歌劇?!誰の、何の?!
全くどうしたものか。
そう思いながら帰ろうかという時、逆方向から聞き覚えのあるような声が聞こえた。
「……御免遊ばせ。少し宜しいかしら」
振り返って、目を見開く。
そこに佇んでいたのは他でもない、歌姫ベアトリスだったのだ。
「さあさあ、お掛けになって。
欲しいものは何でも、幾らでも頼んで下さいな。
私の都合でお時間を頂くのですから」
「それはありがたいことですが……
一体、これは」
連れて来られた場所は以前、黒髪男と密談した劇場内の喫茶店だった。
流石歌姫と言うべきか、入っただけで心得たように奥の席まで案内された。
相変わらずきららかな空間の中で、ヘリアンサスは相手の真意を測れず頭を捻る。
リリウムは隣で、そろそろと視線を巡らせていた。
「以前、こちらにもいらして下さいましたでしょう?
あの時は舞台におりましたから、お話はできませんでしたが……」
「まあ……お気づきだったのですか?
あの舞台から、大分離れた客席にいましたのに」
「銀の御髪ですもの、誰もが分かります。
まして聖女様は、ここのところ国中の噂の的ではありませんか」
……聞けば聞くほど、つくづく美しい声である。
鈴のように澄み渡り、同時に豊かな深みも感じさせる声だ。
声だけ聞けば年齢を勘違いしてしまいそうなほど、それは若々しく麗しい。
「……実は、聖女様とずっとお会い致したかったのですわ。
ああ私ったら、年甲斐もなく喜びに胸が震えております。
こんな気持ち、いつぶりかしら」
そう微笑む仕草は何と言うか、上品ながらとても可愛らしい。
可愛いとは年上の婦人に失礼な言い草かもしれないが、ヘリアンサスはそう思わずにいられなかった。
「……それで、一体、どういったご要件でしょうか。
お聞きになりたいことでもあるのか、それとも何かご迷惑でもおかけして……」
「まあ!いいえ、そのようなこと、あるはずがないではありませんか。
聖女様は国境を救った御方として、名が轟いておいでですのに。
ひょっとしてご自覚がお有りではない?
聖女様に近づきたい、聖女様のことを知りたいと願う者は、今アルクスに大勢いるのですよ」
「私など、そのような大した存在ではありませんわ。
ただ託宣に従ったのみでして……」
「それが大変な偉業なのではありませんか。
ましてそれで行動を起こし、ノックス侯爵を動かしてしまわれたのですから。
……そう、それについて、是非とも話が聞きたいのですわ」
そこで一度話を止め、運ばれてきた茶で口を湿らす。
「……私が王立劇場で歌っていたということは、ご存知かしら?」
と再開した歌姫は、明らかな期待の籠もる目をしていた。
「王都の歌劇では聖女様を題材にしたものがとても多いのですわ。
神殿の本部も鎮座しておりますし、都自体がパエオニア様のお名前を戴いているのですもの、当然ですわね。
私自身、幾度も聖女様の役を歌い上げる機会に恵まれました」
「それは、はい。
私自身は王都の生まれではありませんし、神殿に入ってからも城下に出ることがなかったので、実際に目にしたことはございませんが。
お話は聞き及んでおります。
聖女制度が廃止された後も、伝統として伝わり続けていたのですよね。
三年に一度は聖女に因んだ祭りと、盛大な興行が開催されるとか」
「まあ、良かったわ。
でしたら話が早いのですけれど……
ヴェスパータの件について、新たな歌劇を作りたいと、そのために聖女様にお話を聞いて来てはくれまいかと、王都の知人に頼まれたのですわ」
思いがけぬ成り行きだった。
少し驚いてしまい、返事が遅れる。
それをどう受け取ったのか、歌姫は更に言葉を連ねた。
「如何でしょう?
誰もが現代に蘇った聖女様の御光に預かりたいと願っているのですわ。
知人は脚本家なのですけれど、もしご了承頂けたならば正確を期して、きっと聖女様にもお喜び頂けるものにすると言っています。
ご検討頂けますかしら」
「し、少々お待ち下さいませ。
……いえ、いえその、正確性とかそういう問題ではなく……」
まさか、そんなことになっているとは。
ヴェスパータでの諸々を思い出し、くらりと目眩がした。
話は分かった。分かったが、あの一連をあれこれ脚色美化されて、きらきらしく劇場で歌い上げられるかと思うと寒気がする。
本当に勘弁して欲しい。
そんな恥に耐えられるほど頑丈な心はしていない。
確かに生き残るためにペテンを仕掛ける覚悟は決めたが、それとこれとは別物だ。
結局あれやこれやと言葉を濁しながら、丁重に辞退したヘリアンサスだった。
将来的なことはともかく、今の時点ではとてもではないが諾など返せない。
歌姫は残念そうな顔をしつつも、
「お嫌なら仕方ありませんわね。
でもまた、お話を聞かせて下さいましね」
と引き下がってくれたのだった。




