異世界 44
橘花の伸ばした手の先に、同じ様にこちらに手を伸ばす青年がいた。見開いた瞳。驚きに軽く開いた口。最後に見た空港での姿に重なる。春先より少しこけた頬が印象を鋭くしている。その口が音にならない名前を紡いだ。
《橘花?》
〈武流さん・・・。〉
堪えきれない涙が橘花の目から零れる。そのまま彼の胸に縋りついた。
〈やっと、会えた・・・。〉
「たけるさん?」
レイバンの眉間に深い皺がよる。
カーバンクルの檻に凭れ掛かる様に立っているキッカは、そこにいない誰かと抱き合うように、泣き笑いの表情を浮かべていた。見ている者全てが、彼女の目の前にいるのは、彼女の最も大切な者だと理解せざるを得ない、絶対的な愛情がそこにはあった。
「はは、ハハ、ハハハハハハ。脆い。何と脆い。この程度の幻覚に引っかかるとは!これが今の天津神の末裔か。これならば、もう待つ必要は無い。帰ろう、故郷へ。」
それまで頑なに口を閉ざしていたカーバンクルが、ここへ来て、突然、饒舌になった。その紅い瞳がヨハン王子に向けられている。
「残念だったなヒト族の王子よ。愚かで下等なヒト族の分際で、我を食らうだと?食われるのはお前たちだ!お前たちがどうあがこうと、この世界は、魔力が全て。魔素を取り込めぬヒト族など、母たる世界から愛されていない事の証。この世界において、お前たちヒト族は弱者。底辺の分際で、上位種たる我らに逆らう事の愚かさを身をもって知るがいい!」
そう叫んだカーバンクルは、海の向こうに呼びかける。「さあ、愛しい同胞よ、今こそ、共に豊蘆原の瑞穂の国に帰ろう。」
結界のむこう、ニーラカーナが身じろいだようなぞわりとした魔力の揺らぎがあった。
カーバンクルが落ちた角に額を近づけると、角の割面から、細い魔力の糸がしゅるしゅると伸びて、角が再び一つに戻ろうと動き始めた。
強引に結界を超えた為に折れた角が、元に戻れば、カーバンクルが力を取り戻す可能性が高い。完全に元の戻る前に何とか阻止しなければ。しかし、攻撃しようにも、魔物の傍にはキッカがいる。クラウスの足を止めた一瞬の戸惑い。
しかし、それは戦場では命取りとなる。その事を一番わかっている者が、迷うことなく一撃を放った。
カーバンクルの頭部、今まさに仮留め状態の額に、握りこぶし大の石がクリーンヒットした。その勢いは強く、カーバンクルは向こう側の壁まで吹っ飛ばされ、付きかけた角も弾き飛ばされた。
その瞬間、キッカの体は強い力で檻から引き剝がされた。
「やっぱ、こいつ、この手でミンチにしなきゃ収まらねぇわ。」
犬歯を剝き出しにして睨みつけるレイバンの左腕にはがっしりとキッカが抱きかかえられ、右腕は、落ちた角を回収するために檻の中に伸ばされる。
〈いやあ、放して!武流さん、武流さん、助けて!〉
「目ぇ覚ませ!キッカ!幻覚だ。幻。たけるさんってのが何かはわからないが、そんなもん、どこにもいねえ!よく見ろよ、お前の前にいるのは、俺だ!」
薄い夜着を通して、激しく音を立てる心臓の鼓動が直接レイバンに伝わる。はっはっと短く浅い呼吸が、彼女がパニックを起こしかけている事を示していた。
「キッカ、しっかりしろ。立てるか。ゆっくり息を吐くんだ。」
いやいやと首を左右に振る少女の固くつむった目の端から、涙が散る。
「ぐっ」
レイバンは、一瞬、苦しそうに顔をしかめると、その薄く開いた唇に口付け、息を奪った。




