終 中原会戦
昭和16年6月。北支。
第1軍司令部附きの奥田道夫少尉は、百号作戦の戦訓報告書をまとめていた。
運城の第1軍司令所には、すでに北原作戦参謀も矢部情報参謀もいない。司令所要員は全員、太原の司令部に帰任した。この司令所も数日のうちに、運城駐屯の第37師団司令部に返還されるだろう。
奥田自身も、扉前で立哨している頭城上等兵も、今日の午後に運城飛行場を撤収する第3飛行集団の輸送機に便乗して太原に戻ることになっていた。
「また飛行機に乗れます」
頭城は屈託のない笑顔を見せる。
「ああ。今度は落下傘は不要だろう」
奥田も笑顔を返す。
「それはそれで、不安でもあります」
「「あっはっは」」
奥田少尉は作業に戻る。
百号作戦は赫々たる戦果を挙げた。間違いない。敵の国府第1戦区軍18万に対して、第1軍および北支那方面軍直轄兵団、合わせて10万弱の兵力で圧勝した。敵に与えた損害は、捕虜4万弱、遺棄死体4万強。これだけで敵兵力は半減である。戦傷者を加えれば、動員された敵兵の8割は軍隊に復帰できない。まさに、敵軍は壊滅した。
対するに、我が軍の損害は戦死673名、負傷2,292名である。
異色なのは、敵指揮中枢の損害である。判明しているだけで、敵軍長が2名、師長が5名、参謀長と高級参謀が5名、それらの将官が戦死か捕虜となっていた。佐官を含めると3桁になるだろう。我が軍の攻撃は、実に、的を得ていたのである。
それは事前の情報収集だけでなく、作戦中の戦術諜報の成功であった。
戦術諜報については、特筆されなければならない。上は軍偵察機による戦域偵察、下は密偵による敵軍指揮班や司令部の位置と兵力移動の監視。
それらの情報を我が指揮官の戦術判断に足るように整理し、提示する技能。そして、我が戦線・戦域のすべてに渡って遅延なく展開できる通信技術と組織。
ただしく、前の軍参謀長の投資は活かされたのだ。
(あ、前参謀長を出すのはまずいかな・・)
(いや、金がかかるということも入れておきたい)
頭城上等兵が、時計を見て宣言する。
「少尉どの。時間であります」
「ああ。なんとか梗概はできたよ」
「自動貨車を回していただきました。例の日産八〇型です」
「そうか。久しぶりの太原になるな」
「では」
「うん、行こう」
奥田少尉が出た後、頭城はしゃがみ込んで部屋の中を見渡す。ごみ箱の中も点検する。塵屑に混じって、くしゃくしゃになった図絵があった。汗で流れた箇所もあるが、まだ判読できた。
(こんなことを考えておられたのか)
(実戦は少し違ったが、たいしたものだ)
今、少尉に対する頭城の信頼は揺るぎない。即座に図絵を細かく引き裂く。それから、将校行李を抱えた。驚くほど軽かった。
奥田少尉は、便乗した97式重爆撃機の中から中條山を見下ろす。
運城飛行場を飛び立った97重爆は、今、夏県の上空にさしかかったところだ。塔の高地が見える。毛家山も馬村も見当がついた。頭城上等兵も食い入るように見入っていた。97重爆の後部機関銃のあたりは、そこそこ長い偵察窓となっている。それはもちろん上空見張りのためだが、機長は機体を傾けて視界を確保してくれた。
「「あれ?」」
「陸軍に機体の余裕はない。沁水爆撃には参加したぞ」
(げげっ)
「軍機だ、口外無用」
「「はっ、は!」」
奥田は考える。順調に進展した百号作戦だが、ある一点で画睛を欠いていた。民間人の乱入と、それによる混乱である。後になって、政略の一部だと説明されたが、奥田自身は納得できない処があった。
中共軍根拠地に潜入する五郎とは、連絡は維持されていた。潜入の当日は、第3飛行集団の運城進出の日にあたった。五郎が空に向けて打った38歩兵銃からの彩色弾を、第3飛行集団の99式軍偵察機は見逃さなかった。それからも、その99軍偵は、五郎に指示された密偵の連絡を逐一視認して、運城の軍情報部に上げた。
事が起きたのは西正面が掃討戦に移る頃だった。五郎がソ連連絡員と交渉を終えて、沁源の中共根拠地を脱出した後である。
ここで、奥田少尉は逡巡する。
(何て書けばいいのだろう)
百号作戦が終盤に入った5月19日。
奥田はまだ陽城の東にいた。第36師団を誘導して来たのだ。これでは、明日までに岳陽には着けない。唇を噛む奥田の目の前に、99軍偵が着陸した。奥田と頭城は2機に分乗した。
ここまではいいだろう。その後、岳陽の上空で、背面飛行から落下傘降下したことも、ま、戦訓といえば戦訓になる。
しかし、会合場所が燃えていて、原因が山口四郎にあることは、書いてはまずいだろう。四郎が火をつけたのは、中共軍が隠匿していた阿片であるとも書けまい。どさくさに乗じて、ドラム缶数本の粗製モルヒネを奪取したこともだ。誕生会のたの字も書けない。
山に篭っていた中共軍主力がぞろぞろと、沁水北部の平地に現れたことはどうだろう。沁水爆撃で、少なくない中共軍と国府軍が壊滅したのは報告しないといけないところだ。しかし、中共軍が誘引された原因が、阿片と安安にあったことは、書けない。もちろん、ソ連赤軍連絡員との密会もだ。
奥田は決心した。
2部編成に分けよう。5月19日岳陽から22日の沁水、それに続く追討戦は別冊にする。そして、本編には、民間人や麻薬の記述はしない。そのあたりが落としどころだ。
奥田少尉は、目を上げる。乗機している97重爆は、すでに沁源を過ぎ、太原へ転針したようだ。まもなく降下に入るだろう。
奥田には感じるところがあった。
沁水爆撃後に、奥田は運城の司令所に召喚され、前線との連絡を禁止されていた。奥田が『中原会戦』という耳慣れない作戦名を聞いたのは、6月に入ってからだった。でっきり新しい作戦かと思ったが、中原会戦とは百号作戦のことらしい。参謀本部で、そう呼称しているという。
中原とは、古の国都である洛陽から下流の黄河流域の平原で、つまり華北平原のことである。百号作戦の戦域は中條山を中心とした山岳地帯であり、中原にはあたらない。わずかに東正面の初動、孟県と済源が中原と言えた。
参謀本部は山岳作戦を喧伝したくないのか。百号作戦での第1軍の戦闘は、山岳歩兵のそれであった。絶壁の垂直登坂や峡谷の簡易架橋を実験した部隊もいる。百号作戦の成功によって、参謀本部は奇襲山岳作戦への自信を確固としたはずだ。それを、平地での会戦と呼称しようとしている。
つまり、重慶作戦の秘匿か。数々の日支講和の試みがすべて失敗した後、帝国が日支事変を解決するためには、国府軍の本拠で臨時首都である重慶の、占領または包囲が欠かせない。少なくとも、重慶近傍に戦線が必要だ。重慶周囲は峻厳な山岳地帯だから、作戦は山岳作戦となる。
すると、北支方面軍は関中作戦か。それから漢中、閬中へ。
奥田の思考は重慶へと跳ぶ。
綏遠省。
アレクセイは、カーチャの村に向かって歩いていた。
奥田から紹介された接触先は、満洲ハルビンに駐屯する第24師団の根本博師団長だった。元北支那方面軍特務機関長の根本中将との面談に、アレクセイは満足した。
いよいよ、一家の立ち上げである。
アレクセイは、村の入り口で、身嗜みを整え、贈り物を確認する。よし。
ところが。
驚いたことに、カーチャの家の前に、上司のセルゲイ中佐が立っていた。
渡された紙片を見て、アレクセイは声をあげた。
「ダァティ、シトォ!」
昭和16年6月22日、ドイツ軍は独ソ国境を越えて、ソ連領へ侵攻した。独ソ開戦である。
LN版東條戦記前史1「中原会戦余聞」完