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誰がおとなしく死ぬものか!

パエオニア暦835年、アルクス王国、ブラウ砦――


鉛色の雨が戦場をけぶらせていた。

それでなくとも目が霞み、視界は判然としない。

それは彼にとって幸福なことだった。

鼻は麻痺し、血の臭いももう分からない。

ただ歩く時、何かが足にぶつかる感覚だけが、仲間の死体の存在を知らせていた。


数刻前の喧騒が嘘だったかのように、辺りは静まり返っている。

動くものは、数少ない生き残りの幽鬼のような影だけだ。

彼ら兵士はただ喪心して、死傷者を回収し、血塗れの武器や防具を拾い集めている。


どこから、何を、間違えたのだろう。呆然とそう思う。


十年前、国境線の諍いを端緒に、北東の隣国リゲルとの戦争が始まった。

勇壮を讃えられた先王自らが率いたアルクス軍によって、一時期は破竹の進撃が行われ、勝利は確実と言われた。

ところがリゲル南部の主要都市イージスを目前に、先王が急死した。

そのためにアルクス軍は大幅に押し返された上、本国では王位継承争いが激化した。


押し返したリゲルもまた貴族間の争いに分裂しかけていた。

そうした事情から両国間で休戦協定が結ばれ、国境に束の間の平穏が訪れた。


五年前、リゲルの攻勢によって戦争は再開されたが、互いに身内の問題を抱え、膠着する筈だったのだ。

それなのに、この一月で転げ落ちるように戦況は悪化した。

そこに追い討ちをかけてきたのが二日前から始まった、このブラウ砦への襲撃だ。


不意の襲撃に戦線は後退し、兵が疲弊し、遂に今朝、砦が落ちた。


敵軍はこの砦を壊滅させ、略奪と虐殺の末、更なる犠牲を求めてライン要塞に向かって駆けていった。

占領こそ免れたものの、最早ここは砦として機能しない。


そしてブラウ砦が抜かれることは、都市部への道筋ができたことを意味する。

ひいては王都パエオニアへも戦線が伸びるだろう。

今このアルクスは、滅びの瀬戸際にいるのだ。


「聖女様、どうか、お祈りを。

……神よ。我らをお救いください。

我々の、聖女様の祈りを、お聞き入れください……」


雨は止まない。

凍って錆びた雨粒に、春のぬくもりはどこにもない。

ここはまるで鉛の地獄だ。


最早彼にとっては、その祈りが全てだった。



パエオニア暦835年4月17日、この日のブラウ砦の壊滅は、後に歴史の転換点として語られることとなる。


この敗北はアダルベロ地方のおよそ四分の一の喪失と、都市部への被害拡大を意味し、将のみならず時の聖女ヘリアンサスへの支持すら揺らがせるものであった。


聖女。

この存在については、誰もが知っていることだろう。

聖女とは、古来戦場の光であり、花であり、贄であった。


いつ、どうして始まったのかも定かではないほど、古くから彼女たちは祈りを捧げてきた。


言うまでも無いが、多くの場合において、戦の目的は勝つことである。

地形。陣形。兵力。兵站。

全てを万全に整え、必勝の条件と道筋を描くことができれば理想だ。


しかし戦場では時に、神の気まぐれによって、それらが崩壊することがある。


例えば風向きが急に変われば、矢は使えなくなりかねない。

地震によって陣形を崩されることもあるだろう。

対応に追われる間に時機を逸し、勝利を逃してしまう。

天変地異は、いかに名将でもどうにもならない。


人事を尽くして尚、努力では埋めきれない、人知の及ばぬ最後の要素。有り体には天佑というべきもの。

聖女は祈りによってそれをもたらし、勝利を導くことを求められた存在であった。

そして、それをもたらすことができなかった聖女の末路は――……



薄闇の中、美しい盃が佇んでいる。

深い深い青に、虹を湛えた宝石細工があしらわれたそれは、闇を吸って輝くようだ。


とりわけ美しい金剛石の輝きは、神々しくすらある。素手で触れることも憚られる、まさに究極の芸術品だった。


最上の素材のみで形作られたそれは、唇に含めばとろけるように冷たく、ほのかな甘さすらあるのだろう。

その中は重く黒く、艷やかな液体が満ちている。


それが何かを知っている。

ヘリアンサスはそれを飲まなければならない。

飲まなければ、ならない。

そうでなければ、許されない。


さあ、手を。

手を、伸ばして――……そして。


「――――っ!!」

声にならない叫びと共にヘリアンサスは飛び起きた。

最初に目に入ったのは、見慣れた寝具の白さだった。

鳥の囀りがどこからか響き、室内には朝の光が満ちている。

それを認識して、いつのまにか詰めていた息をやっと吐き出した

。寝ていただけなのに、激しく心臓が鳴っている。


今日も目覚めることができた。私は生きている。

今は、まだ。


胸中に燻る憂いを、重いため息にして吐き出す。


ここ最近は、寝ても覚めてもあの盃が瞼を離れない。

美しい盃。毒を満たした盃。


ヘリアンサスを殺す、盃。


それが夢などではなく、このままでは必ず実現する未来だと、分かっていた。


「ああもう、冗談じゃない……誰が大人しく死ぬもんですか……!」


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