現世 41
多分、意識を失っていたのはほんの数分。殴られた勢いで船から飛び出すほどだったと言うのに、頭はおろか体のどこにも痛みは無かった。それでも、脳震盪を起こし、海に落ちたのだから、本来なら、死んでいておかしくは無い。しかし、武流はスマホのバイブレーションで意識を取り戻した。ポケットからスマホを取り出す。勝手に立ち上がっていたその画面には見覚えがあるけれど、見知らぬ金文で描かれた魔法陣が浮かび上がっていた。
少しずつ記憶を呼び起こす。
周囲は暗かった。目の前を魚の群れが泳いで行った。
船が泊まっていたのは黄泉平坂鍾乳洞の入口の近く。そんなに流されてはいないはずで、水深も15メートル程か、全く光が届かない訳でも無く、スマホのバックライトで周囲の様子をある程度知る事が出来た。
左腕の時計はバラバラに分解され、大小の歯車やリューズや文字盤、バンドの一つ一つが、自分の周囲を回っていた。そんな不思議が起こるのだから、武流の体を守っているのは、大和の巫力のようだ。
時計を渡された時の言葉を思い出す。
「これが、”色々、付与した、か”・・・。どんなチートだ。」
武流は溺れるどころが、しっかりと呼吸が出来ている。何なら、好きなように動くこともできた。大和の結界は武流を包み込んで周囲の全てから彼を守っていた。
自分の目の前を泳ぐ魚が向かう先に、武流はありえない現実を見た。石垣島の海に眠る海底遺跡を思わせる石造りの建造物がそこにあった。
そして、その遺跡の前に、
「橘花?」
数か月前に手を掴めず失った最愛の姿。
「武流さん!」
「橘花!」
彼女は、見た事のない踝までの薄手のドレスにガウンをはおっていた。
恐る恐る伸ばした手はその右頬に触れる事が出来た。
「本物?」
もしこれが、死ぬ間際の幻であっても、彼女の腕の中で死ねるなら、最高だと思った。そのまま、右耳に触れる。橘花も武流の右耳に触れてくる。お揃いのオニキスのピアス。
「武流さん、会いたかった。」
零れた吐息を首元に感じ、たまらず、武流は橘花を抱き締めた。
次に、武流の意識が浮上した時、彼の体は、ベッドの上にあった。
「タケルニー!
ヤマト!タケルニー、目、開けた。」
『変な呼び方をするな。・・・橘花?これは、夢、か。』
自分をのぞき込んでいた金髪碧眼の異世界人を見て、武流は再び目を閉じた。知れず、溜息が零れる。
「武流兄?気分どう?」
「大和か?どうしてここにいる?」
「何、馬鹿言ってるの!助けに来たに決まってるじゃない!ちゃんと腕時計に付けた付与が働いて良かった。ここは安全だよ。伊勢の最新の飛行艇を持ってきた。取り敢えず、水分摂って。頭上げるけど、吐き気とかある?」
支えられた背中。喉を通る冷たい水には少しレモンの味がした。生きている事を体が思い出す。しかし・・・。
「何故、僕はここにいる?」
その言葉に込められた心底不思議そうな色に、大和は息を飲んだ。




