第35話 嘆きの壁・討伐戦と、聖水の暴走
ゴールデンウィーク明けの放課後。
久しぶりに全員が揃った『お任せ部』の部室には、異様な緊張感が漂っていた。
「……みんな、装備の確認はいい?」
教壇に立つ天道陽奈が、真剣な眼差しで問いかける。
そのポニーテールは、決意を秘めたようにピーンと張り詰めていた。
「おう。いつでもいけるぜ」
金剛が両手に嵌めた『銀色の武具』をガシャンと打ち鳴らす。
それは用務員室から借りてきた、金属製の柄付きタワシだ。
「わ、私も……準備万端ですっ」
クルミが足元にある『聖なる壺』――もとい、業務用の大型バケツをぎゅっと抱きしめる。中には並々と液体が満たされている。
「よし。連休中のヒーローショーやデート(仮)の思い出は、一旦セーブポイントに預けよう。今日から私たちは、学園の平和を守る『討伐隊』だよ!」
陽奈がビシッと指差したのは、黒板に書かれた第一のターゲット。
『嘆きの壁』
「期限まで時間がない。今日中に初戦を勝利で飾るよ! 出陣!」
「「「おーっ!!」」」
気合十分の掛け声と共に、俺たちは夕暮れの廊下へと繰り出した。
俺、笹木慧は最後尾を歩きながら、手にしたデッキブラシの重さを確認した。
……まあ、傍から見ればただの清掃ボランティア集団だが、彼らの士気を下げる必要はないだろう。
現場となる渡り廊下は、すでに夜の帳が下りて薄暗くなっていた。
窓からの月明かりが、壁面の無数のシミを照らし出す。
風雨と手垢で黒ずんだそれは、確かに「苦悶の表情を浮かべる手形」に見えなくもない。
「ひっ……!」
現場を見た瞬間、陽奈が短く悲鳴を上げた。
さっきまでの威勢はどこへやら、俺の背中に隠れてガタガタと震えだす。
「ぐ、軍師くん……やっぱりこれ、オバケじゃない……? なんか『うぅぅ』って聞こえるよぉ……」
「風の音だ。それに、よく見ろ」
俺は壁を指差した。
「あれは霊体じゃない。壁に擬態した『ウォール・ミミック』の装甲だ。物理攻撃が通る」
「……そ、そうだよね! ミミックだよね!」
魔法の言葉を聞き、陽奈が復活する。
彼女は震える手で、腰に差していた『聖剣エクスカリバー』を抜き放った。
「よくも生徒たちを怖がらせたな! その化けの皮、私が剥がしてやる!」
陽奈が叫び、先陣を切った。
「夢咲! まずは『浄化の光』だ!」
「は、はいっ! えいっ!」
クルミがバケツの液体を壁にぶちまける。
バシャアアッ!
高濃度の洗剤が壁を濡らし、黒ずみを浮かび上がらせる。
「今だ! 金剛、総攻撃!」
「オラオラオラオラァァッ!!」
金剛が猛然と突っ込んだ。
両手のタワシが残像に見えるほどの高速連打。
ガシガシガシガシガシッ!
凄まじい摩擦音が廊下に響き渡る。その形相は完全にバーサーカーのそれだ。
「よし、効いてる! 私も続くよ!」
陽奈もスクレイパーを構え、壁の汚れを削り取ろうと踏み込んだ。
戦況は優勢。このまま押し切れる。
俺がそう確信した、その時だった。
「あ、洗剤が足りません! 追加を持ってきますね!」
クルミが新しいバケツを持ち上げようとして――何もない平地で、足をもつれさせた。
「あ、ふぇ……?」
固有スキル『ドジっ子』、発動。
ガシャンッ!
盛大な音と共に、クルミが転倒。
抱えていたバケツが宙を舞い、中身の原液が廊下一面にぶちまけられた。
それはまるで、氷魔法で地面を凍結させたかのような惨状。
「わぁっ!?」
壁に向かってダッシュしていた陽奈が、足を取られる。
ツルッ!
摩擦係数がゼロになった床で、彼女の体勢が大きく崩れた。
「なっ……!? こ、これは……!」
陽奈は転びながら、叫んだ。
「敵の『粘液攻撃』だぁぁぁっ!!」
「違う! ただの洗剤だ!」
俺のツッコミは間に合わない。
陽奈は止まらない。いや、止まれない。
勢いのついた彼女の体は、ヌルヌルの床を滑走するカーリングのストーンと化していた。
「くっ、負けるかぁぁ! このまま突っ込むぅぅ!」
陽奈は転倒のエネルギーを攻撃力に変換し、スクレイパーを突き出したまま、壁に向かって一直線にスライディングした。
キィィィィィィィィン!!
金属とコンクリートが擦れ合う、耳をつんざくような高音が響く。
制御不能の暴走列車となった陽奈は、壁の汚れを一直線に削り取りながら、廊下の端から端へと滑り抜けていった。
「うわあああ止まらないぃぃぃ!」
「うぉっ!? 部長、こっちに来るな!」
「きゃあああ! また滑りましたぁぁ!」
金剛が巻き込まれて転倒し、クルミが起き上がろうとしてまた転ぶ。
夜の校舎は、洗剤まみれの人間たちが悲鳴を上げて滑り回る、地獄のローション相撲会場へと変貌していた。
「……これが、討伐戦……?」
一人安全地帯にいた俺は、頭を抱えた。
カオスすぎる。
だが、壁の汚れだけは、陽奈の特攻によって確実に(そして無惨に)削り取られていくのだった。




