前編
真っ白な世界。薬品やアルコールの独特な匂いと誰かのうめき声だけが広がる世界。動かない感覚のない足と、いつまでも続く全身に走る痛みを堪えるだけの、そんな生き様な僕。
何年か前、突然飛び出してきた車に弾かれ、両足の麻痺からこの真っ白な世界での生活が始まった。
事故の前では味わった事のない無気力で怠惰な生活をさせられ、諦めたようなまるで人形を見るような目で僕を見る両親や周りの人達に「まだ大丈夫」などと心にもないことを言われ続け、いつしかその人達も僕の事を忘れてしまい今ではこの病室に一ヶ月に一回だけ来る両親以外の誰かが来る事は無かった。
そして、一ヶ月前に申告された全身の末期ガン。生きれてあと一ヶ月らしい。
こんなに痛くて寂しくて苦しいのならいっそう弾かれた時に死んでおけばよかった。
そう頭によぎった時には、手首に付いているチューブを手に掴んでいた。
これさえ抜いてしまえば――……。
そう手に力を込めた瞬間だった。
コンコン。
そんな乾いたノックの音がこの真っ白な世界に飛び込んできた。
最初は両親かと思った。ただ、その両親は丁度昨日のこの時間に着たばっかりで、次は来月に来るはずだった。つまり、このノックはその他の誰かになる。
頭で何度も回答を探している内に、ドアが音を立てて開き、その次に入ってきたのは看護士さんに車椅子を押されている女の子だった。
「こんにちは、今日からこの病室のお世話になる、崎本恵です」
彼女は笑顔で無表情で力のない僕の顔を、その輝いた目で見ながらそう言った。
何年かぶりの他人だった。挨拶を返そうとも声が出ない。話の仕方も、挨拶の仕方すらも、僕は忘れてしまっていた。そんな様子の僕を看護士さんに車椅子を僕に近づけてもらいながら心配そうに窺った。
「あの……?」
寂しそうで、どこか不安そうな彼女の声は僕の脳に衝撃を与えた。
僕は知らずの内に口を開いていた。
「多野祐樹」
そんなそっけない自己紹介でも、彼女――崎本恵はまた笑顔になって「よろしくね」と元気に返事を返してくれた。
彼女も下半身が麻痺している、と聞いても無いのに看護士が僕に言う。
どうも彼女は学校の階段で友達に冗談で押されてそのまま転げ落ち、打ち所が悪く、そのまま下半身が麻痺したらしい。
どうにもふざけた内容だったが、どうも本当のことらしかった。
「ははは、どんくさいよね」と照れながら力なく笑う彼女に僕はまたそっけなく「そうだね」と返すことしか出来なかった。
僕にはもう彼女のように生きる気力も感情も無かった。そのため彼女が余計にまぶしかったのだ。だからこそ、突放すような無機質な返事しか返せない。
その後の会話は無く、彼女と看護士は一旦この真っ白で何も無い広い病室から出て行った。入室の最終受付と、あとはベッドなどの荷物を運ぶ作業があるらしい。それも聞いても無いのに看護士が言っていた。
その日から病室は騒がしくなった。
当日の夜にはベッドが僕のねるベッド隣に運び込まれ、荷物を置く棚なども一緒に備えつけられ、彼女の受け入れる準備が完了し。
次の朝、目覚める頃には彼女が隣で僕の顔を覗いていた。
「おはよう、多野君」
僕が目を覚まし、何時もと雰囲気の違う病室に戸惑っていると彼女が挨拶をする。驚いたが、別段と行動を取るわけでも無く、昨日と同じくそっけない声で「おはよう」と不機嫌に挨拶を返す。
その後は何時もどおり、看護士さんにトイレに連れて行ってもらい、その後に朝ごはんを食べ、その後にまた病室の窓から外を見る。
隣に居る彼女が何を言おうとも無視を決め込み、ぼーっと窓を見るのはどうにも落ち着かなかった。
こんな真っ白な世界に他の誰かが居るだけでこんなにも居心地が悪くなるのはこれで初めてだった。
両親がここにこようと、別になんとも無いし他の人達が居ても別になんとも思わなかった。だけど、隣にいる彼女だけはそうじゃなかった。
僕がいくら無視しようともいつも元気に彼女が話し掛けて、一人で話を進めて。そして「また明日ね」と一日が終わる。
そんな日々が続いたある日。僕が始めて彼女の言葉に返事を返した。