第5話 虹色の水飛沫と、雨上がりの笑顔
音は、間違いなく倉庫の裏から聞こえていた。
ヒュゥゥゥ……という音に合わせて、薄暗い闇の中に、白くぼんやりとした人影がフワリと立ち上がった。
「ひゃあああっ!!」
陽奈が短い悲鳴を上げて、俺の背中で縮こまった――いや、さらに強く締め上げてきた。
ギュウウウウウッ!!
回された細い腕が、万力のように俺の腹を締め上げる。
背中に押し付けられた二つの柔らかいふくらみと、恐怖で震える体温が、俺の理性を(物理的にも精神的にも)粉砕しにかかる。
「出た! 出た出た出たぁっ! 早く塩装備してぇぇ!」
「ぐおっ!? く、苦しい! 装備は俺のジョブじゃ持てないって……!」
陽奈のSTRが高すぎて、俺の背骨と肋骨が悲鳴を上げる。
だが、長年培ったゲーマーとしての冷静な部分が、瀕死の脳内で警鐘を鳴らした。
(待て。落ち着け。動きがおかしい)
俺は脂汗(と冷や汗)を流しながら、その「白い影」を凝視した。
あれは『生物』の動きじゃない。
一定のリズムで膨張と収縮を繰り返し、風に流されている。
あれは――。
「軍師くん! 逃げよう! 勇気ある撤退だよ!」
「待て天道、あれは違う!」
俺が分析を完了するよりも早く、恐怖が限界値を越えた陽奈が覚醒した。
「……こうなったら、やられる前にやるのよおおお!!」
陽奈は俺からパッと離れると、震える手で持っていた盛り塩の袋(1キログラム)を全力投球した。
「悪霊退散んんんッ!!」
豪速球は美しい放物線を描き――幽霊ではなく、倉庫の窓ガラスを直撃した。
ガシャーン!!
「ああっ! 器物損壊!」
「まだよ! トドメのホーリー・ランス!」
陽奈は止まらない。
逆立ったポニーテールを振り乱し、ほうきを槍のように構え、半泣きになりながら白い影に向かって特攻を開始した。
「うわあああん! 成仏してぇぇぇッ!!」
「やめろバカ! それはただのスプ――!」
陽奈の叫びに、俺の声がかき消される。
俺の制止も虚しく、陽奈のほうきが白い影の発生源――老朽化して半分埋まっていた配管のバルブを強打した。
バキッ!!
ブシュゥゥゥゥゥ――ッ!!
「――へ?」
陽奈が素っ頓狂な声を上げた直後、地面から巨大な水柱が噴き上がった。
白い影の正体は、古くなったスプリンクラーの配管の亀裂から、高圧で噴き出していた微細な水飛沫。
それが夕闇の中で白く煙のように漂っていたのだ。
そこへ陽奈の会心の一撃が入り、配管が完全に破裂した。
「わぷっ!?」
「うわあああ!」
逃げる暇などなかった。
頭上から降り注ぐ大量の水。俺たちは一瞬にしてずぶ濡れになった。
夕暮れの空に、即席の豪雨が降り注ぐ。
数秒後。水圧が下がり、辺りが静寂に包まれる。
「……げほっ、げほ。……だから言っただろ、スプリンクラーだって」
俺は前髪から滴る水を払いながら、隣にへたり込んだ陽奈を見た。
そして、言葉を失った。
陽奈もまた、全身びしょ濡れだ。
自慢のポニーテールは水分を含んで重くなり、艶めかしく肩にしっとりと張り付いている。
そして何より――。
水を吸った白いブラウスが、肌に張り付いていた。
その下にある、淡い水色の下着と、健康的な肌色が、夕陽に透けてうっすらと浮かび上がっている。
「あっ……」
俺の視線に気づいたのか、陽奈が自分の胸元を見た。
俺は慌てて、「何も見てません」という顔で明後日の方向を向いた。
怒られるか。それとも泣くか。
そう身構えた時、聞こえてきたのは意外な声だった。
「……っぷ、あはははは!」
陽奈が腹を抱えて笑い出した。
「なんだあ、水だったんだ! お化けじゃなかったんだ!」
「……笑い事じゃないぞ。あと、ガラスの弁償どうすんだよ」
「あー……それは、お小遣い前借りしてなんとか! でも、怖いのなくなってスッキリした!」
陽奈は顔にかかった水を手の甲で拭うと、俺を見上げてニカッと笑った。
まつ毛についた水滴が、夕陽を反射して宝石のように輝いている。
重くなったポニーテールをバサッと払い、彼女は無防備で透明感のある笑顔を俺に向けた。
「軍師くん、正解! やっぱり君はすごいね!」
その笑顔の破壊力に、俺は一瞬、呼吸を忘れた。
濡れた制服のことなんてどうでもよくなるくらい、その笑顔が綺麗だったからだ。
「……お前が壊したから証明されただけだ」
「細かいことはいいの! ほら、見て! 虹が出てるよ!」
陽奈が空を指差した。
飛び散った水飛沫の中に、小さな虹がかかっていた。
(……参ったな)
俺は、目の前の光景から目が離せなくなっていた。
世界がオレンジ色に染まるなかで、虹をバックに、ずぶ濡れのまま無邪気に笑う「暴走ポニーテール」。
どんな最新のグラフィックボードを積んだPCでも、この質感は描画できないだろう。
俺は少しだけ、このクソゲーの解像度を見直していた。
「……まあ、悪くないイベントスチルだ」
「え? なになに?」
「なんでもない。……早く部室に戻って着替えるぞ。風邪引く」
俺が背を向けた、その時だった。
「……っ、くしゅん!!」
「……へくちっ!」
俺と陽奈のくしゃみが、見事にハモった。
顔を見合わせる。
鼻をすすりながら、どちらからともなく吹き出した。
「あはは! 軍師くんのくしゃみ、変な声!」
「お前こそオッサンみたいだったぞ」
「うっさい! ……あーあ、寒い! これじゃ風邪引いちゃうよ!」
陽奈は腕をさすりながら、ニシシと悪戯っぽく笑った。
「ねえ、軍師くん! 部室まで競争しよ! 摩擦熱で服を乾かす作戦!」
「その脳筋理論、物理的に間違ってるぞ」
「いいの! 軍師くんは細かいなあ! 負けたほうが自販機でホットココア奢りね!」
「は? 待て、俺のAGIを知ってて――」
「よーい、ドンッ!」
俺の返事も聞かず、陽奈が駆け出した。
水飛沫を跳ね上げ、ポニーテールを揺らして。
その背中は、どんなRPGの勇者よりも力強く、そして楽しそうだった。
「ちょ、フライングだぞ!!」
俺は文句を言いながらも、その背中を追いかけて走り出した。
息が切れる。足が重い。
だけど、不思議と悪くない気分だった。
こうして、俺と彼女の「お任せ部」としての活動が、ド派手な水音と、二人のくしゃみと共に幕を開けたのだった。




