異世界 24
初めて見たその人の印象は、大きな体と全身に纏う魔物の血の匂いにも拘わらず、とても暖かなものだった。護られる安心感、とでも言うのだろうか。間違いなく肉食獣なのに、我が子に向ける視線が慈愛に満ちたものであるような。
イザーク・プラハ=ハウゼン、と名乗った赤い騎士は、橘花の言い間違いに、嫌な顔一つせず、イザーク、と名のみを簡潔に告げた。だから、橘花も、キッカとのみ名乗った。ここでは、言葉が通じない。佐倉橘花と本当の名を告げたところで、春日以外は、その名を正しく呼んでくれはしないのだ。ならば、春日が目を覚ますまで、橘花はキッカとして生きていこう。
この世界は、魔物がいて魔法があって、戦いがある。平和な日本の一般人の佐倉橘花では生き残る事は難しい。春日は”伊勢の呪い””神隠し”と言っていたから、きっと事情を知っている。戻って来たスマホにも、”必ず助ける”とあったから、むこうで武流さんも大和ちゃんも頑張ってくれている。自分がする事は、助けが来るまで、自分と春日を守る事。生き延びる事。
知識が必要だ、と、切実に春日は思った。とりあえず、日常会話は可能になりたい。
青服のとても身分の高そうな人は、こちらの言葉を少し話す。透明なタブレットの様な物を持っていてそれを見ながら話をするから、辞書の様なものかもしれない。
貸してもらえないだろうか。でも、頼んだら、代わりに何か大変な事をお願いされそうで、怖い。
地下の泉の傍でお世話をしてくれた女の人が一番、信頼できる。でも、ここに一緒に来ている女の人たちはダメ。春日を大切にしているようで、面倒に思っていることがチラチラ伺えるから。他の目的があって、優しくしてくれている感じ。
白い騎士は、正直、まだちゃんと顔を見るのは恥ずかしい。
心の中で深くため息をつく。ふかふかのクッションに埋もれて眠る春日は、とても辛そうだ。熱が高い訳でも、呼吸が荒い訳でも無いが、悪夢から逃れたいのに目を覚ますことが出来ない、そんな苦痛。
突然、地震の様に馬車が揺れ、橘花は春日をぎゅっと抱きしめた。侍女たちの悲鳴が上がり、びっくりしている間に、赤い騎士が馬車から飛び出していった。
何が起きているのか分からなかった。もう、戦いは終わったのだと思っていた。青い人がゆっくりお茶を飲んでいたから。でも、今はその人も杖を持って春日の近くに膝をついて構えている。この人は信用できないけど、春日を守る、この一点についてだけは信頼している。春日を見る目が、とても澄んでいるから。だから、追い立てられるようにあの場所を出てきたのもきっと正解。たどり着いた先が魔物の溢れる戦場だったとしても、ここまで、橘花達に、全く危険な事は無かったから。
馬車の外は、砂煙が舞っていて、ガキンガキンと言う恐ろしい音が響いていた。けれど、青服の人の肩から力が抜けていたから、きっと、何とかなる範囲なのだろう。
そう思って橘花が胸をなでおろした時、楽し気な声で手を振られていた。
「ねえねえ、可愛い子ちゃん、誰っスか?」
五重の結界に張り付くようにイザークのアイアンクローから抜け出したレイバンが、馬車の中に向かって手を振っている。その先には、黒髪の少女が大きな瞳を更に見開いてこちらを見ていた。
レイバンは、興味深々な表情で、ヨハン王子の張った結界を突いている。
「あー、これ、割っちゃって良いかなー。あの子可愛いっスねー。めっちゃ好み。」
イザークが飛び出したまま、馬車の扉は開け放たれていた。
馬車の中は魔道具の光で満ちており、十分に明るく、外からも良く見えた。
扉は突然閉まった。
「うぉー、何あれ、何。秘密?秘密なの。隊長!」
静かに馬車の扉が再度開き、今度はそこから、ヨハン青騎士隊隊長が降りてきた。うっそりとしたその笑顔に、赤騎士達のみならず、直接の部下である青騎士達も思わず、後退する。
「イザーク殿、ここは任せます。私と青騎士隊は北の海峡に向かいます。」
「おう、だが、こっちにも数人魔法師貸してくれ。代わりに何人か連れてってくれて構わない。」
「遠慮します、と言いたいところですが、仕方ありませんね。」
「はいはーい。俺行きます!」「却下。」「何で!?」
レイバンとイザークのやり取りを傍目に、青騎士達は誰が残るかのを相談している。クラウスはレイバンの言葉に心を乱されている自分に困惑しながら、馬車の中の少女を思った。




