし、剣道の覚えもないだろう。それでも、痛いだろうから、言うことは聞く。


毛は知っていた。水田中隊の出動が続くのは、文のせいである。成績を上げるために、通訳の文が共匪の出没情報を仕入れてくるのだ。中隊には、文のほかに支那語がわかる人間がいない。だいたい支那では省が変われば、言葉はほとんど通じない。支那語がわかるとは、数種類の地方語がわかるということなのだ。

文がもってくる情報は、ほとんど当たった。中隊は出動のたびに、なにがしかの戦果をあげた。小銃を数丁か機関銃を1丁、あるいは捕虜を数名。しかし、小銃は古いものだし、軽機は壊れていた。弾薬もなかった。捕虜の中には良民証を持った者さえいた。でたらめのでっちあげだ。毛は感づいていた。定期的に視察に来る臨汾特務機関の政治班長とつるんでいるらしい。


文も毛に対しては、気を許さなかった。


「毛、だいぶ待遇が良くなったじゃないか」

「・・・」

「言っておくが、俺は気を許していないよ。お前は捕虜なのだ」

「・・・」

「余計なことをするなよ」

「・・・」

「日本人に支那語はわからない」

「・・・」

「漢文を支那語と思っているんだ。おかしいだろ?」

「・・・」

「日本人は漢文は知っているが、支那語とは別物なのだ」

「・・・」

「そんなこともわからないで、支那を征服とはお笑いじゃないか!」

「・・・」

「え?いっしょに笑えよ」

「・・・」

「毛澤山とは、いい名前じゃないか。日の輝く大人物か?」

「・・・」

「まったく。支那人にはもったいない。不埒で不遜だ!」

「・・・」

「そうだろう」

「・・・」

「お前をいつも見張っている。何かあれば、ほら」そう言って、軍刀を抜いて見せる。

「いつでも斬ってやるからな」

「・・・」

「あっはっは」

「・・・」


くやしいことに、文の話す支那語はよくわかった。

毛は逃げ出す算段を考えた。捕虜になった時の傷も癒えたし、体力ももどった。勿論、鈴木は連れて行かない。危険すぎる。毛から見ても、鈴木はだめな兵隊だった。体力の戻った毛について来れないだろうし、言葉も通じない。なにより、毛より上のつもりだから、言うことも聞かないだろう。足手まといになるだけだ。


その考えを変えたのは、日本から補充兵が到着したからだ。おそらく守備隊に変化が起きる。日直や当番、出動時の編制が組替えになるのだ。それは、毛がつけこめる隙になる。

ある日の戦闘で、毛と、鈴木一等兵、それに補充兵の合わせて三人が行方不明になった。




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