異世界 37
魔物の島・ニーラカーナを望む海峡の砦には、今、現在、辺境伯領における最高戦力が集っていた。島を囲む結界は既に破られ、対岸のこの地に張られている二つ目の結界もヨハン王子の必死の修復にも拘わらず、少しずつ、その綻びを広げていた。このままでは、近いうちにこちら側の結界も失われるのは明らかだった。
ここへ来て、クラウスは初めて、事態の深刻さを知った。瘴気の濃さはスタンピードの樹海に負けない。これでも、春日が砦に入った後は、随分、マシになったと言う。兵士たちの表情から切羽詰まった焦りが抜け、砦を覆っていた重苦しさは軽減した。ヨハン王子が憎まれ役を買ってでも神子をこの地に連れてこようとした理由が分かった。
しかし、それは、束の間、一瞬の息継ぎでしかなかった。
橘花達が砦に着いた翌日。緊急を知らせる鐘の音に、砦の窓から外を覗いた橘花は、沖の島が大きく揺れるのを見た。
ニーラカーナが、動いていた。
島だと思っていた物、それは、巨大な魔物だった。海上に現れていたのは亀の甲羅部分で、その上に降り積もった年月が森を産み、森から生き物が生まれていた。亀の長い首が海面を持ち上げ、滝の様に海水が流れ落ちた。緑の木々の間から、鳥型の魔物が飛び立ち、甲羅に張り付いていた土砂が雪崩落ちる。首はまっすぐに天に向かって伸び、その魔物は目覚めを宣言する様に一声、長く鳴いた。
海と空と大地を震わすその光景に絶望しなかった者など、一人もいなかった。
あのいつも強気で戦いが何より好きな赤騎士特攻隊長のレイバンさえ、その背に差した双剣に手を伸ばす事すら出来なかった。
「何と言うものを目覚めさせたのだ。」
ヨハン第一王子は、約定を違え、結界の綻びを齎した血を分けた弟をこの時は心底呪った。
砦に集った全ての人が、なすすべも無く見つめる中、その巨大な亀の魔物の背中から、何かが飛びだした。時折、上がる白波の上を、白い何物かは、跳ねるようにこちらに近づいてくる。
「兎?」
異世界では兎は、服を着て、波の上を跳んで移動するものなのか?それは、可愛らしい兎が二本足で立つ姿ではなく、テーマパークにでもいるような愛くるさを誇張した着ぐるみの兎でもなく、むしろ、本物の兎の顔をした10等身・人間サイズ、やせ型手足長めの兎。ホラー映画に出てきそうな、擬人化したことで恐ろしさを増した兎が、何の冗談かタキシードにシルクハット、左目にモノクル、右手にステッキを持ち、軽快に白波の上を跳ねてくる。そして、呆然とする橘花たちの手前わずか数メートルの海上でピタリと足を止めた。
白兎はそこでステッキを左手に持ち変え、シルクハットをもつ右手は胸に、軽く右足を引き、腰を折り、見事に美しい礼をした。
「何と、美味しそうなお方でしょう。我が名は、インヴァス。白兎のインヴァスと申します。」
決して大きな声では無いのに、その自己紹介は、その場にいた全ての者の耳に届いた。そう言って礼を解いた兎は、左手のステッキで目の前の空間をトントンと叩いた。
叩かれた空間を中心に、レースの様な美しい光が一瞬だけ、可視化した。
「さて、この忌々しき封印も愚かなヒト族の裏切りによって解かれる時を迎えましたも。あなた方には、時代の証人になって頂くと共に、我らの糧となる栄誉を与えましょう。」
「特にそこの天津神に似た特徴をお持ちの貴女。」
タキシード兎は、橘花に向かって、右手を差し伸べた。
「貴女のような実に美味しそうな方は、他の誰でもない、この我が直接頂いて差し上げましょう。」
嬉しそうにそう言うと兎は大きく口を開いて笑った。ずらりと並んだ鋭い歯と、その悪意に満ちた笑い声に体が竦んでしまった橘花の目の前で、ステッキの先が黄金色の光を放ち始める。
兎はステッキを無造作に差し出した。先程と同じく、空間に美しいレース模様が浮かび上がり、それが、少しずつ、捻じれていった。
先代の神子が300年以上昔に織り上げた、見事な結界が、そのレースの様に編まれた繊細な美しさが、黄金の光を受けてとろりと溶け始めた。




