序 山西省
昭和15年。北支。
北支那方面軍は、山東、山西、河北、河南、綏遠の各省と内蒙古を担当する。司令部は北京にあった。第1軍、第12軍、駐蒙軍の他に、直轄の師団・旅団を数個と第3飛行集団を隷下に置く。第1軍は山西省を担当する。
黄河平野の西の山地が山西である。遠くチベットに端を発した黄河は、はじめ綏遠省に向かって北東に流れる。包頭で向きを変え、山西省とその西の陜西省の境となって南に流れる。潼関で西からの渭河と合流すると東へ流れて、それから河南省との境となる。合流して勢いを増した黄河は、深い渓谷を形成する。洛陽のあたりから、ようやくその流域が平らになる。華北平原、すなわち中原である。
山西省は、東に太行山脈、西に呂梁山脈の2つを抱えている。2つの山脈の間を汾河が北から南へと流れ、黄河に合流する。汾河に沿った盆地に街があり、鉄道が通っている。全省が黄土高原で、乾燥しており、春先は黄塵に埋まる。黄塵は、風がなければ霧のように滞留し、風が強いと砂嵐となる。季節風にのって高く舞い上がり、北京や天津、さらに遠く日本の九州にまで届く。すなわち黄砂である。夏の暑さは激しく、冬はオンドルを入れるほどに寒さは厳しい。
山西省に日本軍が侵攻したのは昭和12年、支那事変勃発の年である。
昭和12年10月、北支那方面軍隷下の第5師団は山西省の北、大同より進撃を開始した。国府軍は太原の北、忻口鎮で迎え撃つ。戦いは、板垣師団長にとって意外な苦戦となった。山西省の東から進撃して来た第20師団は、これも娘子関で頑強な抵抗にあった。11月4日になって、ようやく国府軍は退却を開始した。第5師団が山西省の省都太原を占領したのは11月9日だった。太原作戦である。
翌、昭和13年の3月、日本軍は山西省全土を占領した。
この間、日本軍に抵抗して山西の防衛にあたった国府軍は第2戦区軍で、司令長官は閻錫山。撤退して、山西省の西部山地から陜西省にかけて雌伏している。兵力は昭和13年の撤退時で20万、現在の全貌はわからないが、およそ40万か。実は、第2戦区軍は閻錫山の私兵であって、山西軍とも言う。
その傍証に、麾下のはずの中共主体の第18集団軍、すなわち八路軍は東部の山地にも篭っている。総司令官は朱徳、総兵力は40個師団、20万という。
昭和15年の8月になって突如、八路軍は、山西省各地で一斉に攻勢に出た。攻撃目標は主に鉄道各線、そして鉱山の破壊であった。奇襲は成功した。山西省を守備する第1軍は大混乱に陥った。第1軍は国府軍の暗号解読に成功しており、それによれば攻勢の兆候は見られなかったからである。9月になって、第1軍はようやく反撃を開始し、12月までに一応の静謐を見た。八路軍の言う百団大戦である。日本側の反撃は、晋中作戦と呼称された。
百団大戦の影響は大きかった。敵に奇襲を成功させた、それが北支那方面軍と第1軍にとって一番の衝撃であった。北支那方面軍司令部は、情報収集の重点を中共と八路軍に移す。第1軍参謀長は、鉄道や鉱山、村落にはトーチカや塹壕などの陣地構築を命じた。また同時に、共産党軍の暗号解読を指令した。共匪に対する掃討作戦は、区画割りによる計画的、徹底的なものになった。蚕食作戦である。
北支那方面軍は、昭和16年の年度目標を中共軍撃滅とし、百号作戦を企画した。
方面軍の大部をもってあたる共匪殲滅戦である。しかし、第1軍で具体化に入ると、問題が出てきた。山西と河南の省境、黄河の北岸付近に陣取る国府軍第1戦区軍の存在である。兵力は、合わせて18万か。第1軍の総兵力の3倍以上である。いままで5倍の支那軍に対抗できた実績があったが、無視はできない。
第1戦区軍は蒋介石直轄の部隊である。中共嫌いの閻錫山の第2戦区軍と違って、戦意は高い。全軍で共匪討伐を行えば、山西省の南部が大いに不安である。まずは、この黄河北岸を叩くべきではないかと作戦参謀を中心に声が上がった。昨年の晋中作戦、百団作戦への反撃で共匪は大打撃を受けている筈だ。共匪殲滅を優先すべきだとする情報参謀も、不安は同じである。第1軍の逡巡は、方面軍の作戦課・情報課に上げられ、さらに参謀本部の情報部・作戦部に上げられた。