異世界 39
目の前で繰り広げられている筈の魔物と人間の戦いを、橘花は見ていなかった。レイバンがかけてくれた赤騎士のマントを握りしめ、ぎゅっと目を閉じる。
〈武流さん、武流さん、武流さん。〉
その言葉しか知らない様に愛しい人の名を呼び続ける。そうしていれば、外の戦いの音も聞こえない。瞼の裏に武流の笑顔が浮かぶ。夏祭りの金魚すくいで何匹もすくって露店のおじさんを困らせた時の得意げな笑顔。遊園地でコーヒーカップをぐるぐる回して気分を悪くした後の気まずそうな笑顔。誕生日プレゼントをあげた時の嬉しそうな笑顔。成人式の振り袖姿を見せた時のはにかむような笑顔。
そして
美大の合格発表の日、花びら舞う桜の下でされた告白に頷いた時の、沁み込むような笑顔。
どれもが、橘花の宝物だ。
けれど、その宝物をどれ程胸に抱えても、たった一言、彼女を呼ぶ声だけが聞こえない。
〈武流さん!〉
縋りつくようにその名を叫んだ。
〈橘花?〉
「キッカ。
大丈夫だ。貴女と神子様は、命に代えても私が、私たちが守る。」
一瞬、愛しい人の声を聞いた気がした。しかし、続けて聞こえてきたのは、まだ学習中のこの世界の言葉で。内容を全てを理解した訳では無いけれど、低い落ち着いた男の人の声で。自分を励ましてくれていることは、その真摯な口調から感じられた。
この話し方を橘花は知っている。この世界に来てから、ずっと陰ながら見守ってくれていた人だ。周り全てを敵認識していた時期に自分を守ってくれようとした人。
そっとマントの隙間から見上げると、真っ白なマントが見える。広い背中。左前に大きな盾を構え、それを起点に車椅子の春日を護る障壁を構築している。右前には槍が突き立てられており、障壁前に迫った敵には直ぐに串刺しに出来るようにしている。手には弓。戦場全てを見渡して、的確に援護が必要な所に矢を射かけている。
クラウス・フォン・アインバッハは、白騎士隊第二席。近衛であるが故に、護る事に関しては、どの騎士より優れていた。あらゆる武器、防具を使いこなし、時と場合によっては、日用品、食器や羽ペンですら、武器として使う。そう言う訓練を受けている。他の騎士隊にはない特徴で、恐らく、そういう場面に出会う事が無いようにするのが、白騎士の一番の仕事ではあるのだが、もし、万が一に武装解除された状態であっても、王族を護る、その為の手段を身に着けた者だけが白騎士隊において席の名乗りを許されている。
彼は、ちらりと橘花を振り返って、不器用に笑って見せた。
こんな困難な状況で何もできない自分を安心させるためだけに笑ってみせる。それだけで、縮こまっていた心が解けた。
視界を覆う赤いマント。かすかな柑橘系の香りは、身に沁みついた血の匂いを誤魔化すためだ、と持ち主は言った。
「キッカの傍に、血の匂いをさせていられないからさ。」
そう言った本人は、既に全身魔物の血塗れで、それでもなお、戦うのを止めない。切れ味の悪くなった双剣を切る、よりは叩きつけて戦っている。
「ああ、みんな、みんな、死なないで。」
〈全くもう、橘花はホント甘いんだから。仕方ないなあ。〉
浮かんだ涙と共に零れた言葉に、反応したのは眠っているはずの春日。
〈だけど、また、これで、目が覚めるの遅くなっちゃうからね。〉
そう言うと、春日の体から、柔らかな木漏れ日を思わせる光の玉が浮かび上がった。それはふわふわといかにも場違いな長閑な気配を纏って、結界に向かって飛んでいく。
呆然と見送る橘花の目に、光の玉は、白兎が裂いた結界の上部にほわん、とぶつかったのが映った。
その途端、海岸一面を桜吹雪が襲った。先代の神子が張った結界に沿って桜の花びらが、レースを飾る模様の様に飾り付けられた。
「うぎゃあー!」
断末魔の叫びを上げ、結界を裂いていた白兎は桜の花びらに包まれる。
一瞬の後、断裂は修復され、足元には羽のような大きな耳と額に捻じれた角をもつ、ちょっと大きめな兎が瀕死の状態で横たわっていた。
「カーバンクル?」
不気味な人型二足歩行のモノクル・シルクハット・ステッキを装備したタキシード兎は、愛くるしい魔物・食用(美味)・戦闘力雑魚に変わっていた。




