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今ここであなたと出会えたことは

【閑話】気持ちが通じ合えた友

作者: 安田 木の葉
掲載日:2026/10/26

こちらの短編は、シリーズの内容をご存知ない方でもお楽しみいただけます。

 それは5月の穏やかに晴れた、他愛もないある日のことだった。総一郎(そういちろう)は今日のランチタイムも難なくピークを乗り切り、1人カウンターの中でシンクに溜まった皿やらコップやらの食器類を手際よく業務用の食洗機の中に詰め込んでいた。すると奥から孫の光(ひかる)がいつものずっしりと重たそうなリュックを背負ってやって来た。


「おぉ、光、おかえり。今日は早いんだな。」


 総一郎の声は柔らかくて、いつもとても心地がよい。


「うん、ただいま。」

(……?)


 一方光は無表情のまま淡々とひと言そう答えた。それは周りからすれば、いつもと変わりのない光だった。しかし今日の光は、総一郎には違って見えた。

 光はそのままフロアに出てすぐ脇のカウンター席の、端から一つ隣りに重たいリュックを先に置くと、自身は一番端っこの席に腰掛けた。そこは光のいつもの定位置だった。なぜなら客から注文を受けた料理をテーブルまで運ぶ総一郎の手伝いもできるからだ。幼い頃から留守番の時はいつもここで過ごしているため、総一郎の助っ人はもはやお手のものだった。

 ここ、喫茶「la(ラ) jet(ジェット)」は、オーナーの総一郎が1人で切り盛りしている。カウンターの奥は娘夫婦の自宅と繋がっていて、現在小学6年生の光は学校から帰って来るといつも塾に行くまでの時間をここで過ごしている。


「光、飲むか?」

「…うん。」


 総一郎がオレンジジュースの瓶をかざすと、光はまたひと言それだけ答えた。双子の姉の明(あかり)だったら、もっとキャピキャピ答えていただろう。光は元々口数が少ないし、表情も豊かな方ではなかった。そんな光に、


"お前の表情筋はあゆみのお腹の中で全部明に持ってかれたんだな!"


などと、この家族をよく知る客が言ったりもしたが、光はそんな揶揄すらも一切の表情を変えることなく聞き流していた。


(まだ小学6年生なんだよなぁ…。でも章(あきら)君もこんな感じだったし、さすがは親子だなぁ。)


 娘のあゆみの旦那である章のことも幼い頃からよく知っていた総一郎は、そんな光を特に不憫に思うこともなくいつも温かい眼差しで見守っていた。


 しかし今日の光はいつもと違った。ここに来てからの数少ない挙動にちょっとした違和感があることを総一郎は見逃さなかった。


「光…?今日、学校で何かあったか…?」

「ないよ。」

「………、そうか。」


 光は何食わぬ顔で答えた。しかし総一郎には分かる。でも、それ以上詮索するようなことはしなかった。するとその後しばらくして、今度は光の方から口を開いた。


「学校では何もなかったけど…。」

「うん。」

「今日の…、朝ね…。」

「うん。」


 光はいつの間にかカウンターに広げていた塾のテキストをぼぉっと見つめてはいたが、心はここに在らずといった様子だった。


「あのね…、




 僕の部屋には、たぶん、もう1年以上前から1匹の蜘蛛が棲みついてるんだ。朝起きて窓のカーテンを開けると、その蜘蛛はいつも右側のガラスの右上の辺りにいて、僕がカーテンを開けた瞬間に身体の向きをパッと変えて、僕の方を見るんだ。だから僕もその蜘蛛のことをじっと見つめるんだけど、そのうちに、それが毎朝の僕たちの小さな決まり事みたいになってたんだ。

 昼間はどこにいるか分からない。でもたまに部屋の壁にいたりして、壁紙が白いから、すごく目立つんだ。でも色が真っ黒とか、そういうわけじゃない。足はオフホワイトで、ちょっと透き通っていて、背中は黒に近い焦茶の中に、砂浜のきれいな白い砂を散りばめたような細かな模様があって、それがとってもきれいなんだ。気になって何ていう種類の蜘蛛なのかネットで調べてみたけど、全くおんなじ模様の蜘蛛は、見つけられなかった。

 僕がその蜘蛛に気付いた頃は、まだ6〜7mmくらいだったのに、今では足から足までが1cmくらいはある。とにかく、この春になって、目に見えて大きくなったんだ。僕は、これからも餌に困らないように、何かあげられるものはないかお母さんに聞いたんだけど、


「蜘蛛はね、お家の中の虫を食べてくれるから、心配いらないわよ。」


って教えてくれて…。でもそれは本当みたいで、だからその蜘蛛は僕にとって困るであろう他の虫を、きっと毎日たくさん食べてくれてるんだなぁって…、そう思ってたんだけど…。でも……。




 そこまではとても流暢に、得意げに、嬉しそうに、光はその蜘蛛とのエピソードを話してくれた。しかしそこから一変して、それでもほんの僅かに高揚する光の顔から表情が消えた。


「でも…、1ヶ月くらい前から、突然いなくなっちゃったんだ…。毎日毎日カーテンを開けて、窓の隅っこも、左のガラスの方も全部探すんだけど、ほんとにパッタリいなくなっちゃったんだ。だからもしかしたら、別のお家にいっちゃったのかなって思ってたんだけど…、今日、カーテンを開けて、窓も開けようとしたら、下のレールのところに、ぺしゃんこになったその子がいて……。」

「………ッ。」

「大きさも、背中の模様も、絶対に間違いない。いつも朝一番におはようって言ってた、あの子だったんだ…。」


 光は尚も目の前のテキストの一点をただじっと見つめていた。


「僕が…、殺しちゃったのかもしれない…。僕が窓を閉める時、その子がいることに気付かなくて、うっかりつぶしちゃったかもしれないんだ…ッ。」


 そこまで言い終える頃には、光の目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。


「……、光…。」


 カウンターの内側から聞いていた総一郎は、すぐにフロアに出ると光の隣りの席のリュックをさらにその隣りへ移し、空いた席に腰掛けた。そして光の背中にそっと優しく手を添えた。


「光…?その蜘蛛は、光が殺したんじゃないよ?蜘蛛はそんな鈍感じゃない。それはその子を毎日見ていた光が、一番よく分かることだろう…?」


 光は思った。確かに、蜘蛛の動きは俊敏だった。光はその子と気持ちが通じ合えたと思えた頃、もしかしたら自分の手のひらに乗ってくれるのではないかとその子に向かって手を差し伸べたことがあった。しかしやはり警戒心はむき出しで、いつもシャシャッとすぐに後退りしてしまう。そのため結局光の手に乗ってくれることはなかった。その時の動きを思い返せば、確かに身に迫る窓からも瞬時に避けられたはずだった。


「………。」


 しかし光は黙り込んだままだった。総一郎はさらに優しく続けた。


「その子は潰れて死んだんじゃない。ちゃんと寿命で死んだんだ。寿命で死んで、それでもそこにいたから潰れちゃったけど…、でも最後にどうしても、光に会いたかったんだろうなぁ。」

「………。」

「だからちゃんと光に会えて、よかったなぁ。」


 すると光はようやく顔を上げ、総一郎の方を見た。総一郎は、尚も優しく微笑みかけた。


「ほら、これ使って。」


 総一郎はそんな光に近くに置いてあったティッシュボックスを箱ごと差し出した。光はそこから2〜3枚ティッシュを引き抜くと、小さく控えめに鼻をかんだ。そしてさらに2枚ほど新しいティッシュを引き抜き涙を拭いた。


「その子は今、どこにいるんだ?」

「僕の部屋の…、机の上…。ティッシュに包んで、置いてある。」

「そうか。じゃあ、今から土に埋めてあげよう。」

「え…、お店は…?」

「そんなん何とかなるさぁ!」


 すると総一郎はくるりと振り返り、それまで存在感をまるで感じさせずに4人掛けのボックス席を独り占めしていた常連のオヤジに向かって言った。


「オヤジぃ!ちょっと店番頼むわッ。」


 するとそのオヤジは読んでいた新聞から目だけを覗かせ、無言のまま小さく頷いてみせた。






 埋める場所は、光の家の中庭に生えている一本の木のふもとにした。ここならこれからもずっと傍にいられるからと、光が選んだ。慎重に、深めに掘った穴にその蜘蛛を埋めると、2人はそこでそっと手を合わせ目を閉じ、その蜘蛛に思いを馳せた。


「それにしても、明の部屋に現れなくて良かったなぁ。」


 真顔でポツンとひと言そう呟いた総一郎の言葉に、光は自身の部屋で蜘蛛と遭遇した明を想像した。


"ぎぃやぁーーーーーッ!!!

きゃーきゃーきゃーーッ!!!

こっち来んなぁーーーーーーッ!!!!!

ベチッ"


 喜劇のようでやけにリアルに想像できるそんなひとコマに、光は思わずビクッとした。総一郎はそんな光の頭をポンッと撫で、そして続けた。


「きっと光の部屋を選んだんだな。」

「うんッ。」


 その頃には光の表情は、ほんの少しだけ晴れていた。総一郎にはそれが分かった。総一郎は尚も頭に乗せていた手で、再び光を優しく撫でた。





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