牡丹雪
原稿用紙三枚のショートショート。「雪椿」と連作です。
天龍寺の鐘が夜明けを告げる。
清市朗は床をそっと抜け出して外の様子を窺った。夕べからの風は治まったようで物音一つ無い。
窓の外では、牡丹雪が灯りの消えた丸提灯に吸い込まれるように消えて行く。手早く支度を済ませようと薄くなったメリヤスの上から筒袖と袴を着け、方々に向く散切髪を押さえながら急な階段を下りた。
「お足もとに気をつけて」
客を送りだす番頭は、とうに顔馴染みとなった。
見世を一歩外に出ると辺りにはうっすらと雪が積もり、踏むと氷を割るような音がする。曇天を見上げ、舞い散る雪を受け止めていると、
「また、会いに来てください」と背中から澄んだ声が響いた。
二階から、身なりを整えた玉菊が見送りに出てきたのだろう。清市郎は軽く頭を下げたものの振り返りもしない。
「これをお持ちに」
白張りの番傘を翳されたが、細い指先を振り払い、そのまま逃げるように見世を後にした。
恩ある方の娘が何故こんな所へ、と内藤新宿を訪れて既に一年。
玉菊と名乗るようになった菊枝に向かって、いつも同じことを口にする。
「必ず、自分が迎えに来ます」
いずれは身請けしようと必死に蓄えても、少し纏まれば花街へと通い詰めてしまう。
目の前にいるのは菊枝だ、無下に手折るのはいけないと言い聞かせても、赤い灯に照らされた玉菊の笑みは艶然として恋しさが募るばかり。
白い手を差し伸べながら「全てをなくした女です」と呟くので、まるで別の女を見ているような気さえする。
花街から帰る時はいつも、玉菊に溺れ、いつまで経っても菊枝を救うことのできない不甲斐なさに唇を噛むのだ。
新宿駅に着くと立襟マントは白く凍り付いていた。払いもせずに人けの無い客車へ乗り込み窓辺に座る。
このまま雪に埋もれれば、浅ましい思いを凍らせることができるだろうか。
ならば、と汚れたガラス越しに灰色の空を見上げ、はらはらと散る牡丹雪が止まないことを願う。
空を眺めるうちに、ふと白い指先が舞い散る雪に重なったが、清市郎は気に留めずに朽ちかけた屋敷へと帰って行った。