影を殺す
先ずはコップに水を入れて一気に飲んだ。
僕は十分に眠ったらしく嫌に頭が冴えていた。
影? 気になることは気になる。
しかし今まで同様、質素倹約に努めて、瞑想を中心にした生活を行えば答えには近づくだろうな。
僕はそう自分の意識に太鼓判を押した。
すると突然、ヒカリの声が頭か心か体かわからないところに響いた。
「これがテレパシーよ」
普通の人間にこんなことができるのか。
いや、もしかしたら、僕はもう普通の人間ではないのかもしれない。
どこかで運命の歯車が日常とは別の世界に連結してしまったのだろう。
「聞こえている?」
僕は意識を集中して頭の中でそう呼び掛けてみた。
「聞こえているよ」
「君は答えを知っている。僕はこれからどう生きていけばいいんだろう?」
「私にわかるのは大きな流れだけ。あなたは大河に棲む魚。あなたの思うように生きていれば、やがて流れの本質を知ることができる」
僕は、自分の頭を使い考えた。
大きな流れというのは、仏教で言うところの縁に当たるだろう。
少なくとも、過去の自分でありのままに生きていたら、ここまでの進展はなかっただろう。
聴こえてるとか聴こえてないとか、人に言えば、精神病の世界だ。
いや、精神の病を患う人たちは実は本人で気が付かないだけの修行者なのだろう。マインドの世界は一つの現象がいくつもの表層意識の結果として現れている。時にその逆も存在してるのだろう。
僕は、そのような仮説を立ててみた。
そうなのだ。この世界は意識の世界の表層に過ぎない。
マインドの世界を深く知れば、どんなことだって起こり得る。そこでは、ミサキはまだ死んでいない。僕達は幸せになれる。
だけど僕には一つだけ気になることがあった。
僕の心に宿った憎しみが、僕自身を表す歪みというか、ノイズのような存在として残っているのだ。
これを消すにはどうしたらいいのだろう?
僕は、テレパシーでヒカリに聞いてみたかったが、自分自身で答えを出すようにした。
人間は未熟な生き物。高次の生命体に近づくには、意識の改革が必要なのだろう。
そう考えると、何があろうとなかろうと、憎しみは昇華させねばなるまい。
僕は、ヒカリに更に高い次元の瞑想について指示を仰ごうと思った。
ある朝、僕は鏡の前に立った。少し前と違ってそこには普通の青年が立っていた。以前は痩せてて目が飛び出たように大きくて、まるで何かを睨み付けているような男がいた。
今は違う。死相なんてものとは程遠い。
鏡越しに自分の瞳を覗き込む。
その時、何かが横切った。
いや、横切ったように感じた。
僕の目の奥の方に何かがいる。何かが棲んでいる。
「それが引き裂く影よ」
ヒカリの声が耳元で囁いた。
それと同時に「刹那」という言葉が浮かんできた。
「そう、人間は、常にその命運を天秤にかけられてるわ。引き裂く影はやがて刹那になる。それは具体化した顕れよ」
彼女は僕の思考をテレパシーで読み取ったようだ。
「刹那は避けられないのかな?」
「全ての刹那は避けられない。でも娑婆でもよく言うでしょ。間一髪とか、そんな風に」
「じゃあ、全ての刹那が避けられなくても、いつかは光の内側に入れるんだね」
もう口に出さずに念を送り会話を作っていた。
「人間の内に宿る時、それは負の感情として作用する。それが『引き裂く影』。この世界の物理法則のもと具現化したものを『刹那』と呼ぶの」
ヒカリの声が少し遠くなる。混線している?
「そいつはもうすぐ出てくる。だけど、あなたなら戦い方を知っている」
その時、僕の目から影が伸びてフローリングの床に落ちた。
僕の目の前にそれはいた。
これが刹那。深海の生き物のようなグロテスクな姿。
その存在は背後に闇を纏っていた。
「そいつはこの世界の法則のもと動く。そして、法則を歪めるもの」
「僕は、戦い方なんて知らないな」
「いえ、知ってるわ。正確に言うと思い出すのかしら」
不思議に刹那の狙いが本能的に見抜けていた。
「こいつは他人に憑依するんだろう、違うかな」
僕にも、そういう事になると憑依していた事になる。
「刹那は人間界の存在ではないわ。冥界の中で神話の時代から生き抜いてきたの」
ヒカリの声は続けた。「意識を集中して。呼吸があなたを助けてくれる」
呼吸を整えて瞑想状態に入る。
するとその時、不思議な感覚が僕の右手を包んだ。
何も持っていない筈なのに重みを感じる。
そこに目をやる。僕は光で出来た剣を握っていた。
刹那は全身で鼓動するように身を震わせた。僕は剣を構える。
その瞬間、刹那は目の前から消えた。
「居合いね、今のは。完全に消滅したわ」
僕にも居合いは分かる。しかし今、自分がした事が居合いというのは今ひとつピンとかなかった。
「本当に剣で切るわけではないわ。心で切るの」
取りあえず最初の刹那との戦いから開放されて、猛烈に眠気を感じていた。
「あなたには役目がある。これが全て決まっていたことだと言えば、あなたは怒るかな?」
「全て? ミサキの死も含めて?」
ヒカリの声は何も答えなかった。そこで「通信」は終わったようだ。
刹那のいた名残のようなものが部屋に残されている。淡い闇がそこに居座っていた。しかし、それもやがては霧散していく。
僕は自分の心を内観してみる。憎しみは、引き裂く影は、本当に消えたのだろうか。
それは今の僕にはわからなかった。だけど、これだけは言える。僕は運命の扉を開いてしまった。恐らくもう後戻りすることは出来ないのだろう。