異世界 36
そんなのんびりとした日々は突然終わりを告げた。
ある日、孤児院の表に、たくましい軍馬にひかれた装甲の分厚い馬車が止まった。
「神子様を海峡の砦にお連れするのですか?」
クラウスは確認する。その表情は強張り、声も硬い。
意識の無い神子を戦いの最前線になるであろうニーラカーナを臨む海峡の砦に連れて行く覚悟は、流石に出来なかった。
「アインバッハ卿も気づいていると思うが、神子様は意識を失っていても、周囲を浄化されている。神子様に来ていただければ、ニーラカーナ方面で益々、濃厚になる瘴気が緩和され、騎士達の負担も軽くなる。大きな戦いが控えている今、彼らの戦力を少しでも温存しておくことは、辺境伯領だけでなく、ジュラ王国、ひいてはこの大陸全土の安全に繋がる。」
それは、いっそ、冷酷とも聞こえる言葉。彼女らの安全を一番に考えて動いてきたはずのヨハン王子の言葉とは思えなかった。
「それは、それはわかります。けれど、意志を封じられて、ご自分の身を護る事すら出来ない少女に些か、乱暴、と言うものでは・・・。」
誰も反論できない中、辺境伯から神子とその友人の身柄を預かるよう頼まれた孤児院院長が微かな抵抗を試みた。
「院長殿、今回の神子様の同行は第一王子である私の希望です。辺境伯閣下の許可も頂いており、決して、貴方に迷惑をかけるものではありません。私としても、神子様を危険にさらしたくは無いのです。アインバッハ白騎士隊二席。君は王家の近衛を務める白騎士です。引き続き神子様の傍で彼女を護る事を至上の命としなさい。」
王子の直接の命令にクラウスは逆らうことが出来ない。
「キッカ、あなた、は、ここで、まつ。」
周りの様子から、物々しい気配を感じ、春日にピタリを寄り添っていた橘花の前に、ヨハン王子が膝をつく。
「わたし、まつ?」
自分を指差し、小首を傾げる。それに、頷くと、ヨハンは立ち上がり、車椅子に座る春日を抱き上げた。そうして、そのまま、外に向かって歩き出す。一瞬、呆然としたものの、直ぐに、橘花は後を追いかけた。
「わたし、まつ。春ちゃん、まつ。」
ヨハン王子の腕をつかみ引き留めようとしたが、王子は立ち止まらない。
〈春ちゃん!〉
橘花の悲鳴が上がった。
〈何をするの!春ちゃんを離して!〉
〈嘘つき!私達を騙したの?守るって言った!春ちゃんをどこに連れて行くの?〉
「よはん!」
魂が引きちぎられそうな絶望を込めて叫ばれた己の名前にさえ、ヨハン王子は足を止める事は無かった。橘花は必至で王子の右腕を引くが、華奢に見えても彼はびくともしなかった。どんなに足を突っ張っても、橘花も引きずられ、食卓の椅子にぶつかり思わず、手を放してしまった。
〈春ちゃん!〉
ヨハン王子の背中で親友の姿は、わずかに足先しか見えない。
手を伸ばしても届かない。
信じられると思い始めていた。この国に来て、悪い事ばかりではないと、笑えるようになってきた。
けれど、それは、単なる勘違い。自分の身は自分で守らなくてはならなかったのだ。
橘花は絶望し、それでも、立ち上がろうとした。
「待てよ。」「止まれ!」「はるちゃんを放して!」「キッカを泣かすな!」
最初は小さな声だった。けれど、一人が声に出す事で、隣の者が勇気をもらった。パタパタと、小さな足音が、椅子を支えに立ち上がろうとする橘花の横を走り抜け、ヨハン王子の前に立ちふさがった。
それは、ヨハンの腰にも背の届かないような子供達。小さな両手を精一杯広げ、王子の行く先を塞ごうとしている。それは、この場で切り殺されても仕方がないと言える程の不敬。実際、青騎士の中には杖を構える者達すらいた。
「「殿下。」」
その子供たちを守る様に、二人の人物がヨハンの前に進み出て跪いた。
「彼女も、キッカ様もお連れ下さい。この異国の地で、たった二人きりなのです。例え、話が出来ずとも、キッカ様が神子様を心の拠り所としている事は、殿下もご存じでしょう?一時でも引き離されることは、どれ程の恐怖をもたらすでしょう。神子様もキッカ様と離れる事を、お望みになるとは思いません。キッカ様の安全を第一に考え、ここに残していくのが最善と判断してのご決断とは思いますが、殿下に悪役は似合いませぬよ。」
そう言ったのは、王宮の女官長の職を辞してまで、彼女たちの為に尽くしてくれている女性。
「神子様は私の一命を賭してお護り致します。決して、優先順位を間違えなどしません。どうか、ご許可下さい。」
キッカを連れて行く事で、万一の時に彼女に惹かれているクラウスが、神子よりキッカを優先する可能性を危惧している事をクラウスは正確に理解している。そうヨハン王子に思わせてしまった自分の不甲斐なさに歯嚙みしつつ、クラウスは深々と頭を下げた。
「物見遊山ではない。その言葉、違えるな。」
クラウスにそう言い捨てて、ヨハン王子は、キッカを振り返る。
〈あなたたち、まもりたい、それ、ほんとう。神子のちから、必要、それも、ほんとう。キッカ来る、きけん。神子まもる、必ず。キッカまもる、出来ない。よいか?〉
橘花は夢中で頷いた。
春日を車いすに戻し、ヨハン王子は一人馬車に乗り込んだ。
「直ぐに出立する。準備を。」




