ミサキと鴨瀬川(不安・青春・聖母マリア的妊娠)
「死にたいってどういう感覚なの?」
ミサキは僕の顔を覗き込んで言った。
「死というのは感覚でなくて観念なんだ」
僕はもっともらしい事を言ってはぐらかした。
しかし、全くの出鱈目でもなかったと思う。
死にたいと思うことと実際に死ぬことの間には天地の差があることくらい僕にもわかる事だった。
ミサキは生まれた時、美咲という名だった。
本人は美しく咲いていないという実感からミサキに名を変えた。
「じゃあ、あなたはその観念に支配されてるっていうこと?」
ミサキはどんぐり目を器用そうに左右に動かした。
もし十三番目の客人ロキが現代に生きているとしたら、そんな仕草をしたかもしれない。
春の日差しと観念としての死。そして、名前を失くした女。
全てが嘘みたいで、それでいて嫌に生々しい。
それは十一歳の頃に感じた性欲のプロトタイプに似ていた。
彼女と僕は、あまりにもピュアだったのだろう。
疑ってかかるということが苦手で、社会悪とか組織についてはまるで無知だった。
だからとある宗教団体に傾倒していったのも自然の成り行きだった。
そうなのだ、僕たちはナリモア教団という新興宗教の信者だった。
僕はミサキとその教団の集会で出会った。
神道とキリスト教をミックスにしような奇妙な教団だった。
僕はその頃ひどく若かったが、希望というやつの存在をどうも信じられなかった。
ミサキだって同じだった。
ただ、若ささえあれば、絶望の中ですら息をすることができる、という言い訳はできたかもしれない。
そして、息をするためにナリモア教団に所属していたとも言える。
川面に小石を投げると、水滴が上がり波紋が拡がった。
それは若過ぎる死を暗示しているように思えた。
なぜだかはわからないけど。
鴨瀬川には、いつもと同じようにカップルが等間隔に座っていた。
時間は夜の街がその欲望の火を灯す仕度をしている時間だった。
素朴な学生であろう恋人たちと本能を剥き出しにしている夜の街。
「ねえ、私、妊娠したみたいなの」
ミサキの声は奇妙な冷たさを宿していた。
「妊娠?」
中空では鳶が回旋している。何か獲物を狙っているみたいに見えた。
それはひどく空虚な風景だった。
妊娠? 僕にはその言葉が遠い外国の言語のように聞こえた。
「ちゃんと病院で調べてもらったの?」
妊娠してるという彼女のコメントから僕は、ズボンのポケットの煙草を取り出すのに躊躇した。
「生理が遅れてるの」
「思い当たる節はある?」
「ないわ」
「もしも妊娠してたらどうするの」
「わからない」
僕はこの短いやり取りで自分の頭の中が混乱していくのを感じた。
「思い当たる節がないというのは?」
ミサキは向こう岸を睨み付けて軽い溜め息を付いた。
しぼんだ風船から最後の空気が漏れ出ていくような溜め息だった。
「聖母マリア」とミサキは小声で答えた。
どういうことなのか、一瞬頭の中が真っ白になった。
「聖母マリアってイエス・キリストの母の?」
彼女は肯いた。
「僕には、さっぱり理解できないけど」
「夢を見たわ。この子は地球の子なの。終末のこの星を救う人間に育つわ」
彼女の声の調子に気圧されして、僕は言葉に詰まった。
そして頭を過ったのは、彼女を精神病院に連れていくべきではないかという考えだった。
「本気で言ってるの?」
「本気も嘘も私にはないの。ただそうだって知っているだけ」
「キリストの再来ってこと?」
「夢を見たの」
ミサキは僕の言葉を半分聞いていないみたいだった。
「夢の中で私は一匹の鹿だった。何かに追われて逃げていた。それで、荒れた獣道を走ってると、そこに光の柱が現れたの」
何を言っているのか、僕には見当もつかなかったが、冗談ではないことは分かった。
鹿、獣道、光の柱から何かを読み取ろうと試みたがうまくいかない。
僕は、精神科のカウンセラーではないのだ。
彼女の体験は彼女だけの特有のものなのだ。
何ものにも例えられないし、また他人が意見することなど断じて不可能なのだ。
だけど、理解し難いその話の中にもきっと真実は含まれている。
「光の柱は私に語り掛けてきた。これを受け取りなさいって言ってた。そこで、柱から放たれた光の玉が私の中に入って来たの」
ミサキは腹部に両手を当てて、撫でるように微かにそれを動かした。
「今、光の玉は私の中で育っている」
「僕にはよくわからないんだけど、どうして『夢の中』の出来事を、君は、つまり、現実に引っ張り出してきたのかな」
「だって、そうでもしないと脈絡がないじゃない。夢を見たから妊娠したのか、それとも妊娠したから夢を見たのか。いずれにせよ、繋がっているの」
「僕は、産婦人科に行く事を薦めるよ。ソレから精神科の心理カウンセラーの相談もね」
僕は、病気だとは思わなかったが、こういう深層心理に関してはカウンセリングのほうが適してると思った。
その後、僕らは一言も話さず、ただ鴨川の流れを眺めていた。
水は深く広がり、海を目指してその脚を速めているようだった。
なんでもない風景。
ミサキが蚊の羽音にかき消されてしまいそうな溜め息を付いた。
それを合図のようにして、僕は立ち上がった。
「そろそろ行こうか」
「どこへ?」
「病院だよ」
「どちらの」
「両方だけど、先ずは産婦人科からにしようか」
彼女にとっても至極当然なのか、すんなりと納得している様子だった。
「僕は、どういう結果なろうと君を見捨てない」
「ありがとう」
ミサキの声の調子や沈黙の間合いは、僕達の関係をつぶさに現していた。
そう、僕はミサキを見捨てない。
ミサキを傷付ける何かから守りたい。
本気でそう思っていた。
実のところ、僕はミサキのことが好きだった。
彼女の無邪気そうな笑顔や透明な肌に浮いたそばかすなんかは、僕の心を無闇に浮つかせた。
ミサキは僕を大事にしてくれた。
しかし、そこに男女の関係としての感情があるかどうかは、正直わからない。
僕以外の他人に対しても親切で純粋な態度だったと記憶している。
一ヶ月後のクリスマスの日、彼女は死んだ。