戻れない一歩
※第3話です。
ここから物語は、大きく動き始めます。
ほんの些細なきっかけが、
取り返しのつかない変化へと繋がっていきます。
その瞬間を、見届けていただければと思います。
「……大丈夫かい、りえちゃん」
差し出されたコーヒーの湯気が、やけに白く見えた。
「うん、ごめんね。なんか……最近ちょっと寂しくて」
りえこは、苦笑いを浮かべた。
タケシがいなくなってから、まだ一週間しか経っていない。
それでも、部屋の静けさはどこか重く、時間の流れが遅く感じられた。
「まあ、急に一人になったらそうなるよな」
「ふふ……でも、頑張ってるんだよね。タケシ君」
「……ああ、あいつは昔からそういう奴だ」
リョウマは、柔らかく笑った。
その視線は優しく、声音も穏やかだった。
――だからこそ、違和感はどこにもなかった。
「無理してる顔、してただろ?」
「え……?」
「俺、あいつのこと長いからさ。分かるんだよ」
りえこの手が、わずかに止まる。
「……そう、かな」
「りえちゃんの前では、絶対見せないけどな」
その言葉に、胸の奥が少しだけ揺れた。
「……優しいから」
「優しい、か」
リョウマは小さく呟き、視線を落とした。
「優しいだけじゃ、守れないものもあるけどな」
「……え?」
「いや、なんでもない」
すぐに笑顔に戻る。
それは、いつもの“頼れる上司”の顔だった。
「そういえばさ、沙里奈さんって元気?」
りえこが何気なく口にしたその名前に、
リョウマの指先が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……ああ、元気だよ」
「いい人だよね。すごく落ち着いてて」
「……そうだな」
短く答えたその声は、どこか乾いていた。
「リョウマ君のこと、ちゃんと見てる感じする」
「……いや、あいつは――」
言いかけて、リョウマは口を閉じた。
「……なんでもない」
そして、少しだけ笑う。
その笑みは、さっきまでのものとはほんの僅かに違っていた。
「……なあ、りえちゃん」
「うん?」
「寂しいんだろ?」
その距離が、ほんの少しだけ近づく。
「……大丈夫だよ。すぐ帰ってくるし」
「本当に?」
「え?」
「その“大丈夫”、誰のために言ってるんだ?」
言葉が、妙に重かった。
「……それは……」
答えられない。
自分のためか、タケシのためか。
それとも――ただ、そう言うしかなかっただけか。
「無理しなくていい」
そっと、手に触れられる。
びくりと体が揺れる。
「……リョウマ君」
「タケシには言わない」
その一言が、静かに響いた。
「……え?」
「今日ここに来たことも、何もかも」
優しい声だった。
責めるでもなく、迫るでもなく。
ただ、逃げ道を塞ぐような声音。
「……どうして」
「りえちゃんが、つらそうだったから」
指先が、離れない。
「……俺は、味方だから」
その言葉が、心の奥に沈む。
抗う理由が、うまく見つからない。
正しいはずの線引きが、ぼやけていく。
その夜。
何があったのか、はっきりとは思い出せない。
ただ――
もう戻れない場所に、踏み込んでしまったことだけは、
理解していた。
朝。
目が覚めたとき、天井が少しだけ遠く感じた。
体が重い。
部屋の空気が、どこか違う。
「……あ」
声が、うまく出ない。
テーブルの上に置かれたスマホ。
その画面に、一瞬だけ映ったものに――
りえこは、目を逸らした。
見てはいけないものを見たように。
知らない顔をしていた。
自分が。
「……大丈夫だよ」
背後から、声がする。
「ちゃんと、守るから」
優しい声だった。
あまりにも、優しすぎる声だった。
その瞬間。
何かが、完全に壊れた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第3話では、関係の“歪み”がはっきりと形になり始めました。
まだすべてが決定したわけではありませんが、
確実に何かが変わってしまったことは伝わったかと思います。
次話では、その変化がさらに進んでいきます。
引き続きお楽しみください




