無二の忠臣
「陛下には私を惹き付けるものがあったのです。全てを賭しても良いと思わせるものが」
後世で無二の忠臣と謳われた宰相。無能と言われていた王子時代から献身的に王に仕えた男の実像とは――
それはあまりに突然だった。流行病による国王と王太子の相次ぐ死去。
降って湧いたこの事態に王宮は震撼した。貴族や官僚達は悲しみに体を震わせ、溢れる涙を止める術を持たない。来る日も来る日も哀悼の声が絶える事はなかった。
だがそれも所詮外面を取り繕う為のかりそめ。
国葬が終わった瞬間、彼等はひた隠しにしていた野心という名の牙を剥く。
後継者に指名されていた王太子は国王の後を追うように病に没し、王位は空白になっている。
最高権力者の不在。今この時においては道理を無視しようが人道に背こうが問題にならない。
自身の栄達の為、野心家達は都合の良い王子の後ろ盾となり権謀術数を練り上げる。
権力の象徴であり、その荘厳さで見る者を圧倒した白亜の宮殿は瘴気を放ち陰謀渦巻く伏魔殿と化した。
王族に与えられる離宮の一つ。その一室で男は己が仕える王子と会っていた。
「第二王子と第三王子の衝突は時間の問題かと。勝った方が後継者争いの最有力になりますが、ここは高みの見物に徹するのが上策でしょう」
「……」
男の報告を聞いているのかいないのか、王子は口の周りや服の袖を汚しながら肉料理を頬張る。
「で、お前の言う通りにすれば勝てるんだろうな?」
「無論、道のりは困難でしょう。ですが私は粉骨砕身の覚悟で望み、必ずや殿下を王にしてみせます」
「ふん、当たり前だ。お前は僕の臣下なんだからな」
それでも男の言葉に気を良くしたのか王子の声は弾んでいる。そして脂肪でたるんだ顎を摩りながらゲップを漏らす。
「では、まだ仕事があるので私はこれで」
「次に来る時はもっと楽しい報告を頼むぞ」
離宮から出た男は改めて現在の状況を確認する。
王と王太子が身罷った後、母親の身分が低く幼い頃に大公家の養子になっていた第二王子が王位に就く事を宣言。
これに対して王家から出た者に資格はないと第三王子が異議を申し立てる。
教会に入っていた第四王子が静観の姿勢を見せ、後継者は第二、第三王子のどちらかだろうと思われた時、情勢を読まず割り込もうとしているのが男の仕える第五王子の派閥である。
はっきり言って勝算は薄い。候補者の中で第五王子が一番王位に遠い。生まれの順番もそうだが、人生の成果にも違いがある。
大公家の跡取りとして既に為政者としての実績を見せている第二王子、大貴族出身の母の伝手を利用して強力な後ろ盾を複数得ている第三王子、積極的な奉仕活動で平民の人気が厚い第四王子も王位に手が届く位置にいる。
彼等に引き換え第五王子はどうだろう。
彼は何もしていない。他者に実力を誇示し、味方に引き込めるような成果は何一つない。王になってからの展望もない。母親や外戚に甘言を吹き込まれて自尊心を肥大化させ、自分こそが王に相応しいと勘違いした道化だ。
男は直前まで向かい合っていた王子の姿を脳裏に浮かべる。
贅沢好きの浪費家。
醜く肥え太ったその有り様はまるで豚だ。いや、綺麗好きで美味な肉を提供する豚と比べるのは豚に失礼か。
性格も合わないと男は思う。
甘やかされて育ち、何もせずとも与えられるだけの生活に疑問を抱かない。傲慢で不遜だが、それでいてしばしば身分が下の者へは慈悲を見せる。
傀儡にするべく愚かに育てた周囲の人間に問題があっただけで本質的には善良なのだろう。
余裕のある優雅な生活で培われた人格。貧しい家に生まれ同輩に軽んじられながら学院で学び、後ろ暗い手段で他者を蹴落とすのが許される苛烈な競争社会を生き延びてきた男には腹立たしさを通り越して殺意すら覚える。
それでも男は王子に仕えた。
男は己の大半は功名心や自己顕示欲で構成されていると理解している。
世に名を知らしめ、歴史書に偉人として永久に残す。その為だけに短いながらも人生の大半を費やしてきた。
だが男は他者からの喝采だけでなく自己からの称賛も求めた。
有能であったり清廉な人間の下には自然と優れた人材が集う。彼等が成功するのは必然だ。
であるなら自分が関わる意味も薄い。
自分の面倒さえ満足に見られない無能を支えて結果を出してこそ誉れとなる。持てる能力を最大限に発揮したという達成感が欲しいのだ。
そういう意味では第五王子は男にとって最高だった。
今も「役に立たない王子に代わって派閥を維持する健気な自分」という陶酔がある。
名誉こそ全てだ。名声に包まれる事は温かいベッドで眠る事より、極上の料理を食べる事より、絶世の美女を抱く事より、遥かに心地良い快楽を与えてくれる。
また他の陣営では出世が難しいという即物的な事情もある。
男は自分が優秀だと自負しているが、国内で最高峰の人材が揃う王宮内で突出しているとは思わないし経験の面では劣っている。そんな中で立身出世は困難だろう。
けれど支援者の少ない第五王子の派閥なら勝利の暁には宰相の座も夢ではない。もし叶うならば平民出身者では歴代最年少の宰相。
全身を蕩けさせる様な甘美な響きに男は表情を綻ばせる。
現状、第五王子の立場は脆弱の一言に尽きる。
どの陣営と争っても一蹴されるに違いない。しかし、だからこそ取れる方針もある。
貴族や政情に敏感な商人の間では第五王子は不器量な人物ともっぱらの噂であるが、これの一部には男も関わっていた。
与し易しと他陣営を油断させる為の一策である(そんな王子に口答え一つせず献身的に尽くす股肱の臣であると自信の評判を高める意味もある)
積極的に倒す必要のない弱小勢力。その風評を利用して状況を座視しつつ最後には王座を掻っ攫う。勝つにはこれしかない。
第二王子と第三王子は放っておけばどちらかが潰れる。
同じように様子見をしている第四王子についても、敬虔な信仰の代わりに世俗的な欲望を胸に抱いた聖職者がしきりに即位を促していると聞く。
この事は後継者争いに関わっている者なら誰もが把握しているだろう。両者を煽って衝突させるのはそう難しい事ではない。
栄光と破滅がかかっているのだ。どの陣営も不安と猜疑心が強くなっている筈だ。
立場を脅かす可能性は、可能性の段階でも排除したいに違いない。
敵との争いを繰り返す内に味方にも疑惑の目を向けてくれればなお良い。一度でも策略や謀殺に手を染めれば二度目以降は心理的抵抗が薄くなり躊躇をしなくなるものだ。
この敵同士を潰し合わせるやり方を用いると、平民に向けて第五王子は醜悪な権力闘争に関わらなかった純真な人物であるという演出が出来るのも利点だ。
男にとって世評は重要。これの為なら命を投げ打っても構わない。
王子は浪費家だが邪魔な親族を取り除けば財政に悪影響を与えない程度の散財で済む。商人や職人の歓心を買う為と割り切れば許容範囲内。
親族がいなくなれば幾らか矯正も出来るだろう。自分が表舞台にいる間は無難に統治してもらいたい。
無能を支える忠臣というのが好みだが、暗君を成長させた名臣という評価も快い。もし仮に、後世において「保身の為に諫言が出来なかった臆病者」という評価が下されるかと思うと身の毛がよだって発狂しそうになる。それだけは避けなければならない。
「……一世一代の大博打だな」
最初から最後まで綱渡りだ。最悪の場合は命すら失うだろう。それでも策を巡らせるのが楽しくて仕方ない。
男の思考の一部は既に成功した未来を夢見ていた。
失敗は恐れない。
死ねばそれまでだし失脚したら田舎に引っ込んでそこの子供に勉強でも教えればいい。
政争に敗れて落ちぶれた男がそれでも何かを成す。平民が好きそうな話だ。
その場合は碌に教育制度のない辺境が望ましい。遣り甲斐がある。
恍惚感に身を浸らせながら男は王宮に歩を進める。
血みどろの後継者争いを経て王国は新たな時代を迎えた。
即位したのは多くの予想を裏切り、末の王子。その原動力になったのは一人の男だと皆が口を揃えた。
しかし、生まれの順が遅く愚鈍で有名だった王子に何故ひた向きに仕えたのか。誰もが疑問に思う所である。
ある時、遂に一人の官僚が問い掛け、これに対して若き宰相はこう答えたという。
「陛下には私を惹き付けるものがあったのです。全てを賭しても良いと思わせるものが」