遠景
風向きが変わった。先ほどより少し冷たい風が僕の頬を撫でた。暖かくなってきたといっても、屋上の壁を背に座っているにはやはりまだまだ寒い時期だった。金網の向こうでは、杉の木が来る季節に備えて小さな黄色い花をつけている。下から聞こえてくる生徒の歓声が大きくなった。おそらくサッカーだろう。 長いホイッスルの音がグラウンドに響き渡った。
「髪、さ」
ホイッスルの音が聞こえなくなったのを待って僕は切り出した。
「染めたんだな」
「うん」
上坂は煙草を地面に押し潰すと、ずれ落ちた右側の靴下を指先で直した。
「ピアス付けてるの始めて見たよ」
「そう?」
どうやら今日は機嫌が悪いらしい。煙草を吸うペースはいつもよりずっと早くて、意味も無く百円ライターをさっきから弄っていた。
「あの、さ」
歓声がまた一段と大きくなった。どちらかがゴールを決めたようだ。再び長いホイッスルが響く。
「今日、機嫌悪い?」
「別に」
新しい煙草に火をつけて彼女が言った。
「悪くなんて無い」
「そっか」
どう見たって上坂は機嫌悪そうだった。無表情で自分の口先で燃える煙草を見ている彼女を横目に、僕は小さくため息を吐いた。こんな気まずい空気になるなら、高校生活最後の授業を真面目に出席していた方が利口だった気がする。
「やっぱ嘘」
上坂がゆっくりと煙草を吹かす。吐き出した煙はすぐに見えなくなった。
「少し機嫌悪い」
「そっか」
「機嫌が悪いって言うより」
上坂が少し俯きがちに呟いた。
「嫉妬してるかも」
「嫉妬?」
尋ねてからもう一度小さく「しっと」と呟いてみた。
それでも僕には嫉妬という言葉と上坂を上手く結びつけることが出来なかった。僕は彼女が誰かに対してこだわりを持つとは思っていなかったし、実際に彼女はそうだった。その上坂が嫉妬しているという。
真っ先に誰にと疑問に思った。でも僕と彼女とで共通の人間などほとんどおらず、今まで彼女が他の誰かの事を話題にしたことは一度もなかった。それらを踏まえて考えると、対象は自分しかいない。けれど僕には彼女に嫉妬されるようなことをした覚えは無かった。
「そういえば大学受かったんだって?」
そして話題は唐突に切り替えられた。
「うん、まあ一応」
上坂に何の意図があってこんな質問をしてきたのか僕には分かりかねた。
「第一志望じゃないんだけどね」
こんな事で嫉妬するような人間じゃないだろうと思ったけれど、それでも僕は慎重に話し始めた。一年ほどサボり仲間をやっているけど、上坂は掴み辛い人間だし、自分のこともあまり喋らない。
知っているのは機嫌が悪いときの仕草や、あまり化粧をしないこと、そのくせやけに甘ったるい香水を使っていることぐらいで、上坂の内面的なものを僕は殆ど何も知らない。
「受かった所には多分行かないよ。だから第一志望の結果次第では、卒業式の後にまた受験が待ってる。最悪浪人っていうのも悪くないけどさ」
「受験生ってのも色々大変なんだな」
そう言って彼女は少し笑った。
苦笑みたいなものだったが、今日始めて上坂が笑ったのを見て、僕は少し安心した。さっきまで二人を包んでいた嫌な緊張感が少しずつ溶けて始めていた。
「上坂は、さ」
「ん?」
「これからどうするの?」
僕はなるべく何気ない口調を心がけ、視線を空の方へ向けながら尋ねた。
「これからか」
上坂も僕と同じように空を見上げた。穏やかな空だった。水彩で描いたような淡い青色で広がる昼下がりの空は、少し早い春の訪れを予感させた。
「しばらくはサービス業に勤しむんじゃないかな。その後は、多分適当に結婚でもするんだろうけど……」
サービス業という言葉に、僕は少し胸が痛んだ。
「まあ、そんなに先のことはわかんないよ」
乾いた笑いだった。僕のよく知っている笑い方だった。本当に、心の底から楽しそうに笑う上坂を僕は見たことがない。多分これから先、死ぬまで僕はそんな笑顔は見ることは出来ないだろう。
「そっか」
それからは二人とも黙りだった。この屋上だけ世界から隔離されたような、そんな気分だった。下から聞こえる生徒の歓声も、今にも消えてしまいそうな薄い雲も、ずっと遠くの景色の中にあるように思えた。そういう奇妙な錯覚の中に、僕と上坂がいる。崩れかかった積み木みたいな雰囲気を持つ彼女がいる。初めて会ったときと何ら変わりの無いその危うさが、今はひどく虚しく見えた。
「一つ聞いていい?」
言って、僕は上坂の方を見る。
「ん?」
「サービス業ってさ……」
「援交」
風向きがまた変わった。
「売春とも言う」
「そっか」
「もしかして知ってた?」
「何となく」
「誰から?」
「風の噂」
冷たい風が吹きぬけていった。同時に溶けかかっていたはずの嫌な緊張感が再び二人の間を支配した。
「なあ」
「何?」
「どれくらい稼げるの? 援交って」
上坂は僕を一瞥すると、視線を虚空に移した。
「変なこと聞くんだね」
「そう?」
上坂は少し笑うと、咥えていた煙草を地面に押し潰した。それは瞬く間に、つい数秒前まで彼女の口先で赤く燃えていたとは思えないほど無残な姿になった。
「この話をすると大体の奴は軽蔑する。中には同情するか、哀れんでくれる奴もいるし、少し出来た人間だったら優しい言葉の一つや二つ吐いてくれるんだけどね」
上坂が髪をかき上げると、遠慮がちにピアスが光って揺れた。その輝きが本物なのかどうかは僕にはわからなかった。
「いきなりどれくらい稼げるか聞く奴なんて始めてだよ。藤田なら絶対に同情して、優しく慰めてくれると思ったんだけどなあ」
乾いた笑いは、いつもよりもずっと虚勢を張っているように思えた。
「優しくしないのも優しさなんだよ」
「それ、経験談?」
「そう」
僕は少し笑った。
「まあ、失敗談なんだけどね」
何でそんなことしているんだ。そんなことはよくない。やめたほうがいい。親からもらった体なんだから大切にしろよ。ちゃんと真面目に働いたほうがずっと充実した人生になるよ。
仮に僕がそんな言葉を並べたって、きっと上坂には何一つ響かない。上坂に限らず、他人の薄っぺらな上辺と世間体だけを取り繕ったような慰めに、逆に苛立ち反発するか、受け止めるふりをして流してしまう人の方が多い。そういう人達にはそういう人達の住む世界があって、そこにはそこの理論や常識がある。
大手を振って渡り歩いている、大人の理論や常識が通用しない世界があるのだ。それは僕がまだ都会にいた時の経験でわかったことの一つだった。
「残念だなあ」
上坂はさほど残念そうではない口調で呟いた。口には新しい煙草が咥えられていた。
「やっぱりあんた結構いい奴なんだね。最初はただの優男だと思ってたんだけどな。最近になって気づいたんだよね。もしかしたらこいつ中身は結構いい男かもって。本当残念だな。顔がタイプだったら絶対付き合ってた。うん残念、残念」
「不細工な面でよかったよ」
そう言って僕は笑い、彼女は笑わなかった。
「やっぱ一年じゃわかんないね」
彼女は言った。
「人ってさ」
「そうだな」
吐き出された煙が風に乗って、僕の方へ流れてきた。
「転校生?」
この学校に来て一ヶ月も経たない頃の話だ。その日、僕は朝のホームルームが終わると屋上に足を運んだ。この学校では園芸部が活動をしている関係で屋上は常時開放されていた。当然多くの生徒が利用しているだろうと思ったが、予想に反して屋上は閑散としていた。
これは後で聞いた話なのだが、屋上が植物だらけなので春夏は虫が大量に発生し、秋冬はたむろするのには寒すぎるので人気がないらしい。とにかくそんな人気のない場所で僕は上坂に出会った。彼女は一つしか設置されていないベンチの端でイヤホンを耳にして煙草を吸っていた。僕は何となく気まずくなって引き返してしまおうかと考えたが、学年を表す上履きの色が自分と同じだったので、思いきってベンチの端に座ってみた。
「何でわかったの?」
最初に投げかけられた質問に対して僕はなるべく好意的に話した。他人と仲良くなる術みたいなものを、僕は数回の転校を経て身に着けていた。
「見ない顔だし」
イヤホンを外してブレザーにしまうと、一度煙草を大きく吹かした。
「俺も見たこと無いな。ええと」
「上坂」
「そう、上坂さん」
それほど規模が大きい学校でもないので、顔と名前が一致しなくても同学年の人間はもう大体見たことがあったけれど彼女は初めて見る顔だった。気まずいながらも、僕を彼女と同じベンチの端に座らせた大きな要因はそれだった。
「上坂さんなんてキモいからやめてよ。呼び捨てでいいよ。ええと」
「藤田ね」
「そう、藤田。で、あんた何しにきたの? サボり?」
お互い端に座っていたので会話している声が若干大きかった。僕か、あるいは上坂がもう少し相手の方へ寄ればよかったのだけれど、僕たちはどちらも動こうとはしなかった。
「まあ、そんな感じ」
「そんなことする風には見えないけど」
「偏見はよくない」
僕は言った。
「こう見えたって前の学校じゃ遅刻の数は五本の指に入ってたし、欠席数だってなかなかのものだった。サボるのだって日常茶飯事だ」
「自慢にもならないよ」
上坂が笑ったのを見たのはそれが始めてだった。
それからの会話のやり取りはあまり覚えていない。多分僕は当たり障りのない話しかしていないだろうし、上坂もいつも通りあまり興味がない風な感じで受け答えをしていたと思う。
その日以来、僕らはサボり仲間になった。
僕が屋上に行けば彼女は必ず煙草を吸っていて、僕らはいつもベンチの端にそれぞれ座って他愛の無い話をした。必要性が無いという理由でベンチが撤去された後は、給水塔のコンクリートの壁を背にして、家が貧乏だとか、穴を開けたは良いけど似合うピアスが無いとかいう彼女の話も少しだけした。その頃には最初は座ったベンチの端と端だった二人の距離も人一人分くらいの距離にまで縮まっていた。恋人同士のように寄り添っているわけでもなく、見知らぬもの同士のように遠すぎることもない二人の位置は、他人から見れば奇妙なものかもしれない。
けれど僕らには、少なくとも僕にとってこの関係はすごく居心地が良いものだった。
「あんた煙草は吸わないの?」
ある時上坂が何気なく聞いてきた。僕らは夏服を着ていて、彼女のブラウスの胸ポケットには常に煙草が入っていた。
「体に良くない」
不良のくせに、と上坂は笑った。彼女から言わせれば僕は不良に分類されるらしい。でも僕は彼女を不良には分類させていなかった。もっと別の繊細で危ういものを孕んだ人間の分類に属しているような気がした。
「一本ぐらい吸ったって死ぬわけじゃないんだから。吸ってみなって」
それもそうだと思い、僕はその時生まれて初めて煙草を口にした。煙を思いっきり吸い込み咽てしまった僕を見て、
「煙草ぐらいかっこ良く吸えなきゃモテないよ」と笑いながら彼女は言った。
その後も僕らの関係はずっと続いた。でも僕が上坂に会うのは決まって屋上だった。廊下や食堂、たまに開かれる集会などで探したこともあったが彼女の顔は無かった。
それは最初、小さな疑問でしかなかったのだけれど、月日が経つにつれて次第に大きくなっていった。 決定的になったのは彼女のクラスに行ったときだった。彼女は自分のクラスを教えてくれることはなかったけれど、煙草を取り出した時に、一緒に生徒手帳が落ちたのを僕が拾ったことが1度だけあった。手帳に記されていたクラスを訪れると上坂の席はどこにも無かった。クラスにいた女子に上坂について尋ねると、その子はちょっと意外そうな顔をした後、あんまり詳しくないけど、と前置いてから話し始めた。
「一つ聞いていいか?」
「うん?」
僕は俯いたまま上坂に尋ねた。幾度と無く心の中で繰り返した疑問を口にしようとしていた。
「何で、」
彼女の持つ崩れかけた積み木みたいな雰囲気が、次の僕の一言で本当に崩れてしまいそうな気がして怖かった。でも僕の頭はそれ以上に知りたいという好奇心で溢れていた。
「上坂さ、何でここにいるの?」
返事はなかった。僕は下を向いたまま続けた。
「退学食らったんだろ?二年の終わりに」
風が止み、永遠にも感じられるような沈黙が僕らの周囲を支配した。僕はその長い沈黙の間、ずっと俯いていた。上坂はどんな顔をしているのだろう。そう思って顔を上げようとして、何度も挫けた。
「それも」
煙草の匂いがしなくなった。
「風の噂?」
「ああ」
「そっか」
短いやりとりを切掛けに思い切って顔を上げて上坂を見ると、その表情に変化は無くそれが逆に僕を不安にさせた。聞かなくてもいい事を、彼女の傷に触れるような事を聞いたのだから、怒ってくれたって構わなかった。
「さっき」
「うん」
「嫉妬してるって言ったでしょ」
「うん」
「別に藤田に嫉妬してるって訳じゃないよ」
「じゃあ誰?」
「誰っていうか……」
そう言い淀んで彼女は新しい煙草を咥えたが、何故か火は付けなかった。
「自分自身、かな」
「自分自身?」
「そう」
自分自身、とまた小さく呟いた。そこにどれだけの感情が込められているか、僕には分らなかった。
「両親とか教師とか友達、街を歩いている人、会ったこともない外国の人や、裕福な人に貧しい人。とにかくいろんな人。いつの頃からか忘れたけど、自分以外の人がみんな幸せそうに見えた。」
火を付けることなく咥えていた煙草を、上坂は指先で弾いた。綺麗なままのそれは、そのまま転がって、花壇の端に当たって止まった。
「もちろん私より不幸な人なんて世界には腐るほどいることぐらい知ってる。私はただ退学食らって、親からも見捨てられて、援交してるだけ。全然大したことじゃない。」
「そうだね」
と僕は言った。上坂は少し笑うとまた続けた。
「そう、大したことじゃないの。どうせなら思いっきり不幸なほうがよかった。もう生きていても良いことが一つもないくらい不幸だったらよかった。世界中の誰も私に手を差し伸べたくなくなるぐらい不幸だったらよかった。そうしたらただ単純に幸せそうな世界中の人を憎めた。でも」
そこまで一気に言うと、彼女は俯いた。
「でも私は中途半端だった。中途半端に幸せで、中途半端に不幸だった。それに気づいちゃった。みんな幸せそうに見えるのに、それを素直に妬むことも出来なくなっちゃった。だから」
「自分自身?」
「そう」
彼女は答えた。
「自分自身が妬ましくなった。もっと、最低まで不幸になればいいのにって。嫉妬とか恨みとかそういうもの全部自分にぶつけた」
上坂は顔を上げて、僕に微笑んだ。それはとても虚しい笑い方だった。
「学校に来てたのは」
彼女は視線を僕から空に移した。
「惨めに見えると思った。退学したのに、あいつまだ学校に来てるって。もう居場所なんか無いのにって。そういうただの自己満足。援交も一緒。」
少し強い風が吹いて、さっき捨てられた煙草が少し動いた。
「でもそれも駄目だった。ずっと一人で惨めに過ごす筈だったのに隣に一人増えちゃってた。最初はウザかったのに、いつの間にかそれが自然になってた。」
煙草は風に流されて少し転がった後、花壇の溝に落ちて見えなくなった。
「あんたは」
再び彼女の視線が僕に移った。
「何で授業サボるの?」
何と答えて良いのか分からなかった。彼女は僕に何を求めているのだろう。同情や哀れみを求めるには、この質問は不適切だった。
「俺は」
上坂と同じ様に、僕は視線を空に移した。
「怖い」
「怖い?」
「そう。昔は色んな夢が見られた。けどそんなのは所詮夢なんだって歳をとって知ったんだ。
叶うのは本当にごく少数の人間なんだって。でも俺は違う。俺はその少数に含まれない。だからたまに他の大多数がしないことをしたくなる。他の奴が同じ教室で同じことをしている時にそれを遠くから見たくなる。凡庸に過ごすのが嫌で、怖くて、屋上に行って一人で何にも考えずに過ごしたくなる。でも」
そこまで言って僕は上坂を見つめた。
「でも駄目だった。一人で過ごす筈だったのに、先に一人座ってた。それでそれがいつの間にか当たり前になってた」
そのせいか、と僕は付け加えた。
「そのせいか分からないけど、凡庸な人生っていうのも悪くないかなって思うようになった。俺の人生じゃせいぜい授業をサボることが精一杯でも、それも悪くないかなって」
上坂はしばらく黙ってから「そっか」と小さく頷いた。
「私たち、相性良くないみたい」
「悪くもなさそうだけど?」
「ねえ」
「なに?」
「生き方について考え方が間逆の二人がいて、不幸を願う女の子と、凡庸でも良いと思う男の子。もしこの二人が愛し合ったとしたらどうなると思う? 最初は価値観のずれから始まってやがてそれはどんどん進んでいって、相手の人生観、生き方そのものを否定しあって、きっと最終的にはお互いに殺しあうの。きっと死んでも、生まれ変わっても二人は分かり合えない」
歌うように彼女は言った。それは積み木なんかよりもっと脆いもののように感じた。
「そういうの試してみたくない?」
「どうやって」
僕がそういい終わるかどうかというところで、上坂が僕に覆い被さった。唇と唇が重なり、煙草の匂いと彼女の香水の匂いが、鼻腔に広がっていった。
「俺はタイプじゃないんだろ?」
努めて平静を装い僕は皮肉めいた口調で言った。
「好きな女じゃなきゃ抱けない?」
「俺の場合は」
純情だね、と彼女は笑った。そしてゆっくりとした動作で僕の膝に座り込み、正面から僕の首に腕を回した。
「顔なんて、始まっちゃえば関係ないよ」
上坂の視線には媚びるような色があった。薄っすらと施してある化粧も、そんな雰囲気をより一層醸し出していた。
「それにさ」
子供をあやすような、穏やかな口調で彼女は言った。その声はしっとりとして上坂の弱々しい吐息が僕の耳をくすぐる。
「体から始まる関係だってあると思わない?」
上坂の声がどんどん聞いたことのないようなものへと変わっていく。改めて、僕は彼女のことを何も知らなかったということを思い知らされた。
「何か勘違いしてるみたいだけど」
僕はもう目の前にまで迫ってきている彼女に言った。
「多分、上坂が思い描いている様な関係にはならないよ」
「どういう意味?」
上坂が少し顔を遠ざける。
「さっきのおとぎ話みたいな結末にはならない」
一つ呼吸を置いて、僕は続けた。
「男の子は女の子を幸せにする。しようと努力する。自分の価値観なんて放り投げる。だから女の子とはずれない。生き方を否定しなし、殺し合いだってしない。死んでも、生まれ変わっても」
上坂の肩を掴むと、僕はなるべくゆっくりと引き離した。抵抗はほとんどなく、すんなりと僕らの距離は開いた。
「俺がその男の子だったらそうする。世界一には出来ないけど、不幸だってこと忘れさせてやるし、他人が幸福に見えたってそれがどうしたっていうくらいには幸せにさせてやる」
まあ、と僕は付け足した。
「上坂に限らずだけど。俺はそういう風に好きな奴となれたらいいなって思ってる」
自分でも歯が浮くような台詞だと思ったけど、間違ってはないとも思った。少なくとも僕には今の彼女が願うような結末を用意できる度胸も、意思も無かった。
「やっぱりさ」
そう言って上坂は開いていた距離を再び縮めた。
「あんた、いい奴だ」
僕の胸の辺りに彼女の顔が埋まった。その声は震えていて、それもやはり僕の知らない声だった。
「知ってる」
「こういうときは、黙って抱きしめろよ」
上坂は顔を上げ、両手で僕の顔を掴むとそのまま唇を重ねた。先ほどよりも浅くて子供っぽいキスだった。
「覚えといたほうがいいよ」
そう言って距離を置くと彼女は笑った。
「こういうのはキスで始まってキスで終わる」
心の底からというのには大分遠いけれど、その笑顔は僕が見た中では一番綺麗だった。
「失敗談として未来の彼女に話しとくよ」
「よろしく」
再び上坂が僕の胸に顔を埋めた。僕はと言えば彼女を抱きしめるわけでもなく、たださっきから早鐘を打っている心臓の音が彼女に気づかれないかどうかという心配をしていた。
「ちゃんと女から誘われたのに何もしなかった時教えられたって言うんだよ」
「ああ」
彼女が僕から離れたのは、それから随分経った後だった。とても長く感じられていた時間は、本当に長かったらしい。制服のブレザーに彼女の香水の匂いが残っていた。
「さっきの話」
少しして上坂が呟いた。
「うん?」
「嫉妬」
「ああ」
結局僕らはいつもみたいに少し間を空けて壁際に座っていた。
「あんたにも嫉妬してる」
少し明るめの茶色に染められた自分の髪を弄りながら、上坂が言った。
「同じ場所にいたのに、遠くに行けるのがあんただけっていうのはズルいと思った」
「遠く?」
「そう」
そこまで言って、上坂は立ち上がった。
「この時間の空って綺麗じゃない?」
僕は彼女に倣って立ち上がると、フェンスの向こうに続く景色を眺めた。夕焼けになる一歩手前の青空と混じり合ったような薄い紫色をしていて、郷愁を漂わせるような空だった。今まで意識したことは無かったけれど、それは彼女の言うとおり確かに綺麗だった。
「退学してから私はここからずっと外を見てた」
彼女は続ける。
「不幸になれないんだったら、誰も私の事を知らない世界に行きたいって、この空を見て思うようになったんだ。でも私はずっとこの小さな世界から離れられないのに、みんなはいとも簡単に飛び出していく。藤田もきっとそうだから、私は少し嫉妬してた」
「今は?」
僕が尋ねると彼女は微笑んだ。
「今は思ってない。きっとそれが当たり前なんだよね。私も多分、今は無理でもいつかあの向こうに行くんだろうな」
そう言った彼女の顔には今までで見たことがない表情を浮かべていた。とても穏やかで優しい表情だった。
「さっきの話」
少しして僕は尋ねた。
「うん?」
「不幸について」
「ああ」
あれねと、つま先で地面を突きながら彼女が言った。
「もういいや。誰かのくさい台詞聞いてたら、凡庸でも良いかなって」
「そっか」
「でも、そんなすぐには変われないかも」
「それでもいいと思う」
僕はいつか彼女がこの遠い景色の向こうで、僕の知らない誰かと幸せになることを、この空にほんの一瞬の間だけ祈った。そしておそらく彼女の心の底からの笑顔を見るであろう僕の知らない誰かに少しだけ嫉妬しておいた。
緩やかな流れで、雲が遠くへ流されていく。この屋上だけ世界から隔離されたような、そんな気分だった。
結局僕は第一志望の大学から不合格の通知が来て、卒業式後にまた受験する羽目になった。
上坂からメールが来たのは、そこに合格した翌日の早朝だった。一応アドレスだけ交換していたが、実際に送られてきたのはこれが初めてだった。件名に金額が書いてあり、本文には「合格おめでとう」とだけあった。僕が起きて返信する頃には彼女のアドレスはとっくに変わっていて、僕たちのメールはこの一通きりになった。
大学生になった今、都会の夜に街を歩くと、時折そういった女性に声を掛けられる事がある。彼女たちが何を思ってこの街でこんなことをしているのか僕には分かりかねた。
けれど媚びた笑顔を浮かべる彼女らの中には、かつて僕が知っていた女の子のように不幸になりたがっているような人はいないようだった。
多分これが普通なのだ。そう自分に言い聞かせながら、寄ってくる女性を無視し歩き抜けていく。彼女が今、誰とどんな生活を過ごしているのかを想像しようとして、僕はやめた。
彼女が綺麗だといった空を、僕はあれ以来見ていない。
―了―
ありがとうございました。