異世界 42
結局、カーバンクルは一言も話さず、神子が領都に向かった後に、殺処分とする事が決まった。神子の出発後に決めたのは、今の、見た目だけは可愛らしいカーバンクルが殺されるのを、キッカに見せない配慮からだ。
いよいよ、明日、出立すると言う前夜。橘花は、何かに呼ばれた気がして、夜中に目を覚ました。微かな呼び声が、窓の外から聞こえてくる。隣のベッドで眠る春日の様子を見ても、特に変わった様子は無い。
橘花と春日のこの砦での部屋は、中庭に面した3階の角部屋。窓から見える風景は、中庭の中央に焚かれるかがり火ただ一つ。ぱちぱちとはぜる薪の小さな音だけで、今は、見回りの兵士もいない。
〈明日の出発で、気持ちが落ち着かないのかな。〉
小さくため息をついて、寝なおそうと思った橘花の目に、かがり火の前をパタパタと動く小さな影が映った。
《大変だ、大変だ。》
そう言いながら走っていくその影は大きな羽耳を持っている。二本足で小走りに走る右腕にステッキ。タキシードとシルクハットの小さなカーバンクルは懐から取り出した時計を見て、文字通り飛び上がると、砦の壁を通り抜けた。
〈え!?三月兎?〉
窓の閉まった3階の部屋に、篝火のはぜる音や地上の小動物のつぶやきが聞こえる筈が無い、と言う矛盾には気づかず、橘花は、慌ててガウンを羽織ると、部屋を飛び出した。
石造りの砦の廊下をつっかけただけの布スリッパで走る。
《大変だ、大変だ。急げ急げ。》
不思議な声が廊下に響いている。
いつの間にか、橘花は外に出ていた。
しくしくしく、しくしくしく。
どこかで誰かが泣いている。
しくしくしく、しくしくしく。痛いよう。
橘花の目の前に、羽を毟られ、角を失った痛々しいカーバンクルが横たわっていた。
〈どうしたの?泣かないで。〉
そう声をかけた橘花にカーバンクルは言う。
《僕はこっちの世界に来たかったんです。だから、頑張って和邇の背を跳んで海を渡ってきました。でも、こっちの世界にたどり着く前に、見つかって大切な角と羽を奪われてしまったのです。》
カーバンクルは涙ながらにそう訴えた。
《どうか僕に角を返してください。そうしたら、貴女の願いを何でも一つかなえて差し上げます。》
〈私の願い?何でも?〉
《はい。何でも》
にやぁ、と泣いていたカーバンクルは笑った。
どんなに望んだところで、クラウス・フォン・アインバッハは、第一王子が王都に帰る際に同行しない選択肢は無い。白騎士は王族の近衛が主任務なのだから。ヨハン第一王子の勅命を受けた今回の神子の護衛は、異例中の異例。後日、白騎士隊隊長に小言を言われることは間違いない。しかし、それでも、クラウスに後悔は無かった。本当は、ずっと、傍で護っていたいが、それは無理な話である事も理解している。ただ、別れの時が一日でも遅れる事を願うぐらいは許されるだろう。
ヨハン第一王子に割り当てられた部屋は、砦の最奥にあり、ここに達するまでに、少なくとも二か所の騎士の詰め所があった。
深夜、出立の手配をやっと終えたヨハンの元をクラウスが辞そうとした時、部屋の扉が音も無く開いた。
素早く剣を抜き、構えたクラウスの目の前に、夜着の上にガウンを羽織っただけのキッカが立っていた。




