第20話:『喋りすぎる信号機と、危機感のない男』
六月も終わりに近づいたある日、潜木忠敬は大学の最寄り駅を出ていつものようにコンビニへ向かっていた。
朝の講義が終わったばかりだ。昨夜は営業後にレポートを書いていたせいで睡眠時間は三時間。
眠い。
とにかく眠い。
今の忠敬の頭の中は、
「昼飯」
「仮眠」
「夜出勤」
でほぼ埋まっていた。
だがそれでも、後ろからついてくる足音に対してだけは、脳の片隅で常に冷徹な警戒を維持していた。
信号機小人がわたわたと飛んでくる。
『またいる!』
(そうか)
『今日もいる!』
(そうか)
『大学からいた!』
(暇なんだな。またあっち側の人間か?)
信号機小人が絶句した。
『お兄ちゃん、そんな冷静に分析してないで危機感!!』
危機感なら、嫌というほど持っている。
店からの帰り、不審者を現行犯で引きずり回し警察へ引き渡した。
その日から、忠敬の警戒レベルは常に最大だった。
実際、ここ二週間ほど似たようなことが続いていた。
大学の最寄り駅。スーパー。コンビニ。出勤途中。
ふと気づくと、同じ女性が近くにいる。
話しかけてはこない。近づいてもこない。
ただ、いる。
それだけだった。
最初は店を狙う新たな敵か、あるいは『クロノ』かと考えた。
だが、相手のやり方はあまりにも素人すぎる。
(ただの一般人か……?)
そう理解したからこそ、あえて泳がせていた。下手にこちらから動いて、警察沙汰のような大騒ぎに発展する方が面倒だ。
今のところ”実害はない”そう判断した。
だから放置していた。
*
その日も、そんな調子だった。
コンビニで昼食を買い、店を出る。すると道路の向こう側に見覚えのある人影があった。
例の女性だ。
電柱の近くに立ち、こちらを見ている。
自販機小人が騒ぐ。
『見てる!』
『今日も見てる!』
『絶対見てる!』
(知ってる)
忠敬がため息を吐いた、その時だった。
「お」
聞き覚えのある声。振り返ると、そこにいたのは制服姿の警察官だった。以前、酔っ払いの保護やら迷子騒ぎやらで何度か顔を合わせた巡査長の相沢だった。
三十代前半。仕事のできるタイプの警察官で、なぜか忠敬を見つけると声をかけてくる。
「潜木くん」
「こんにちは」
「また何か拾った?」
「人聞き悪いですね」
相沢が笑う。
「前に会った時も酔っ払い担いでたろ」
「落ちてたので」
「人は落とし物じゃない」
そのやり取りの最中だった。
信号機小人が突然飛び跳ねる。
『いるいるいる!!』
『電柱の後ろ!!』
忠敬は反射的に視線を向けた。
女性がいた。目が合った瞬間、慌てて顔を逸らす。
その様子を見て、相沢の笑顔が少しだけ消えた。
「……知り合い?」
「多分違います」
「多分?」
忠敬は少し考える。どう説明すべきだろう。
「二週間くらい前からいます」
相沢が止まった。
「は?」
「大学の近くとか、駅とか、コンビニとか、出勤途中とか」
説明するたびに、相沢の顔が真顔になっていく。最後には完全に警察官の顔だった。
「ちょっと待て」
「はい」
「それなんで今言った?」
「いや……実害ないので」
「ある」
即答だった。忠敬が瞬きをする。
相沢は額を押さえた。
「潜木くん」
「はい」
「それを普通は実害って言うんだ。君、また何か別のヤバいトラブルにでも巻き込まれてて、警察に言えない理由でもあるんじゃないだろうな?」
その鋭い突っ込みに、忠敬は内心でヒヤリとした。さすがは歌舞伎町近くの修羅場を踏んでいる警察官だ。勘が良すぎる。
「まさか。何もありませんよ」
「ならいいが……」
相沢は深く息を吐いた。
「尾行」
「待ち伏せ」
「生活圏の把握」
「全部危険信号だからな」
「はぁ」
「はぁ、じゃない」
まるで問題児を叱る教師だった。
忠敬は少しだけ困った顔になる。怒られている理由は分かる。だが、どうにも居心地が悪かった。
なぜなら、誰かに心配されることに、どうしても馴染めないからだ。
そんな忠敬の頑なな態度を見て、相沢はさらに頭を抱えた。
「君さ」
「はい」
「歌舞伎町で酔っ払い止めたり、トラブル仲裁したりするくせに」
「はい」
「なんで自分のことになるとそんなに足が遅いの」
忠敬は少し考えた。
答えは簡単だった。
「自分なんで。他人が巻き込まれるよりはマシです」
相沢は数秒黙った。
それから盛大にため息を吐く。
「それ答えになってないからな。君を心配する人間の身にもなれ」
(人間の身になれ、と言われてもな……)
忠敬は心の中で、ただ冷ややかにそう呟くだけだった。
*
結局、その日は事情聴取のようなことになった。
近くの交番で忠敬は椅子に座り、女性の特徴や遭遇場所を説明していた。
その間も小人たちは騒がしい。
椅子小人。
机小人。
観葉植物小人。
全員が興味津々である。
『お巡りさん本気だ』
『めっちゃ心配してる』
『怒ってる』
(仕事だろ)
『違うよ』
(違わないだろ)
向かいでは相沢がメモを取っていた。
そして時々、「もっと早く言え」と説教してくる。
忠敬は少しだけ居心地が悪かった。
*
数日後、女性への確認と指導が行われた。幸い、悪質なストーカーというほどではなかった。以前ホスト絡みでトラブルに遭い、人を信用できなくなっていたらしい。
クロノを見ているうちに、『この人も同じなのか』を確かめたくなった。
結果として距離感を間違えた。そんな話だった。
警察からの注意を受け、女性は素直に謝罪したという。
それ以降、姿を見ることはなくなった。
*
さらに一週間後、忠敬は大学帰りの横断歩道でまた相沢と顔を合わせた。
「お」
「こんにちは」
信号が赤になり、二人並んで立つ。
以前ならそれだけだった。
だが今回は違う。
相沢が確認するように聞いた。
「その後どうだ?」
「大丈夫そうです」
「そうか」
短い会話、それで終わるはずだった。
ところが、自転車小人が突然騒ぎ始めた。
『このお巡りさんまた心配してる!』
『確認しに来た!』
『保護者!』
(うるさい)
忠敬が眉を寄せる。
相沢が首を傾げた。
「どうした?」
「別に」
「そうか?」
「そうです」
信号が青になる。
歩き出しながら、相沢が苦笑した。
「まあ何かあったら連絡しろ」
「分かりました」
「今度は早めにな」
「善処します」
「そこは約束しろ」
忠敬は少しだけ考えた。
相沢の言葉は相変わらずお節介で、こちらの境界線を踏み越えてくる。けれど、隣の自転車小人が『このお巡りさん本気だよ!』と騒ぐその声に嘘偽りがないことだけは、よく分かった。
小人がそこまで言うなら、少しくらいは信じてもいいのかもしれない。
忠敬は小さく、本当に小さく頷いた。
「……約束します」
その返事に、相沢はなぜか少し安心したように笑った。
忠敬は気づいていない。だが横では小人たちが大騒ぎだった。
『今の嬉しかったやつ!』
『絶対嬉しかった!』
『お巡りさんの顔見ろ!!』
(うるさい)
忠敬は聞こえないふりをして歩き出す。
空は少し曇っていた。今夜も出勤だ。
面倒なことは終わった、それで十分だった。
少なくとも、忠敬本人はそう思っていた。




