第7話:『主不在のLUXEと、終わらないヘルプコール』
金曜日、午後八時。
週末の歌舞伎町は、いつにも増して騒がしかった。雨上がりのネオン。 客引きの声。 酔っ払いの笑い声。
その喧騒の中心にある高級ホストクラブ『LUXE』も、開店直後から満席に近い状態になっていた。
――にもかかわらず。
バックヤードには、妙な緊張感が漂っていた。
「……マジで今日、クロノ来ないんすね」
黒服の神崎が、予約表を見ながら疲れた声で呟く。
「大学の必修講義だってさ」
ソファに座るレンが、スマホを弄りながら答えた。
「夜まであるとか大変っすね……」
新人ホストのユウが感心したように言うと、レンは苦笑する。
「アイツ、昼は普通に大学生だからな」
だが問題はそこではない。今日の予約表には、“クロノ指名”が大量に並んでいた。
しかも週末。
普段ならクロノが自然に捌いている客数を、今日は他のホスト達で分担しなければならない。
神崎がボソッと漏らす。
「なんか……店の柱抜けた感あるな……」
レンも否定しなかった。実際、クロノは派手なタイプではない。盛り上げ役でもないし、売れっ子特有の圧もない。なのに不思議と、あの男がいるだけで店の空気が安定するのだ。
*
営業開始から三十分後。
その“穴”は、想像以上に大きかった。
「えっ、クロノ今日いないの?」
常連客のエリカが、露骨に残念そうな顔をする。
「申し訳ありません。本日は大学の講義が長引いてまして」 レンが自然に席へ入りながらフォローした。
「そっかぁ……」
エリカは悪い客ではない。だが、“クロノがいる安心感”込みで来店している客が多いのも事実だった。
レンは接客しながら、ふと考える。
(アイツ、自分で思ってるよりだいぶ店に影響与えてるんだよな……)
*
さらに別卓。
新人ホストのユウが、シャンパンを注ごうとして盛大に泡を溢れさせた。
「あっ!!」
テーブルに飛び散るシャンパン。
女性客の「あはは、大丈夫?」という苦笑。
ユウは顔を真っ赤にして固まった。
「す、すみません!!」
神崎が即座に飛び込んで片付ける。
レンも空気を切り替えようと話題を振る。
だが、どこか噛み合わない。
ほんの少しの空気の乱れ。
小さな焦り。
微妙な沈黙。
普段ならクロノが、いつの間にか潰していた“違和感”だった。
レンがグラスを置きながら呟く。
「……アイツ、普段どんだけ裏で処理してたんだよ」
*
午後十時過ぎ。
バックヤードで、神崎がついに頭を抱え始めた。
「ダメだ……新人二人ともテンパってる……」
「レンさんヘルプ入りっぱなしだし」
「テーブル回しギリギリです」
ふいに神崎のスマホが震えた。
画面には、『クロノ』の文字。
「おっ」
電話に出る。
「もしもし!」
『……なんか今日やばい?』
開口一番、それだった。神崎は思わず笑う。
「なんで分かるんすか」
『レンさんから返信遅い時点で察した』
遠くでレンが吹き出した。
「何だよその判断基準」
『新人やらかした?』
神崎が黙る。
『図星か……』
電話越しに、小さくため息が聞こえた。
『今どんな感じです?』
神崎は半分愚痴みたいに現状を説明した。
「常連の空気が微妙に不安定で、新人が焦ってミスして、レンさんが全部フォローしてます」
『レンさん酷使するとあとで面倒なんだよな……』
「聞こえてるぞ」
レンが即座にツッコむ。
その瞬間、バックヤードにいた全員が少し笑った。
たったそれだけなのに、空気が軽くなる。
神崎は改めて思った。
(この人、店にいる時だけじゃなく、電話越しでも空気変えるんだよな……)
*
「で、クロノさん来れないんですか?」
新人ユウが恐る恐る聞く。
電話越しに、少し間が空いた。
『……まだ大学』
「ですよねぇ……」
『でもあと三十分で終わる』
神崎とレンが顔を見合わせる。
「あ」
「その言い方」
レンがニヤッと笑った。
「お前、来る気だろ」
『いや別に』
「絶対来るじゃん」
『……一時間だけな』
神崎が思わずガッツポーズする。
「救世主きた!!」
『うるさい』
電話は切れた。
*
そして午後十一時。
店の扉が開く。
ラフな黒シャツ。 講義帰りなのか、肩には大学のバッグ。 セットも甘い。どう見ても“普通の大学生”だった。
だが、
「あっ、クロノ!」
「来たー!」
「今日会えないと思った!」
店内の空気が、一瞬で変わる。
忠敬は面倒そうに片手を上げた。
レンが笑う。
「大学帰りそのままとか、お前ほんと色気ねぇな」
「講義三コマ連続だったんだよ」
「なのに来たの?」
「神崎さんの声が限界だった」
バックヤードから神崎の「ありがとうございますぅ……!」が飛ぶ。
忠敬は呆れ顔でフロアを見回した。
新人ユウはまだ緊張している。
レンは普段より働きすぎ。
常連客もどこか落ち着かない。
数秒だけ見て、忠敬は自然に動き始めた。
「ユウ」
「は、はい!」
「シャンパン注ぐ時、姫じゃなくてラベル見ろ。手ブレ減る」
「……!」
「あと謝りすぎ。逆に空気固まる」
「はい!」
短い。
だが、それだけでユウの肩の力が抜ける。
レンはその様子を見ながら苦笑した。
「だからお前、教育係向いてんだって」
「向いてねぇよ」
「向いてる奴ほどそう言うんだよ」
*
閉店後、ソファへ倒れ込んだ新人達が魂の抜けた顔で呟いた。
「今日マジでやばかった……」
「クロノさん来てから空気戻りましたよね……」
神崎も深く頷く。
「なんか、店全体が落ち着くんだよな」
レンが缶コーヒーを飲みながら笑った。
「本人は無自覚だけどな」
クロノはネクタイを緩めながら、本気で疲れた顔をしていた。
「……大学終わりに来る場所じゃねぇ」
「でも来たじゃん」
「電話がうるさかった」
「優しいなぁ、クロノさん」
新人の言葉に、クロノは露骨に嫌そうな顔をする。
「やめろ。気持ち悪い」
その瞬間、店内に笑いが起きた。
週末営業を乗り切った『LUXE』の夜は、いつもより少しだけ騒がしく、でもどこか穏やかに更けていった。




