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10 異変 臨汾

昭和16年5月10日。百号作戦+3日


朝。臨汾、県城。


四郎、ふく、安安、石腹の4人は、一昨日から臨汾県顧問の石川の客になっていた。


四郎は石川の愚痴に付き合っている。

方面軍より、小麦の統制価格での一括買上げの通達が出ていた。しかし、統制価格が実勢と乖離しており、県内の商人たちは買上げに応じない。どうすればいいか、わからないという。強権で買上げを実施すれば、反感を買うのはもちろん、次回から収穫された小麦は隠匿されるか、よその県にまわされるだろう。最悪の場合、敵対勢力の手に渡る。石川は大卒とはいえ政治学部で、経済や実業には疎った。


「では、お手伝いしましょうか」

「え。軍を説得できるのですか?」

「それは無理です」

「あ、やはり無理ですか」

「まあまあ、そんなに焦らない」

「はあ」


四郎は考えた。方面軍の統制経済の方針は変えられない。価格自体も今回はもう無理だ。であれば、通達の適用を工夫することだ。主計の知見と、爪哇での商売の経験から、思いあたることはある。


「思うに、統制価格は生産費用の積み重ねです」

「はい」

「ところが、実勢価格は市場での相場でしょう」

「なるほど」

「つまり、2つが一致することはありません」

「だめなのですね」

「なあに。ここからですよ」


そう言うと、四郎は、石川が持つ資料を見せてもらう。

臨汾特務機関に毎月提出する月報は、石川の部屋に保管してあった。書棚の中に年月順に並べてある。月報の基本となる調査記録の綴りもあった。他にも、山西省の地誌や政治経済学の本などもある。項目ごとにきちんと整理されていた。

四郎は、『臨汾県農村慣行調査』と書かれた冊子を手に取る。


「これはなんでしょうか?」

「ああ。それは昨年の満鉄の真似事です」

「へえぇ。満鉄調査部ですか」

「はい。河北省と同じようにやってみました」

「おお。これはいい」

「まだ、1つの村だけですよ」

「これだけあれば十分です」


四郎は、石川から帳面と鉛筆を借りる。そして、ぶつぶつ言いながら冊子をめくり、帳面に書きはじめる。さらに算盤を借りると、なにやら計算をはじめる。


「支那の算盤は七玉だが、問題ない」

(えっ)

「昔は、日本も七玉だ」

(ひっ)

「よし、思った通りだ」

「だ、だいじょうぶですか?」

「なんとかなりそうです」

「まだ30分も経ってませんが」

「まずは、小手調べですよ」

「はあ」

「その商人たちを呼んでおいてください」

「わかりました」

四郎は、ぶつぶつ言いながら、また算盤をはじく。



数時間後、県知事室に商人たちが集まった。

四郎が黒板に実勢価格を書くと、商人たちがにっこりと頷く。

「「「好、好了」」」

「これは天津渡しの価格だ。臨汾渡しなら汽車賃は要らない」

汽車賃と、それを差し引いた価格を書く。

「「「是、是的」」」

「さらに、臨汾での苦力代と倉庫代が要らない」

倉庫代と、それを差し引いた価格を書く。

「「「是、是的」」」

「さらに・・」

四郎は、経費を1つずつ宣言し、価格から差し引いていく。

商人たちは、1つ1つ吟味するが、適正だから文句はつけられない。

「それから・・・」

商人たちは、どんどん減っていく価格を不安そうに見つめる。

「最後に・・・・」


ついに、価格は、方面軍の統制価格より低くなった。

「「「哎呀ー」」」





挿絵(By みてみん)



5月10日。百号作戦+3日

午前。運城。第1軍戦闘司令所。


百号作戦の進捗は順調である。


西正面では、第1軍直轄の兵団は昨日までに、所定の部隊がすべて黄河河畔に達していた。外側包囲網と内側包囲網も堅固に連結され、中條山の完全包囲が完成している。包囲網は、直径およそ50kmの円形で、円周は180km。第36師団が西正面戦線から離脱したので、包囲する日本側は2個師団、2個旅団のおよそ3万。包囲された国府軍は4個軍、8個師のおよそ8万だ。


敵国府軍兵力は日本軍の3倍に近いが、特情によれば、指揮系統が混乱している。中條山山中を突進した各兵団の挺身隊が、国府軍の第3軍と80軍の司令部中枢を蹂躙していたのだ。司令部を壊滅されては、組織的に対応できない。山中の兵力は、残った17軍か43軍の司令部の下に再編成するしかないだろう。が、もちろん、その時間をあたえるつもりはない。



東正面では、混成機動団が竜王窩を突破し、黄河対岸への渡河点をほとんど抑えた。

済源を抜いた第21師団は封門口に達し、その左翼には第35師団が並んで、敵9軍を封門口から官陽の戦線まで追い詰めていた。すでに片翼包囲の形勢である。


黄河南岸との渡河点はすべて奪った。増援しようにも、黄河南岸の第1戦区軍の兵力は2個師の2万強しかない。これで黄河を渡って橋頭堡を築くのは無理だろう。せめてもの、対岸から砲撃してくるが、逆に新郷飛行隊の反撃を招いていた。そして、西正面から分離された第36師団が、追い詰められた敵9軍の背後を突こうとしている。東正面も二重包囲の体勢に入った。



第1軍戦闘司令所は、明日からの追撃戦に向けて部隊配置を終えたところである。

「補給はどうなっている?」

「軍直轄輜重隊が垣曲の10km先で渋滞です」

「自動貨車では無茶だろう」

「ただ今、兵団の駄馬隊に積み替え中ですが」

「何を今更。矢部参謀!」

「はっ。輜重は既に隘路に入っております」

「わかっとる。それで?」

「兵団と挺身部隊は多数の捕虜を抱えております」

「むぅ。捕虜がいたな」

「はっ。今朝の集計値が五千を超えております」

「自動貨車で150台か!」

「はいっ。北原参謀」

「言っていいぞ、澄田。早く言え」

「輜重隊は、現時点で接触できる部隊大行李に対して補給品を全量引渡し・・」

「おいおい、言ってくれるな」

「しかる後に各部隊の捕虜を受領、速やかに後送のこと」

「兵站輜重兵隊本部は?」

「垣曲の独混9旅本部にいますっ」

「なるほど。矢部少佐、澄田を手伝ってやれ」

澄田大尉は、兵站後方担当の要員であった。

「はっ。了解です」

「書類は手を抜くなよ」

「はっ、はいっ」

そばで、太田准尉が笑っていた。





挿絵(By みてみん)



夕方。臨汾県城。


「「あっはっは」」

「ああいう手もあるのですね」

「統制価格さえ守られれば、方面軍はそれで良しとする筈です」

「ええ、そうですとも」

「集荷、運搬、保管をすべて軍でやらせればいいのです」

「なんとかなります。駐屯部隊とは懇意にしていますから」

「肝心なのは、ついでにやらせることです」

「はい」

「警備や宣撫のついでなら、伝票は要らない。伝票がなければ、軍の出費とはならない」

「そういう理屈なのですね。わかりました」

「1回は通用しますよ」

「2回はだめですか」

「2回目は袋詰めや梱包、3回目は刈り取りを兵隊にやらせればよろしい」

「射線や視界の確保のついでにですね。なるほど」

「この先、買上げ量の目標が出るかもしれません」

「あっ、あり得ます」

「その時は・・」


しばらくの間、四郎と石川は、方面軍の統制策の出方を論じた。

北支那方面軍は、いままでの放漫主義から、全面的に統制主義に切り替えるようだ。それまでは、帝国の予算で占領地を経営していたのである。しかし、事変も丸4年を迎えて、帝国の予算も資源もずいぶんと窮屈になったらしい。支那占領地の中でも治安が安定している筈の北支は、経済的な自活と余剰物資の納入が要求されている。


石川には否も応もない、もともと方面軍嘱託の県連絡員なのだ。北支に着任して3年になるが、たしかにずっと、塩とマッチをはじめとした日用必需品が、宣撫用として潤沢に支給されていた。

北支では、穀物不足の時は中支や南支から買い入れていたらしいが、事変以後は供給が減り、さらに日本軍が大量に買い付けている。北支へ融通する余剰はないという。

そこで方面軍が、主に仏印や暹羅などから米を、豪州米国から小麦を購入して流通させた。もちろん、内地からも供給している。宣撫と治安維持のためだが、費用は軍持ち、つまり帝国から持ち出しである。それを、これからは自給せよ、余剰を差し出せと。まあ妥当なところだ、今までの分を返せといわないだけでもありがたい。





挿絵(By みてみん)



昭和16年5月11日。百号作戦+4日


夜明け。西正面、中條山。


黄河河畔に分駐していた各兵団の挺身隊が一斉に進撃を始めた。これから3日かけて、中條山を北西に向けて縦断し、出会う敵軍を追撃する。横に並んだ各部隊は、歩調を合わせて北西に進撃し、山中の国府軍を徹底的に殲滅するのだ。終点の北西山麓では、第41師団と第37師団が、追われて下山してくる国府軍を待ち構えていた。


兵は、再び山中に入る。

撃ち尽くした小銃弾も、雨で腐らせた糧食も補給をうけた。負傷兵は輜重隊や兵站自動車隊により捕虜とともに後送された。昨日の午後は各部隊ともに休養がとれている。第37師団中挺身隊の松本大隊長も、まだ歩けないが、籠に担がれて同行し、部隊の指揮をとっていた。戦闘司令所では、各挺身隊の位置把握と、友軍・飛行隊との調整に、これから忙しくなる。




昭和16年5月12日。百号作戦+5日


東正面、邵源。


国府軍第9軍は壊滅し、邵源は陥落した。入城した第21師団、第35師団、第36師団の3師団長が握手をする。ここに、西正面と東正面は連結された。

これから3つの師団は、残った敵93軍と15軍を追って北上する。第33師団の薫封攻撃を背後から支援する形勢となる。第35師団が中軍、36師が左翼、21師が右翼となる。




昭和16年5月13日。百号作戦+6日


北正面、董封。


5月7日以来、第33師団の猛攻をしのいでいた敵98軍が、後方山中の横河に撤退を開始した。軍長の武士敏中将が戦死したという。第33師団も連隊長が戦死していた。攻撃開始から一週間、ついに薫封は陥落した。師団長の桜井中将は、横河手前の山麓に陣を敷くと、左翼に対し第21師団と連絡するように命令した。


司令部の情報によると、横河背後の山中には、敵3個軍、5個師が残っている。敵第9軍の残兵を入れるとまだ6万はいるはずだ。1個師団の兵力で山中へ進撃するのは無謀である。友軍が背後から攻撃しているから、こちらへの圧力は逆に強くなる。兵力不足はどうにもならない。陣地を構築して、司令部の指示を待つのが正解だろう。





挿絵(By みてみん)



午後。臨汾、県城。


臨汾には、野戦病院があり、作戦開始の翌日8日から戦傷者が後送されて来ていた。所属師団に関わらず、また独混や輜重の負傷者も運ばれて来る。中には憲兵に連れられた敵将校の姿もあった。石川の妻女もふくも安安を連れて、8日から手伝いに出ている。

四郎は、相変わらず、石川の愚痴につきあっていた。


「やはり、小作料が大変なのです」

「どこも農民は変わらんのですな」

「なにせ、税金は県知事の思うまま。小作料は地主の思うまま」

「たまらんですな、それは」

「それで、農民は芥子の栽培に走ります」

「芥子とは、阿片のあれですか」

「はい、芥子の栽培は簡単なのです」

「そうなのですか」

「しかし、阿片の製造は大変です」

「へえ」

「阿片、生アヘンは、芥子の果実に一つずつ傷をつけます」

「そこから滲み出る樹液を集めるのですね」

「ええ、1つ1つ、気が遠くなる手作業であり、多くの人手が要ります」

「あれ、たしか調査書には大家族は少ないとありましたが」

「そうなのです。小作農は、夫婦と子供だけの小家族です」

「では、家族総出で何日もかけて?」

「間に合いませんから、苦力を雇います」

「あああ」

「それで、駆り出された苦力にはアヘンで給与が払われる」

「なっとりませんな」

「まったく、なっとらんのです」


「うまくいかないものですね」

「支那人のほとんどが文字を読めない」

「だが、中華のプライドだけは高い」

「どうやって、それを統治します?」

「学校と法律。それが新民政治というのでは」

「迂遠すぎます。間に合いません」

「ではどうやって?」

「支那人を統治するには支那人です。支那人になるしかない」

「ええ?」

「支那文化に従う、支那の文化を受け入れれば支那人なのです」

「では、元や清と同じように?」

「そうして、支那の統治機関をそのまま使えばよろしい」

「それでは、変革も何もできない。何も変わらない」

「そうです。恐ろしく保守的なのですよ。中華という思想は」

「孫文や蒋介石の辛亥革命は?」

「呼称を変えただけです。所詮、中身は中華です」

「支那の文化で支那人になれとは。日本人には無理だな」

「そう、日本には無理です。そこが満洲と違うところですねぇ」

「ふぅむ」

「いや、わたしは仕事ですから淡々とやりますよ」


二人とも議論に夢中になり、のどが渇いてきた。

「どうです。少し早いですが」

石川が、右手で輪をつくり口に持って行く。

「おお。いいですね」

四郎は、もちろん大賛成だ。二人は、疾風の如く部屋に引き上げる。



あっという間にビールの空き瓶が並ぶ。

日本男児が二人だから、酒が進むと話題は天下国家となる。

四郎は、相当に酔ったようである。

「あれだ。石川さん」

「げぶっ。ああ、はい。なんでしょう」

「新民政治というが、ほんとうに必要としているのは本邦では?」

「帝国の?内地がですか」

「うむ。不在地主、地代の金納・・」

「・・小作料の適正化、自作農の養成」

「すべて内地の農家が欲求しているものだ」

「農林省では検討していますよ。同期生から聞きました」

「ならば、本邦でこそ。なぜ、やらん!」

「支那では無理ですか!」

「そう言ったのは君だ。読み書きができず、プライドの高い保守性」

「なるほどね」

「う~む。いかん、いかんぞ」

「奉公するなら、内地でこそ」

二人は立上り、肩を組む。

「「やらねばならん。やるぞーっ」」

「「きんしかがやくにっぽんの~♪」」



がらがら、どーん。

突然、石腹が飛び込んで来た。汗びっしょりである。

「しょ、少佐どの。た、大変です!」

ぐおー。二人とも酔いつぶれて寝ていた。

「なんてこった!」

「おふくさんと安安ちゃんが攫われました!」

ぐ、ぐおーっ。二人とも高鼾である。

「わわわ。どうすれば?」



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