読書感想文「野菊の墓」
「野菊の墓」
夕立が去った後、若い男女が乗った自転車が私の前を通り過ぎた。高校生と思われる二人は、共にびしょ濡れで、後ろに乗った女の子の背中にはブラジャーの線がくっきりと映っていた。その時の情景が潜在意識としてあって、暫くして小説『野菊の墓』を手に取った。
作者、伊藤左千夫は千八百六十四年に生まれ、四十九歳で没している。当時の平均寿命は四十五才であり、野菊の墓は千九百六年、彼が四十二歳の時の作品である。
野菊の墓は、「民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている……幼い訣とは思うが何分にも忘れることが出来ない。……そんな訣から一寸物に書いておこうかという気になったのである」と、矢切の斎藤家(斉藤家?)を舞台にした政夫と、従妹(年上であるから従姉)である民子との恋愛について書かれている。
この作品は明治のものであるが、今の時代の未来を暗示しているように読める。
第一に、封建的な大家族の家から解放され、現代は個人尊重の核家族時代であるが、家族の絆が希薄になってきている。反面、若者の失業などから、効率的な相互扶助が注目されるようになり、大家族の温かさなど世帯主の経済力が頼りにされている。そこでは老人の位置、介護などの問題が、その延長線上にある。
第二に、性の解放である。昔は、親の言い付けで、顔を見たことも無い人と結婚することも珍しくなかった。今の時代はお見合いでも無く、恋愛結婚でも無く、出来ちゃった結婚だそうである。「そんなの当たり前じゃん」と言われ、唖然とする私は化石人間かも知れない。サッカーでも女子が先に世界一になり、女が強いのか、男がだらしないのか。不思議なことに、そんなこんなで若者は結婚しない。最近は快楽を求めるだけでなく、癒しを求め、人との結び付きを大切にする若者が増えている。民子は肉食系女子ではなく、人を愛しむ優しさを持っている。〈民さんは野菊というよりは、撫子のようだ〉
最後に物質文明と精神文明について考える。今の時代は、ご存じ大量生産大量消費の時代であり、物も心も使い捨てである。この文明に無理が来ているというか、制度疲労が感じられる。そのなかで「エコライフ」とか「リサイクルライフ」が見直されている。携帯電話を握りしめ、目を腫らしているのも便利さ追求で悪くはないが、茄子畑で汗をかいたりすることも「いきている」充実感があるはずだ。「――月あかりが斜にさしこんでいる道端の松の切株に二人は腰をかけて休む。――
しばらくは無言でぼんやり時間を過ごすうちに、一列の雁が二人を促すかの様に空近く鳴いて通る」などの情景は、憧れという以外に言葉がない。物も大事だが、未来は自然や心をもっと大切にする時代になるであろう。
そのむかし、若かった私にも恋の無精卵がある。同じ空の下、同じ街に住んでいることとは思うが、別れて以来、彼女とは一度もあったことがない。おそらく結婚して子供を産んで、幸せな人生を送っているであろう。月日が経ち、私は『結婚をして長らえている』。『余儀なき』という訳ではなく、平均的な幸せを感じている。何かの折に彼女を思い出すことはある。しかし、『物に書いておこうかという気になった』と、いう程のものでも無い。
書斎(書斉? やはり書斎)でセミの声を聴きながら思う。〈人生の中で、このような未成熟な思い出を一つくらい持っていてもいい〉、と。
自転車に乗った二人の無邪気な笑顔を思い出す。彼らはおそらくクラスメートであろう。二人の関係は、政夫と民子のようなものかも知れない。「しかし何というても二人の関係は卵時代で極めて取りとめがない。人に見られて見苦しい様なこともせず、顧みて自らやましい様なこともせぬ。従ってまだまだのんきなもので、人前を繕うという様な心持は極めて少なかった。」
つまり、二人の関係をあれやこれやと詮索することは失礼であるからして、私は昔読んだことのある恋愛小説を、再び読んでみる気になったのである。